名もなき小さな悪魔がいた。狒々のような姿をした悪魔は、人の心に溜まる澱のようなものを糧にしていた。 悪魔は人に憑いて教会へ行くのが好きだった。 悪魔が入るのを許す教会を笑うのが好きだった。 粗末なくせに告解室などと仰々しい名を持つ部屋(悪魔は『吐き出し部屋』と呼んでいた)で、人がくだらない悩みを吐き出す様を見るのが好きだった。 真面目くさった顔で決まり文句を言う司祭を笑うのが好きだった。 神を、人を、馬鹿にするのが好きだった。
そんなことを何年、何十年続けたか。
いつものように教会で神を、人を笑ってやろうと、悪魔は青年に憑いた。青年とともに悪魔が告解室へ入ると、年老いた司祭と目が合った。 丸い眼鏡の向こうで、細い目が光る。 今まで人に憑いた悪魔を見た人間はいない。見えるはずがないのだ。悪魔は姿を隠している。なのに司祭は、悪魔を見ていた。 焦る悪魔のことなど知らず、青年は司祭に悩みを打ち明ける。恋人が、家族が、作物が。悪魔にとってはくだらないこと、人間にとっては大きな悩みを、青年は司祭に話す。司祭はうなずき、青年の肩に手を置くといつもとは違う台詞を口にした。
「すべてここに置いていきなさい」
青年は途端に晴れやかな顔になると、軽い足取りで告解室を出た。しかし、憑いているはずの悪魔は告解室に残された。いつの間にやら足に鎖が巻き付いている。悪魔が司祭を睨むと、司祭は厳かな声で「お前はここにいなさい」と悪魔の頭に手を置いた。
「お前はここで人々の悩みを聞いていなさい。自身の罪深さを知りなさい。お前の罪を神がお許しになれば、その鎖は消えるでしょう」
そう言い残し、司祭は告解室を出ていった。追いかけ小さな背に飛びかかろうとしても、鎖が悪魔の足を引っ張り、告解室から指の先すら出られない。 悪魔は暴れた。どれだけ暴れても、鎖は悪魔を捕らえたままだった。 告解室に人なぞそうそうやってこない。告解室に縛り付けられた当初、悪魔は退屈に苛まれた。司祭が入ってくるたびに縊り殺してやろうと飛びかかったが、足に絡んだ鎖が張り、悪魔は指先すら司祭に触れられなかった。 司祭に飛びかかっては鎖に阻止され、悪魔は告解室から出るのを諦めてしまった。狭い告解室で浮き、漂い、司祭が人の悩みにうなずいているのを眺めるようになった。 どれだけ聞いても、人の悩みは悪魔にとってくだらない。いつまでこんなものを聞いて見ていなければならないのか。 悪魔にとっては幸いなことに、司祭は老人だった。司祭が死ねば出られるだろうと、宙に浮いた悪魔はそのままごろりと横になった。
***
時は過ぎゆくが、悪魔に季節の移ろいは感じられない。告解室の中はいつも同じ光景だからだ。その光景が、いつの頃からか変わり始めた。 告解室に司祭ではなく修道女らしき女が入るようになったのだ。
――ここは修道院になったのか? ならば時が過ぎたということか。ではあの|司祭《ジジイ》はくたばっただろうか。おれは出られるだろうか。
足に絡みつく鎖は相変わらずだが、悪魔は「もしや」と期待し告解室からの脱出を試みた。しかし鎖は強固だった。苛立った悪魔は鎖に噛みついたが、焼けるような痛みを味わわされるだけだった。悪魔は未だ、告解室から出られない。 怒り狂った悪魔はどれほどこの狭い告解室で暴れてやろうかと思ったが、思い止まり、大人しく告解室の一角に浮いた。そしてこの部屋にやってきた男が女に何をするか、つまらなさそうに観察した。
――『吐き出し部屋』で吐き出すものが変わったか。
繰り広げられる背徳的行為のお陰で、彼らの魂は悪魔好みの澱をたっぷり含んでいる。だが悪魔は手を出さず、家畜の繁殖行動でも見るような冷めた目をしていた。 女の苦悶の声も、やってくる男の野卑な声も、告解室から出られない悪魔には退屈でしかない。悪魔は頬杖をつき、行為が終わるのを待つともなしに待った。
