怖がり泣き虫吸血鬼

 ある時代のある場所に建てられた施設の名義が、国から軍に換わったことを誰も知らない。その施設には捕虜を閉じ込めるために作られた部屋があるが、それも、誰も知らない。捕虜ではなく吸血鬼が閉じ込められていることも、誰も、知らない。  余計な装飾の一切ない施設に、獣めいた男の叫び声が響き渡る。しかしその叫び声が外に漏れることはない。仮にも軍の研究施設だ。  強化ガラスに囲まれた部屋で、年の頃は三十後半から四十前半といった男が、藻掻き苦しんでいる。長い金髪を振り乱し、白い指で懸命に床を引っ掻き、少しでも苦しみから逃れようとしているこの男こそが、吸血鬼だった。目や鼻、口に耳といったあちこちから血を垂れ流し、言葉にならない声で助けを求めている哀れな実験動物が、吸血鬼なのだ。  ガラスの向こうでは、銃を持った屈強な男に守られ、白衣の職員たちが吸血鬼を観察していた。誰も彼も冷ややかな眼差しだ。中でも特別冷たい目をした眼鏡の職員が、眉をひそめ書類を見やる。

「《《あれ》》の再生能力を加味しても、この症状は軽すぎないか」

 眼鏡をかけた職員の冷たい声に、後ろに控えていた若い職員が身を縮める。眼鏡の職員は書類を突き返すと、ほかの職員に合図を出した。

「次のガスに切り替えろ。空気を入れ換え、《《あれ》》が再生し終えたらすぐ流せ」

 無慈悲な台詞に逆らう者はいない。吸血鬼は死ねないままに死ぬより苦しい思いをしながら、助かったと思う間もなく、新たな苦痛を味わわされた。  何度となく毒ガスを味わわされた彼は、吸血鬼であるが故に死ぬことも狂うこともできない。血と胃液と涙と涎に汚れた彼は再生しないまま実験室から引きずり出され、独房のような部屋へ戻された。  本来、人間の上位に当たる吸血鬼が、実験動物の扱いを受けることはありえない。だがこの吸血鬼――マルキオーレは、元は人間だった。  マルキオーレが吸血鬼になったのは五十年ほど前だ。この研究所に捕らえられてからの年月も、ほぼ同じだ。彼は吸血鬼としてあまりに弱く、人としても運がなかった。初めての狩りで、彼は職員を獲物に選んでしまった。  吸血鬼を探していた職員たちにとって、彼は理想的な実験動物だった。見事返り討ちに遭ったマルキオーレは捕らえられ、様々な実験の被験者として日々痛めつけられている。  よろよろと起き上がったマルキオーレは、鉄格子に縋り、しくしくと泣き出した。

「頼む、出してくれ。もう人は襲わない。だから私を、ここから出してくれ、トゥナート……」

 トゥナートというのは、眼鏡の職員の名前だった。彼はこの施設の責任者であり、二世職員でもあった。  マルキオーレが初の獲物に選んだのは、トゥナートの母だった。トゥナートの母は自ら獲物を狩る狩人気質の研究者だったが、トゥナートはその身体能力を受け継がなかった。彼はひたすらに、マルキオーレから得られる実験データにしか興味を抱かない。

「行くぞ」

 トゥナートはマルキオーレに言葉を返さず、警備員を連れその場を後にした。遠ざかっていく足音を聞き、マルキオーレは「待ってくれ」と鉄格子を揺らした。もちろん誰も、振り向きはしない。  マルキオーレは人間時代と合算して百年近く生きている。だというのに、恥も外聞もなく泣きじゃくりながら懇願した。聞き入れられるはずもないのに、子供のように繰り返す。

