朝の準備を終え、「いってきます」と言いながら姿見の前を通るたびに思う。中学生になったのに、私ってまだまだ子供だ。 小学生の頃は、中学生ってもっとオトナだと思っていた。女の子ならセーラー服、男の子なら学ランを着ると、たちまちに顔つきも大人びて中身もそれに伴うのだと信じていた。 けれどそんなのは夢、幻もいいところ。実際の私はランリュックを背負っていた頃と何ら変わらない、私のままでセーラー服に着られていた。 朝の空気で鼻先を赤くしながら、私はセーラー服の袖を伸ばした。春には手の甲すべて覆われていたけれど、冬も終わりに近づく今、手首の半分が隠れる程度まで成長した。この勢いなら、高遠さんちのお姉さんにも追いつくかもしれない。 高遠のお姉さんはちょっぴり背が高くって、とっても美人で、その上誰にでもすごぉく優しい。この地域の女の子は、みんな高遠さんちのお姉さんみたいになりたいと願っている。 次の身体測定が楽しみだ。ふふふと笑いながら校門をくぐる私に、後ろから「ひまちゃん!」と声がかかる。振り向くより先に、猫又筋の池成さつきちゃんが飛びついた。
「ひまちゃん、聞いて聞いてぇ!」
中学生になって、初めてできた友達がさつきちゃんだった。私こと伊藤|陽葵《ひまり》は、人筋と呼ばれる、大本の血は人だけど今やいろんなあやかしの血が混じっているタイプの人間だ。小学校では人筋の多い地域だから何も思わなかったけれど、ほかの学区では逆に人筋が少ないらしい。珍しがったさつきちゃんが私に声をかけてきたのが、友好の始まりだった。 そんなさつきちゃんが聞いてほしいのは、ここのところ女子の間で密かに流行っているおまじないの話らしい。
「鏡筋の加々美さんが教えてくれたおまじない、すごいらしいよぉ」 「へぇ、どんなおまじない?」
校庭を突っ切り、校舎に入って階段を上がり、教室に入っても語られ続けたおまじない談義は、こうだ。 丑三つ時、顔が入るくらいの器に水を張る。水面が平らになるのを待ち、鏡のようになったら、水面を揺らさないようにお酒をコップ一杯分注ぐ。注ぎ終わったら柏手を打ち、こう唱える。
「かがみさま、かがみさま、××くんを見せてください」
この××くんは好きな人の名前らしい。〝かがみさま〟なる何かが聞き入れてくれると、水面が揺れて、××くんの顔を浮かばせるらしい。水面が再び鏡のように平らになると、すかさずこう言う。
「かがみさま、かがみさま、××くんの好きな人を見せてください」
かがみさまがこれも受け入れてくれたら、水面は揺れ、今度はその××くんの心にある誰かの顔を浮かび上がらせる……らしい。 教室の真ん中にある自分の席に鞄を下ろしながら、私は首を傾げた。
「何で好きな人の好きな人を聞くのがすごいおまじないなの?」 「話はここから! 黙って聞いて!」
猫又筋特有の大きくて吊り上がった目で怒られると、友人だと思っていても足が竦む。私が大人しく「はい……」としょぼくれると、さつきちゃんは慌てたように声をいつもの調子に戻して、続きを話した。 ××くんの好きな人の顔が水面に映ったら、今度は水面を揺らして消さなければいけない。そして揺れる水面に自分の顔が映り込むよう覗き込む。水面が落ち着いて自分の顔がきれいに映ったら、かがみさまにこう伝える。
「かがみさま、かがみさま。××くんの好きな人は、今この水面に映っている人です」
そう言いながら、もう一度コップ一杯分のお酒を注ぐ。このときも、静かに、水面を揺らさないように気をつけなければいけない。水面が揺れて自分の顔が消えると、××くんには一生好きになってもらえないとのこと。注ぎ終えたら、こう言ってかがみさまにお別れをする。
「かがみさま、かがみさま、ありがとうございました」