***
告解室に入る修道女は、日に何度も入れ替わった。やってくる〝相談者〟とやらが女、もしくは枯れ果てた老人であれば、彼女らは吐き出される悩みをただ聞くだけでいい。 入れ替わる修道女の中に、運のいい娘がいた。 娘はこの部屋で何が行われているか知らないのか、やってくる男や修道女の魂が澱み、けがれていくのに反し、この娘だけは輝く魂を持ち続けていた。 娘は何度も告解室に入ってきては、老人や女を相手に真面目くさった顔で司祭のような言葉を使った。生意気な小娘だ、と悪魔は顔をゆがめた。けれど娘から目を逸らさなかった。娘の声に耳を傾け続けた。娘が神の教えを説く声を聞いていた。 悪魔は娘が告解室にやってくるのを心待ちにしている己に気づいた。今までの悪魔ならば頑として認めないが、不思議と素直に認めることができた。それどころか、あの娘が人ごときにけがされてくれるなと願うようになっていた。
悪魔の願いもむなしく、娘の運が尽きる時がやってきた。
娘が告解室に入ると、下卑た笑みを浮かべる青年が机の向こうに座っていた。娘は顔に怯えを浮かべたが、覚悟を決めたのかそれとも諦めたのか、目を伏せ震える手で椅子を引いた。腰掛けた娘に青年が手を伸ばそうとする。悪魔はそれを許さなかった。 悪魔は青年の首にかじりついた。体を持たない悪魔がかじりついたところで青年は痛みなど感じない。悪魔は人の心に溜まる澱を好み糧とする。しかし澱のみを糧とするなどといった器用な真似はできない。悪魔は人の心ごと、澱を吸い上げ己の糧にする。 噛みついたところから、じるじると心を吸い上げる。吸い上げられるにつれ青年の目がまどろむようにとろけていく。顔から表情が抜け落ちていく。口は半開きになり、そこから涎が垂れるのも構わなくなる。悪魔は、青年の心をすっかり吸い上げてしまった。 心を抜かれた青年は、抜け殻となってぼんやりした顔で椅子に背中を預けた。だらりと弛緩した体はもう娘の脅威とならない。悪魔は青年に退席を命じた。どこへでも行けと腕を振って追い出した。青年はぼんやりしたまま、告解室の扉を押して出て行った。 娘の目に悪魔は映っていない。なぜ青年が帰っていったのか、娘に理由はわからない。それから度々、悪魔は娘に手を出そうとする男の心を吸った。吸血鬼が血を吸うように、一切の慈悲もなく男たちを〝|洞《うつろ》〟に変えた。 しかし、いくら悪魔が娘の魂を守ろうとも、悪魔の手が届くのはこの告解室の中だけだ。告解室の外で、娘たちにあのような行為を強制するものが手を出そうとすれば、悪魔にそれを防ぐ手立てはない。 もう何人目かもわからない男を洞にした悪魔は、驚き呆ける娘に尋ねた。
「お前にこんなことをさせるのは誰だ。お前たちに堕落を強制するのは誰だ」
娘にとって、今この告解室にはうつろな目をする青年と自分しかいない。なのにどこからともなく聞こえた嗄れ声に、娘は驚きキョロキョロと辺りを見回す。すぐそばにいるというのに、娘の明るい|茶《ブラウン》の瞳は、狒々に似た醜悪な姿を映さない。
「あ……あなたは、誰ですか。その嗄れた声、とても……とても、神とは、思えません」 「誰が神か。おれは悪魔だ。ある司祭にここに閉じ込められた」
間抜けだろう、と嗄れた声で悪魔は笑う。娘は笑わなかった。変わらず怯えた目をあちこちに向けるだけだった。悪魔は再度娘に尋ねた。
「誰が、お前たちに、あんなことをさせているんだ」
娘は口を開かないかと思ったが、意外なほどすんなりと答えた。
「し……司祭様、です」 「食ってやろうか」
間髪入れず、悪魔は娘に司祭を告解室へ呼ぶよう囁いた。娘の目が丸く開かれた。
「その司祭をここへ呼べ。おれが食ってやろう。そうすればお前も、お前の同僚も、望まぬ行為をせずに済むだろう?」
娘はぶんぶんと首を振った。指が白くなるほど強く手を組み「いいえ」と拒否した。すんなりと答えたくせに、と悪魔は胸の内で舌打ちした。 首を振る娘は、司祭を擁護しようと背徳的行為は尊い奉仕精神からだと主張する。
「司祭様が、お、仰っていました。私たちが、あ……あのような行為をすることで、この教会に、お金が入ります。お金があれば、親を亡くした子らを、引き取ることも……満足な食事を、させることだってできます。それに、それに」 「お前の腹に子が宿れば、その子はどうなる」
――お前の同僚、ほかの同僚、そのまた別の同僚。皆が宿した子はどうなる?