「ここから出してくれ。ここから出たら森で暮らすから。動物の血だけで生きていく。約束する。人間なんて襲わないから、お願いだから、もう私を許してくれ」

 鉄格子も鍵も、壁すらも、本来ならば吸血鬼には障害にならない。だのに彼は、鉄格子をねじ曲げるなり、壁を壊すなりして外へ出ようとしない。  一度だけ、マルキオーレは吸血鬼の膂力で脱走を試みたことがある。しかし出た先で聖水を雨のように浴びせられ、死の手前まで溶かされた。  自身の人間性で監視員を泣き落とし、脱走を試みたこともある。しかし待ち構えていた警備員に、燃え尽きる直前まで陽の光を浴びせられた。  マルキオーレは臆病だ。マルキオーレは痛がりだ。マルキオーレは、何より〝死〟が怖かった。だからもう、自力で外へ出ようとしない。出してもらえることを、許してもらえることを願って、泣きながら懇願するほか道を選べなかった。  職員たちは情けないマルキオーレを心から見下し、軽んじていた。何せマルキオーレの情けなさは、これだけにとどまらない。  マルキオーレは初めての、そして貴重な吸血鬼のサンプルだった。だからこそ死ぬような目に遭わされながらも、再生に必要な血は与える必要があった。だから職員たちは、マルキオーレに生きた人間を与えた。  先にも述べたとおり、マルキオーレは怖がりで臆病だ。重ねて、気も弱い。吸血鬼になっても未だ人間に同族意識を持ち、殺すのを怖がり、ためらってしまう。  マルキオーレは人を殺したことがない。  トゥナートの母に近づいたときも、殺すつもりはなかった。紳士的に近づき、血をもらえるよう頼んだ。だから間抜けにも捕まった。  自ら望んで成り果てたくせに、マルキオーレは吸血鬼らしく血を吸おうとしない。お陰で職員たちは、逃げ出そうとする浮浪者を自分たちの手で殺さなければならなかった。  呆れるほど手間暇かけて与えられた血だが、最後に飲んだのは半月ほど前になる。老いた浮浪者の血は栄養が足らなかったらしい。マルキオーレの再生力はここ最近落ちている。職員たちは仕方なく、新たな餌について考えた。  この臆病な吸血鬼のために手を汚したくはない。ではどうすればいいか。怯える必要のないほど弱い餌を与えればいいのではないか。  結論を出した彼らの行動は、恐ろしいほど早かった。

 最後の実験から三日後のことだった。  硬い足音を響かせながら、警備員を伴ったトゥナートがやってくる。うずくまり泣き濡れていたマルキオーレは、顔を上げて格子の向こうを見た。冷たい目をしたトゥナートは、手早く鍵を開けマルキオーレに〝餌〟を押しやった。

「子供ならお前でも失敗しないだろう」

 鍵がかけられる音を聞きながら、マルキオーレは目の前に押し出された子供を見つめた。  薄汚れた格好から、子供が捨て子、もしくは浮浪児であることが窺える。髪が黒いのは汚れではなく、異国の血だろう。輪郭や体つき、マルキオーレが膝をついた状態でも見下ろす背丈から、まだ五つ程度に見える。伏せがちな目はどこか焦点が定まらず、ぼんやりしている。マルキオーレが久しく見ていない、青空のような瞳だった。  職員が「さっさと食べるように」と言い残し、足音を響かせ離れていく。子供はぼんやりした目で、マルキオーレを見つめた。抜けるような青空の目を見つめ返し、マルキオーレは血のように赤い目から、ぶわりと涙を滲ませた。

「わ……私のせいで、とうとうこんな子供まで……」

 涙は止まらず、マルキオーレの病的に白い頬を濡らした。頬を伝う涙は床に落ち、見る見るうちに水たまりを作る。  成人し中年の域にあるというのに、子供のように泣き出す大人。そんなもの、子供は初めて見たのだろう。伏せられていた青空の目が、驚きに見開かれる。  子供は眉を八の字に下げ、逡巡するようにマルキオーレの顔と床の水たまりを見比べた。迷いを吹っ切るように首を振ると、子供はおずおずと、爪先立ちになってマルキオーレに手を伸ばした。