顔を映すのをやめて、柏手を打ち、使った水とお酒を流せば、このおまじないはおしまいだそう。 このおまじないをしているところは、誰にも見られてはいけない。片付けるのを見られるのも、準備をしているところすら見られてはいけないそうだ。 すごいんだよ、とさつきちゃんは金色の目をきらきら輝かせる。
「これでね、四組の橋本さんと吉田君が付き合うようになったんだって! すごいよね!」 「それ普通に考えて無理じゃね?」 「ぎゃあ! 倉骨!」
私とさつきちゃんの間を割るように、ガイコツがにゅっと顔を突き出した。がしゃどくろを筆頭にした骨筋の倉骨くんだ。 あやかしと人の混血が進むこの時代、人の姿で生活したほうが便利なせいで、大体のあやかし筋は人の姿で過ごしている。そんな中珍しく、倉骨くんはあやかしの姿を選択し、そのままで生活している。 入学してすぐ、服を着て喋るガイコツを教室で見たときは、気を失うほど驚いた。けれど私たちと何ら変わりなく生活する倉骨くんを毎日見ていたら、そのうち慣れた。慣れるどころか、気づけばいつも倉骨くんを目で追うようになった。 倉骨くんは、骨だけなのに飲み食いするし、大声で笑う。骨だけなのによく食べよく飲みよく眠るから、ぐんぐん背が伸び、もう制服を新調したらしい。 明るくよく笑う倉骨くんは、今も骨だけの人差し指を立て、顎を揺らしてカタカタ笑った。
「水面平らになんのはわかるけどさ、揺らさないで酒注ぐって無理だろ。どーやっても揺れるって」 「うっるっさっいっなー! 倉骨にしゃべってないの、ひまちゃんに喋ってんの!」 「伊藤ちゃんだって変だと思うよなー?」 「そだねーちょっと変なとこあるよねー」 「あるよねー変だよねー?」 「ねー?」と首を傾げ笑い合う私たちに、さつきちゃんは髪の毛を逆立て「ひまちゃんまで何なのぉ!」と怒る。ツリ目がさらに吊り上がり、さっきよりも怖い。
「こわーい」と私の肩を掴んで後ろに隠れた倉骨くんに、廊下側で輪になっていた男子が呼びかけた。
「おぉい倉骨ぇ、女子の会話に聞き耳立ててんなよ」 「はあ? 立てる耳がねーし!」
そう言いながら笑い、倉骨くんは男子の輪に戻っていく。カタカタ笑う倉骨くんを見送り、私はくすっと笑ってしまった。
「……倉骨くん、ほんとに楽しそうに笑うよねぇ。つられて笑っちゃう」
私は倉骨くんが笑うと、いつもどこかの骨がカタカタと揺れる。あの笑い声を聞きながらそれを見るのが、いつの間にか好きになっていた。そして倉骨くん本人をも、好きになっていた。 思わず漏らした本音の一部を聞いて、さつきちゃんは給食でイカのフライが出たときのような顔をした。
「あの笑い方見て笑っちゃうって……ひまちゃん目がおかしいよ……眼科行ってきなよ……」 「お、おかしくないよぉ! 何で? 倉骨くん楽しそうに笑うよ?」 「いやあれ、笑ってるか顎揺らしてるかわかんないじゃん。わかんないよ? 空笑いかもしんないよ?」 「そんなことないよ、待ってさつきちゃん、よく見て倉骨くんを!」
倉骨くんがいかに楽しそうに笑うか語ってみたけれど、さつきちゃんは「全然わかんない」と白けた顔で首を振るばかり。そばにいた犬神筋の溝口さんが「ちょっとわかる」と話に入ってきてくれたけれど、溝口さんが言う「おいしそう」が私には理解できなかった。あやかし筋と人筋の相互理解は、実はまだ進んでいないのかもしれない。 結局、この日は「どうすれば倉骨くんの笑顔が楽しげか伝わるだろう」という悩みが頭から離れず、部活中もずっとそればかり考えて家路についた。
部活を終えて家に帰ると、玄関には鍵がかかっていた。ドアを開ければ、妹の靴しかない。父さんはまだまだ帰ってこないとわかってる。母さんは、パートが伸びてしまったんだろう。 晩ご飯は私が作らなきゃいけないかなぁと思いながら手を洗って台所へ行くと、小学生の妹が冷蔵庫の前でごそごそしていた。私に気づいていないらしい。忍び足で近寄り、「現行犯!」と肩を掴んだ。
