週末になるたびに土手へやってくる青年がいた。寝坊するのか、時折午後遅くにやってくるが、大体は午前中に土手へやってきた。いつも折り畳み椅子と画材を携えていることから、青年が絵を描きに来ていることがわかる。 青年が陣取るのは、土手の桜並木の下、それも一番隅だ。そこには桜並木から仲間外れにされたようにひっそり佇む若い桜の木がある。青年はその桜の木の脇で絵を描いた。青年がスケッチブックに描く対象は、陽光を浴び輝く水面だったり、向こう岸に見える景色だったり、足下に落ちる石だったりと、日によって様々だ。しかし青年は、すぐそばに佇む桜を描くことはなかった。言い訳するように、青年は桜に話しかける。
「僕が持ってる画材をご覧よ。色なんてないだろ? きみを描くならせめて絵の具ぐらい用意しなきゃいけないと思うんだ。だって桜の美しさって色が存在してこそじゃないか。違うかい? ああそうだね、違わないさ」
桜からの返事はない。桜は言葉を発さない。けれど桜だって、意思を表さないわけではない。桜は青年に立ち去れとでも言うように、花の着いた枝をぽとりと落とした。 それから桜は、毎週欠かさずやってくる青年に嫌がらせをするようになった。 花の盛りは美しかろうが、春が過ぎれば葉桜となり、毛虫がぼとぼと落ちてくるようになる。それでも青年は土手の桜並木に通った。毛虫が落ちてこようが葉が落ちてこようがお構いなし、仲間外れの桜のそばで景色を写し取った。そうして描き上げたスケッチは、必ず桜に見せた。
「どうだい、今日の出来映えは。上達したと思わないか? 上達しただろう? ここに来たばかりの頃はこんな風だったんだ。見比べれば上達ぶりもわかるはずだ」
返事があるわけもないのに、青年はにこにこと桜に話しかけ、できあがったスケッチを見せる。嫌がらせのように毛虫や葉を落としていた桜も、青年の無邪気さにやがて根負けしたらしい。いつしか桜は、青年の邪魔をしなくなった。 ひっそり佇んでいた桜は、日を追うごとに青年に寄り添うようになった。強い日差しや多少の雨から守るため、枝を伸ばし葉を茂らせた。青年は桜の心遣いに気づかず、一心不乱にスケッチブックに向き合っていた。それでも桜は満足げに青年の隣に佇んだ。 青年に寄り添う桜に気づいたのは、いつも青年と同じ時間に土手を走る女性だ。青年と変わらない年頃の娘だった。ライムグリーンの靴で水分の失せた落ち葉を踏みながら、娘は青年に近づいた。この日青年は足下の落ち葉をスケッチしており、娘が声をかけるまで、その存在に気づきすらしなかった。
「その桜の木、あなたに向かって枝を伸ばしてますね」
溌剌とした声だった。青年は慌てて顔を上げ、すぐ目の前に立っている娘を見て目を瞬かせた。驚く青年に、娘は明るい笑顔を向ける。
「気づいてませんでした? その桜、春はこんなところまで枝を伸ばしてなかったんですよ。まるで、あなたを雨や日差しから守るみたい」
娘の細い指が伸ばされ、青年の頭上を指す。青年はそこでようやく、桜が自分に枝を伸ばしていたことに気づいた。「これは……」と言葉をなくす青年を見て、娘はおかしそうに笑った。
「絵を描くのに夢中だったんですね」 「は、恥ずかしながら……」
頭をかく青年に、娘は「邪魔してごめんなさい」と謝った。青年が「いいえ」と慌てて首を振るのも聞かず、娘は「それじゃあ」と身を翻し走り去る。明るく、エネルギーに満ちた娘だった。青年は娘の姿が見えなくなるまで、いつまでもいつまでも娘の後ろ姿を見つめていた。 それから青年は、土手に来てもどこか気もそぞろで、スケッチもしなくなった。落ち着かない様子の青年に、桜はこれ見よがしに大量の枯れ葉や枯れ枝を落とす。青年はそれを払うこともせず、そわそわと立ったり座ったりを繰り返した。 やがて、あのライムグリーンの娘がやってきた。跳ねるようなテンポで走る娘が近づくのを待ち、青年は椅子から立ち上がって声をかけた。
「あのっ、あ……あの!」
言葉が続かない青年に目を向け、娘は笑顔を見せた。足取りを緩め、青年のそばまでやってくる。娘と青年はしばし見つめ合い、はにかみながら言葉を交わした。最初こそ緊張して会話を続けられなかった青年だが、何度も話しかけるにつれて桜に話しかけていたあの調子を取り戻した。 すっかりよく喋るようになった青年を見て、娘は安心したように笑った。青年が気さくになったのと同じように、娘も青年に対し、すっかり打ち解けた様子を見せるようになっていた。