「よし、よし。いいこ、いいこ」

 小さな手が、泣きじゃくるマルキオーレの頭を撫でる。驚いたマルキオーレはぴたりと泣き止んだ。泣き止んだマルキオーレを見上げたまま、子供は汚れた金髪を撫で続ける。

「おじさん、かわいそ、かわいそ」

 マルキオーレの目に、新たな涙が浮かんだ。今度の涙は、哀れみではなく感謝の涙だ。

「すまない、きみのような子供に気を遣わせて……まったく、私は本当に情けないな」

 マルキオーレの言葉が難しかったのか、子供は手を止め、不思議そうにマルキオーレを見上げた。青い目が、赤い目を見つめる。マルキオーレはますます自分が情けなくなった。

「私のせいでこんなところに連れてこられて、私のせいで未来を閉ざされてしまって、本当に……本当に、可哀想だ」

 白い手が、子供に伸ばされる。鋭い爪の生えた恐ろしい手だ。子供は爪が見えていないかのように、怖がる様子も泣くマルキオーレの手を受け入れた。

「私が痛がりで、怖がりで、どうしても生きたがりなせいで……謝っても、謝りきれない」

 泣き止んだものの暗い顔をするマルキオーレに、子供は困った顔をして言葉を紡いだ。

「おじさん、ごめんなさい、じゃない。わたし……わたし、おとうさん、いない。おかあさん、ベッドで、おきない。わたし、はたらけないから、いらない。はたらけないの、ごめんなさい」

 拙い言葉でも、この子供が売られるなり捨てられるなりしたことがわかった。たとえ娼館に売られたとしても、この施設に比べれば幸せな場所だろう。  マルキオーレは、優しい声で子供に尋ねた。

「お嬢さん。お母さんに会いたいかい?」

 小さな青空に、マルキオーレの静かな顔が映り込む。子供はマルキオーレをしばし見つめ、小さく、うなずいた。マルキオーレは「そうか」と眉を下げた。

「ではいつか、私と一緒にここを出よう」 「でられる?」 「出られるよう……頑張るよ。それまで、私の話し相手になってくれるかい?」

 マルキオーレの問いに、子供は大きくうなずいた。マルキオーレは照れくさそうに「ありがとう」と微笑んだ。

「名前を聞いてもいいかい? 私はマルキオーレ。きみは?」 「メリナ」 「メリナか。素敵な名前だね」

 鋭い爪の伸びた手が、そろりと伸ばされる。

「よろしく、メリナ」

 メリナはマルキオーレの手を見つめ、ちら、と赤い目を見上げた。その目が不安そうな色を浮かべているのを見ると、小さな手で大きな手を握った。

「よろしく、マルキオーレおじさん」

 こうして、マルキオーレとメリナの共同生活が始まった。

 部屋から連れ出され、実験から戻るたび襤褸雑巾のようになる。それでもマルキオーレは部屋に戻ると、メリナに自らの過去を語った。

「かつて私は、人間だった」

 血を飲むこともなく実験を重ね、マルキオーレの再生能力は著しく落ちている。殺さないならメリナを殺すと脅されても、マルキオーレは頑として拒んだ。メリナを殺したら自分も聖水を浴びて死ぬと訴え、彼らしからぬ眼光で職員たちを怯ませた。  吸血鬼としての威圧感を初めて発揮したマルキオーレは、メリナへの食事提供を約束させた。

「私はね、病を患っていたんだ」

 メリナはマルキオーレから食事のマナーを教わりつつ、彼の昔話を聞いた。

「治せない病だった。痛みに苛まれながら、徐々に動けなくなる病なんだ。意識はあるのに、瞼すら動かせない。生きているのに死体のように見える。痛みに蝕まれながら、ゆっくりと体が死体になっていく。恐ろしいだろう?」

 実験を重ねるたび、マルキオーレの部屋に家具が増える。メリナが眠るためのベッド、メリナが食事を取るためのテーブルという風に、ただの独房が住みよい部屋に変わっていく。