「なーにしてーんのっ」 「うわぁ! も、もぉー! さいあく! おねえのばか!」
妹が手に持っていたのは洗面器とお父さんの缶ビールだ。その二つを見て、朝聞いたばかりのおまじないが頭に浮かんだ。
「……それ、おまじない? 鏡の?」 「あ、おねえも知ってんの? 今ねぇ、がっこで流行ってんの。小島君が好きな子いるらしいから、ライバルは早めにけとばしておこうと思って!」 「蹴飛ばしてどうすんの。蹴落とすんでしょ」
もうおまじないできない、と文句を言う妹をリビングへ追いやり、冷蔵庫の中身を確認する。作り置きはなし。テーブルに「あたためて食べてね」のメモとおかずが載ったお皿もなし。さてそれじゃあ何を作ろうか……と中身をチェックして、ふと開封済みの料理酒に目が留まった。 小学生の妹も知っているくらい、あのおまじないは流行っている。皆が知っているということは、それなりに効果がある、もしくは効果があったと言う人が多いということではないだろうか。 そう思ったときには、もう準備を始めていた。 親すら寝静まった午前二時。私は心臓をバクバクと脈打たせながら、水を張った洗面器を勉強机に老いた。朝教わったおまじないを思い浮かべながら、手順通りにかがみさまにお願いして、鏡のようになった水面が揺れないよう、指を使って洗面器の側面から伝わせる。そぉっと、少しずと流した甲斐あり、水面は思ったより揺れなかった。 少し揺れたけれどいいのかな、と思いながら水面を見つめる。ゆらゆら揺れた水面は、落ち着くにつれ白すぎる顔をそこに映した。 現れたのは頭蓋骨。教科書でよく見るあの図よりも頬骨が突き出ている。紛れもない、倉骨くんの顔だ。 慌ててかがみさまに、倉骨くんの好きな人を見せてほしいとお願いする。水面がさざ波のように揺れ、倉骨くんの顔が揺らいで消えた。そして映ったのは――。
「あれ? あれ? かがみさま、かがみさま?」
私の顔しか映らない。何か手順を間違えたっけ、と焦った私は、慌ててお酒を注いだ。しかし、水面に変化はない。うーんと唸って考え込んでも、答えは出ない。
「……どこか間違えちゃったのかなぁ」
失敗したらどうすればいいんだろうと思いつつ、とにかくお礼を言って柏手を打つ。洗面器を満たした水は、静かに揺れるだけだった。 ため息をつき、洗面器を持つ。妹も両親も起こさないよう静かに、そっと廊下を歩き、洗面所ですべて流した。
その翌朝。登校した私は、席に着いたさつきちゃんにおまじないのことを離した。
「おまじない、試してみたんだぁ」
私の一言で、座っていたさつきちゃんは目の色を変えて立ち上がった。
「ひまちゃんが⁉ 何で⁉ どうだった⁉」 「向こうの顔は映ったけど、向こうの好きな人の顔は……失敗しちゃった」
しょんぼりしながら答える私を見て、さつきちゃんも「そうなんだ……」としょんぼり落ち込んだ。しかしすぐに気を取り直し、おまじないの手順について尋ねてきた。
「ちなみにお酒入れるときどうやったの? どうやれば揺れない? あとねあとね!」
矢継ぎ早に飛んでくる質問に答えながら、結局、倉骨くんの好きな子って誰なんだろうと考える。そして、もしその子の顔が映ったら、私は本当に自分の顔に変えてしまうのかとも考える。……それって、倉骨くんの心をむりやり変えてしまうことにならないだろうか。そうやって好きになってもらったって、空しいだけじゃないかなぁ。 そう考えながらしょんぼりする私の背中を、誰かがバシッと叩いた。
「話は聞かせてもらったぜ、伊藤ちゃん」