娘も同じことを考えていたのだろう。こぼれるほど開かれた目に、涙が光った。 悪魔は言葉巧みに娘を唆した。唆すのは本業だ。ここ数年、もしくは数十年ほどは縁のない〝本業〟だったが、娘にうなずかせるのはそう難しくなかった。それは悪魔の腕ではなく、司祭の神の道から外れた行いのせいだったのだろう。 見えていないはずの悪魔を見て、娘は懇願した。青ざめた顔で、震える声で、娘は悪魔を求めてしまった。
「私を、私たちを、あの|司祭《あくま》から助けてください」
娘から見えないことをいいことに、悪魔は笑みを隠しもせず、一つ返事で請け負った。
悪魔が娘を唆し、何度目かの夜。
告解室に再び娘がやってきた。緊張した面持ちで、見えない悪魔の姿を探す。娘の頬を尻尾で軽く撫でると、娘は「きゃあ」と情けない声をあげた。娘の目には今にも落ちそうな涙が浮かんでいたが、そこには安堵も滲んでいた。 暗く、狭い部屋で、二人は男が来るのを待った。さほど二人を待たせず、好色に頬を染めた男がやってきた。 音も立てず悪魔が飛びかかる。いつものように澱ごと心を食い尽くした悪魔は、洞になった男の中にするりと入り込んだ。空っぽになった男の体は、今や悪魔の傀儡だ。 悪魔は男の喉を借り、嗄れた声で司祭を呼ぶよう娘を告解室から出した。物好きな男が司祭も交えたいと伝えろ、と娘には言ってあった。出て行った娘は、すぐに戻ってきた。老いた司祭が娘に続いて入ってくる。肥えた体の司祭は、悪魔を告解室へ閉じ込めた司祭とは別人だった。緩んだ表情から敬虔さは欠片も感じられない。あの司祭が来るやもしれん、と思っていた悪魔は、少しだけがっかりした。がっかりする己に驚いた。 が、悪魔は己が抱いた感情を微塵も表に出さず、男の体で司祭に飛びかかった。 押し倒し、起き上がらないよう押さえつけ、首に噛みつく。今は男の体を持つ悪魔が噛みつけば、当然、司祭は痛みを感じる。 司祭は悲鳴を上げた。だが誰も司祭を助けに来ない。誰も告解室に近づかない。誰がこの部屋で〝告解〟しているか、それを見てはならないからだ。 悪魔は顎が外れそうなほど大きく口を開け、がり、ごり、と司祭の首から肉を削り落としていく。骨を砕いていく。取り憑いている男の歯が砕けようが、口が裂け血が出ようが知ったことではない。司祭の首が落ちるまで、悪魔は司祭にかぶりつくのをやめなかった。 手足を痙攣させ暴れていた司祭が、やがて大人しくなった。口に残る肉片を吐き出し、男の顔中についた血を拭った悪魔は、娘を振り向いた。 娘は、告解室の隅で小さくなって震えていた。 強く目を瞑り、娘は「お許しください」と繰り返している。神に許しを請うているのだ。これほどの惨状を見れば神に縋りたくもなるだろう、ましてや誰よりも敬虔なこの娘なら――と悪魔はなお落ちない血を拭いながら娘に「終わったぞ」と声をかけようとした。しかし、悪魔は声をなくした。
「この悪魔を、お許しください」
――何だって?
「なぜ」と、悪魔は娘に問うた。娘は目を開けた。娘の瞳は、涙で濡れている。
「なぜ、おれだ。おれは悪魔だ。悪魔は人を誑かす。人を害する。そういうものだろう。許す、許さないのものではないだろう。なぜ、おれを許せと言う」
悪魔にはわからなかった。娘がなぜ己を許すよう神に請うのか。悪魔は許されないものだと思っていた。悪魔である以前に、神を、人を笑った者だ。許されるはずもない。 困惑する悪魔に、娘は「いいえ、いいえ!」と大きく|頭《かぶり》を振った。
「あなたは私を救ってくださいました。私の同僚を救ってくださいました!」
娘は半ば叫んでいた。
「あなたは、許されるべきです」
〝救う〟なんて、悪魔にそんな気は毛ほどもなかった。救うつもりではなかった。ただ、娘の魂をけがしたくない一心だった。 悪魔がそう言っても、娘は首を振る。
「あなたは私がうなずいたからこんなことをしました。悪いのは私です。あなたの行動で心救われた私こそ、罪深い」
娘の涙がきらきら光る。光る涙は床に落ちた。涙で濡れた目もきらきらと光る。悪魔は初めて、何かを〝きれい〟だと思った。 娘の手が〝悪魔〟に触れる。悪魔の毛むくじゃらの手を、ほっそりした手で優しく包む。包んだ手を、娘は自分の額に押しつけた。
「あなたが、許されますように」
悪魔の足に絡んだ鎖が、音を立てて落ちた。