「吸血鬼になるというのは、私にとってはとても魅力的だった」

 昔話のマルキオーレが吸血鬼になる方法を調べ始めた頃には、現実のメリナはすっかり食事のマナーを身に着けていた。

「私は生きたがりだからね。今死ぬか後で死ぬかなら、迷わず〝後で〟を選ぶ。少なくとも、動けないままゆっくり死ぬよりずいぶんいいと思ったんだ」

 実験後の昔話は、就寝前にも語られるようになった。

「幸いにも私には先祖から伝わる財産があった。結婚もしていなかったからね。後世に残すなんて考え、これっぽっちもなかった。使える手は何だって使ったよ」

 昔話の中で吸血鬼になる方法が見つかる頃、メリナの衣服は清潔感のあるものになった。マルキオーレは相変わらず軽んじられているが、守るものができた彼は以前より情けない面を職員たちに見せなくなった。

「必要なものはすべて揃えて、私は吸血鬼になる儀式をした。本物の吸血鬼を呼ぶのは、怖かったからね」

 儀式を無事に終え、マルキオーレは吸血鬼になれた。しかし先にあるとおり、その後の彼は無事ではない。

「吸血鬼になれたって、身体能力が向上したって、その使い方を知らなければ無用の長物。無様にも、私は実験用の鼠となってしまった。初めての狩りで選んだのがここの職員だったなんて、本当に、私には運がない」

 メリナには学がない。マルキオーレの扱う語彙は時折、メリナに首を傾げさせた。その度にマルキオーレは話を止め、難しいと感じた言葉を解説した。

「どの言葉がわからなかった、メリナ? そうか。それはね、こういう意味なんだよ」

 読み書きができないことを知ると、マルキオーレは自分の指を噛んで血を流し、血をインク代わりに文字を教えた。

「メリナ、字は書けるかい? そうか。じゃあ書けるようになろう。きみの名前はこういう綴りだよ」

 紙とペンでは物証が残る。マルキオーレはメリナに教えることを、職員に知られるわけにはいかなかった。

「外に出たいだろう、メリナ。母親に会いたいだろう。私が教えることは、決して彼らに知られてはいけない。でないと、外に出られないからね」

 テーブルに、床に書かれる血文字の知識を、メリナは柔らかな頭で吸収した。  読み書きのほか、マルキオーレはメリナに「淑女たれ」と教育を施した。言葉遣いに仕草、姿勢など、彼が知るすべてを彼女に吸収させた。

「おじさん」 「おじさま、と呼ぶ方が上品だね」 「おじょうさまみたい?」 「そうそう。お嬢様のように振る舞うんだよ。品のある人を侮る者は愚か者のみだ」

 繰り返すだけの日々だが、時間は確実に流れる。メリナが見る見る健康的に育つのに反比例し、マルキオーレは弱っていく。  ベッドを使わず部屋の隅で丸くなるマルキオーレの傍らに、品ある少女に育ったメリナが膝をつく。

「おじさま、吸血鬼なのにどうしてわたしの血を飲まないの? これから実験に連れてかれるのでしょう? そろそろ本当に、襤褸雑巾になってしまうわ」 「どうして?」

 気怠げに顔を上げ、マルキオーレは弱々しく笑った。

「どうしてなんて、決まってるじゃないか」

 くすんだ金の髪が流れ落ち、マルキオーレの顔に影を造り出す。

「友人の血を飲むほど、私は落ちぶれちゃいないからさ」

 恩人のそんな顔を、メリナが黙って見ているわけもない。メリナは「そう」とうなずくと、ためらいもなく自分の指を噛み切った。ぽたぽたと、赤い血が床に落ちる。自らの血をマルキオーレの口へ入れようと、メリナは手を伸ばした。  メリナより早く、マルキオーレが動いた。飛び起きるなりハンカチを取り出し、メリナの裂けた傷口に当てた。