背中を叩いたのは、倉骨くんだった。わざとらしく頬を膨らませた私が「痛いよ」と背中をさすると、倉骨くんは「ごめんごめん」と笑ってカタカタ顎を揺らした。
「所詮おまじないだろ? そう落ち込むなって!」
骨張っているどころか骨しかない手は、今度は優しく、ぽんぽんと軽く背中を叩いた。人の気も知らないで、と私は唇を尖らせる。拗ねた私の顔を見て、倉骨くんは「フグみてえ!」とさらにケタケタ笑っていた。
この日の放課後は、職員会議で部活がなかった。部活のない日は、母さんが長くパートへ出る。早く家に帰って洗濯物を取り込んで、それから妹のおやつも用意しなくてはならない。 急がなくちゃと下駄箱前で慌てる私を、すでに靴を履き替えている倉骨くんがちょいちょいと手招いた。
「こっちこっち、伊藤ちゃんこっちこっち」 「えー? どうしたの、倉骨くん」 「ちょっと伊藤ちゃんとおしゃべりしたいなーって」 「伊藤ちゃんは早く帰りたいなーって」 「お願い伊藤ちゃん! 俺の渾身の脱臼ダンス見せるから!」 「そんな危ないの見せなくていーよぉ」
軽い調子の倉骨くんにつられて笑い、ついていくよとうなずいてしまった。ケタケタ笑う倉骨くんとあれこれ話しながら、自転車庫と反対方向まで歩く。 そこはちょっと寂しい体育館裏。着いた途端に倉骨くんは黙り込んでしまい、いったい何のようだろうと思いながら、私は倉骨くんが話し出すのを待った。 けれど、倉骨くんはもじもじするだけでなかなか話し出さない。今日が母さんのパートの日でなければ、いくらでも待ってあげられるんだけど……。残念に思いながら、私は倉骨くんに「帰ってもいい?」と尋ねた。
「今日ね、水曜だから、母さんがパートに出てるの。妹と二人だから、早く帰らないといけなくて」 「ちょ、ちょっと待って! 一分、一分でいいから時間ちょーだい!」 「うーん、じゃあ今からね。はい、ごじゅーきゅ、ごじゅーはち……」
私のカウントダウンに、倉骨くんは「早っ!」と声を上げ慌てだした。それでもまだ口ごもっている。焦れつつもカウントしていると、倉骨くんはお辞儀をするように腰を直角に折り曲げた。
「伊藤さん、好きです!」
唐突な告白に、思わず「えっ⁉」と声が出た。頭を下げた倉骨くんを見ながら、昨日のおまじないを思い出す。
「……あっ、ああー! そっかぁ!」
水鏡に、倉骨くんの好きな人が映らなかった理由がわかった。あのおまじないは本物だったんだ。 そうわかると同時に倉骨くんの「好きです!」が頭の中で蘇り、顔が一気に赤くなる。私は倉骨くんから顔を逸らし、「あー」とか「あの」とかもごもご口ごもった。倉骨くんが「返事は⁉」とせっつく。そう言われてもともじもじする私に、倉骨くんは「一分で返事して!」とカウントダウンを始めた。今度は私が慌てる番だ。
「えーと、えーとっ。わ……私も! 倉骨くんが好き!」 「マジで⁉」 「マジです!」 「よっしゃあ!」
ゲームを全クリした小学生男子みたいな声を上げ、倉骨くんはガッツポーズを取った。かと思うといきなり距離を詰めてきて、ぐいと私を持ち上げくるくる回りだした。
「わぁ⁉ えっ、ちょっ、倉骨くん⁉ 倉骨くん下ろして! 倉骨くんの腕が折れちゃう!」 「折れねーし! よゆーよゆー!」 「スカート広がっちゃう! 見えちゃうから! 下ろしてぇ!」
校舎裏に、倉骨くんの笑い声と私の必死な声が反響する。二人して大きな声を出したお陰で、翌日には倉骨くんと私が付き合い始めたことが知れ渡っていた。 朝の教室でみんなから冷やかしやお祝いの言葉を投げられる中、隣に立つ倉骨くんは、珍しくしおらしい声でぽつりと呟いた。
「俺、これからはもう少し静かな男になる……」
うつむいて控えめにそう宣言した倉骨くんが可愛くて、私は笑顔になるのを我慢できなかった。