「桜にはずいぶん気さくに話していたのに私にはさっぱりだったから、人間相手はだめなのかと思った」
青年は、自分が桜に話しかけていたのを娘が知っていたことに驚いた。しかし娘は「みんな知ってる」と言って青年をさらに驚かせた。
「散歩中のおばあさんが、あそこに変わり者がいるって教えてくれたの。絵を描きながら桜に話しかけてるって。それから私、あなたのことが気になっちゃって」
赤くなり声も出なくなった青年を見て、娘はお腹を抱えけらけらと笑った。娘の明るい笑い声につられ、青年も笑った。 笑わないのは桜だけだ。青年と娘の距離が近くなるたび、桜は娘に枯れ葉や蓑虫なんかを落とした。降り注ぐ虫や葉の量に驚いた青年は、慌てて娘を自分のそばへ引っ張り寄せた。髪や服についた虫や落ち葉を急いで払いのけるが、娘は虫を怖がる様子も見せない。
「嫉妬してるのね。私があなたと仲良くしてるから」
そう言って、娘は平気な顔で虫や枯れ葉を払い落とした。青年は娘の台詞を冗談だと思い「まさか」と笑った。娘は何も言わず、意味有りげに笑うだけだった。 桜が使えるものをすべて使った妨害を物ともせず、娘は土手にやってきて青年と語らった。青年が「土手以外で待ち合わせしよう」と誘えば受け入れたが、ランニングコースから土手を外すことはなかった。青年も、土手に通うのをやめはしなかった。 季節は巡り、青年と娘が言葉を交わしてから、二度目の春がやってきた。桜咲き誇る春の午後、日差しがうららかな時間帯に、青年は娘を土手へ呼び出した。青年は絵描き道具の一切を持たず、畏まった格好で桜のそばに立った。心なしか、桜との距離は遠い。縋るように、桜はゆっくりと枝を伸ばす。風が吹き、花びらが舞い、青年の周りには桜のカーペットが敷かれているようだった。 待ち合わせ時間になり、娘がやってきた。いつものスポーティな格好ではなく、年頃の娘らしい、しかし控えめな格好だった。娘がやってくると、青年は緊張した様子で表情を引き締めた。つられて、娘の表情も強張る。青年は震える手で指輪を取り出した。手と同じくらい震えた声が、娘に思いを告げる。
「これからも、僕と一緒にいてくれませんか」
娘の顔にサッと朱が差した。丸くなった目が指輪を見つめ、それから青年を見る。強張っていた表情が柔らかくなり、娘は照れくさそうに笑った。
「本当に、私でいいの?」
青年がうなずく。それとほぼ同時に、頭上でミシミシと嫌な音が鳴った。青年と娘がハッと見上げると、桜の枝は、二人の真上に迫っていた。嫌な音を立てているのは、急成長を遂げた桜の枝だった。急成長した桜の枝は、太く重そうだ。 ミシミシという音が止んだかと思うと、太く重い枝が折れ、落ちた。とっさに二人が飛び退かなければ、どちらかの頭に当たっていただろう。驚く二人の前で、桜ははらはらと花を落とし、枯れていった。 呆然とする青年に、娘は「わかっていたの」と静かに告げる。
「この桜は、あなたに恋をしていたの」 「そんな、まさか」
桜が恋なんて、と首を振る青年に、娘は悲しげな目を向ける。
「あんな風に毎日声をかけられたら、恋だってしてしまうわ。この桜のように、周りから離れて一人ぽつんと立っていたなら、なおさら」
娘は悲しげな目のまま「恋心をもてあそぶなんてひどい人」と笑みを作った。戸惑う青年から一歩離れ、娘は「でもね」と続けた。
「でも、私だってあなたに恋をした。ここから動けやしない桜なんかに、あなたを渡したくなかった」
枯れ果てた桜に近づき、娘はその幹に手を当てた。枯れて何年も過ぎたような乾いた幹を、娘は憐憫を込めて撫でる。幹を撫でながら、娘は青年を振り返った。
――本当に、私でいいの?
言葉ではなく、目がそう尋ねていた。語る目に、今までの溌剌とした輝きはない。自信のなさが、揺らぎとなって瞳に浮かんでいる。しおらしい仕草は、青年の目に手弱女として映った。青年は胸がときめく音を聞き、片膝を折って娘の手を取った。力なく下がった娘の手、その薬指に、ゆっくりと指輪が嵌められる。薬指へ送られた輝きを見て、娘の目に輝きが戻る。青年は娘の手を握ったまま、変わらない思いを伝えた。
「きみがいいんだ。僕は、きみとこれからを過ごしたい」
青年の真剣な眼差しに、娘はようやくうなずいた。青年の顔に安心した笑みが浮かぶ。枯れ果てた桜の前で、娘は照れ笑いを浮かべながら、薬指に嵌められた指輪を幸せそうに撫でた。