「どうして、どうしてこんなことを。ああ、大変だ。これで縛って。きつく、分厚く傷を覆って。ああまったく、どうしてなんだメリナ」 「だっておじさま、今にも死んでしまいそう」 「死にはしないさ。吸血鬼だからね。だけどきみは違うよ、メリナ。きみは人間だ。そして私の友人だ」

 赤い目から透明な涙をこぼし、マルキオーレは首を振った。

「きみが死んだら、私はひとりぼっちになる。やめてくれ。私にきみの血を飲ませようとしないでくれ。私を完全なる怪物にしようとしないでくれ」

 べそべそと泣いて手当てをするマルキオーレの顔に、先ほどまでの影はない。メリナは伏せがちな目で、マルキオーレの疲れた顔を見つめた。

「勝手ね、おじさま」

 ぽつりと呟いた言葉は幸いにも、足音高くやってきた職員の怒鳴り声のお陰でかき消えた。

「溝鼠にも劣る吸血鬼、貴様が唯一人間の役に立ち神に許される時間だ! 立て、出てこい!」

 荒々しく鍵が開き、格子戸が開く。マルキオーレは乱暴に腕を掴まれ、部屋の外へ引きずり出された。それでも彼は抵抗しない。黙って引きずられていくマルキオーレを見送り、メリナだけが一人残された。  日の差さない部屋に残されたメリナは、マルキオーレに巻かれたハンカチをそっと撫でた。

「身勝手なおじさま」

 赤い唇が、ぽつりと呟く。

「おじさまはわたしより自分が大切なのね。勝手だわ。紳士じゃないわ。だけどわたしは、そんなおじさまが大好きよ」

 だから、とメリナはハンカチへ愛しげに頬を寄せた。

「その勝手さも受け入れてあげる。あなたが覚えてほしいということ、何だって、覚えてあげる」

 メリナの呟きは、誰にも届かない。メリナが日々淑女に必要でない知識も与えられていたことを、わずかに滴った自らの血で何かを描いたことを、知るのはただ、メリナのみだった。

 代わり映えしない日々が続いた。擦り切れるほど繰り返された。その結果マルキオーレは衰弱し、ついには自らの意志で立ち上がれなくなった。  マルキオーレのこのざまに、とうとう職員たちも見切りをつけた。マルキオーレの〝餌〟であるメリナにも、支援をやめることにした。二人は仲良く処分が決定した。  警備員を従えたトゥナートは、鉄格子を開け放つなり、自ら先導して中に入ってきた。仮にもマルキオーレは吸血鬼だが、この有様だ。衰弱しきった姿に恐れを抱けと言うのは、無理な話だろう。  トゥナートは警備員を後ろに控えさせ、床にうずくまるマルキオーレとそばに寄り添うメリナを見下ろした。

「もうお前から得られる結果はなさそうだ」

 懐に手を入れたトゥナートは、銀に輝く銃を取り出した。銃身が銀であるならば、込められた弾も純銀製だろう。

「仲が良かったものなぁ、お前たち。寂しくないよう、同時に処分してやる」

 銃口がメリナに向く。立ち上がることもできず動けないメリナを、意外なほど機敏な動きでマルキオーレが庇った。  マルキオーレの痩躯が、メリナに覆い被さる。撃ち出された弾丸はマルキオーレの左胸にめり込み、貫通しないまま炸裂した。  撃たれた箇所から、マルキオーレの体が灰になっていく。マルキオーレは泣いていた。痛みで泣いているわけではないことを、メリナだけが知っていた。

「許してくれ、メリナ」

 まだ灰にならない手でメリナの頬を撫でながら、マルキオーレは許しを請うた。

「自らの意志がないきみにこんな道を選ばせた私を、許してくれ」

 言い終えると同時に、マルキオーレは灰になった。崩れ落ちた灰を、メリナの青い瞳が見つめる。動かないメリナに、トゥナートは改めて銃口を向けた。

「お前を先に撃って、その血で|吸血鬼《これ》に活性化されてはたまらないからな。この情けない溝鼠なら、きっとお前を庇うと思った」 「可哀想」

 銃口を見もせず、メリナはぽつりと呟いた。

「可哀想にね、おじさま。わたしがいなかったら、一人になってしまうものね」

 囁くような声で呟いたメリナは、優雅な動作で指を口へ運び、皮膚を噛み切った。愛しい人への眼差しを灰へと注ぎながら、指先から落ちる血の雫を垂らす。その仕草はあまりに優美で、慈しみに満ちていて、トゥナートは責務も忘れて見惚れた。後ろで控える警備員たちも、同様だった。  部屋にいる皆に見つめられながら、メリナはマルキオーレに教えられた儀式を完遂した。

「起きて、おじさま」

 灰がぴくりと動いた――ように見えた。トゥナートは反射的に恐怖を覚え、引き金を引いた。  撃ち出された弾丸がメリナに真っ直ぐ向かう。しかしメリナが倒れることはなかった。

「わたしの影」

 青空の瞳が、三日月のように細められる。

「わたしの盾となれ」

 動いたのは灰ではなく、影だった。メリナの影は実体を成し、迫り来る凶弾を防いだ。驚くトゥナートを見もせず、メリナが繰り返す。

「わたしの影。矛となれ」

 メリナの目が、トゥナートの向こうへ向けられる。同時に警備員たちのくぐもった悲鳴が聞こえた。振り向こうとしたトゥナートの首筋に、ひたりと冷たい手が触れる。

「ねじ切ろうか、それとも掻き切ろうか。どちらがきみ好みかな、メリナ?」

 楽しげな声は、マルキオーレのものだった。ひ、と息を呑むトゥナートとは反対に、メリナは呆れを含んだ声でくすくす笑う。

「おじさまが怖くないなら、どちらだっていいわ」 「優しいね、メリナ」

 皮膚を突き破られる感触と、血が噴き出す感覚。そして意識は暗転し、トゥナートが何かを知覚することは二度となかった。

「わたしの影」

 メリナが呼ぶ声に従い、マルキオーレは実体を失って影となり、メリナの足下へ戻った。影になったマルキオーレを見下ろしながら、メリナは呪文を唱えきる。

「わたしの命尽きるまで、わたしとともに。……これで良かったの、おじさま?」 「よかったよ。よかったとも。少なくとも私は、痛みから解放された。痛みを恐れず過ごせるなんて、生まれて初めてだ。ああ、何て幸せだ!」 「おじさまが幸せなら、よかった」

 声だけでも伝わるマルキオーレの喜びように、メリナも頬をほころばせる。しかしすぐその表情は翳った。

「でもいつかは死んでしまうわ。わたしは吸血鬼じゃないもの。それでもいいの、おじさま?」

 急に、部屋がしんと静かになった。黙り込んだマルキオーレは、きんと耳が痛くなるほど黙り込んでから、ゆっくり「そうか」とうなずいた。

「私はまだ、死からは解放されていないのか……」

 どうやら、何やら悩んでいるらしい。メリナの足下、扁平な闇から唸り声が聞こえる。  メリナは立ち上がり、転がる死体のそばを優雅な足取りで歩き始めた。「ひとまずここを出ましょう、おじさま。わたし、そろそろお日様が見たいわ」 「そうだね。私も久しぶりに外の空気を吸いたい」 「あら、外を見たい、じゃないのね」

 研究室から見えたの、と問いかけそうになったメリナに、影となったマルキオーレがさらりと答える。

「青空は十分見ていたよ。メリナ、きみの瞳でね」

 少し間を開け、マルキオーレの台詞を理解したメリナは、ぽぽ、と頬を染めた。「そう」と小さく呟いて、足を速める。急ぎ足になったのは、照れのせいだけではない。  大勢の足音がメリナたちに近づいてくる。  足音の方角へ、メリナは細腕を伸ばす。黒い影が、邪魔立てしようとする者たちへ飛びかかっていった。