声視る少年

 小さい頃から〝声〟が視えた。声に乗せた〝言葉〟も、僕の目に映り込む。  おべっか、いやみ、助言に忠告。どんな言葉にもそれなりの色や質感があった。口から発せられるなりふわふわと宙を舞い消えていくような軽いものや、嫌な色に濁ってもやもやと漂い続けるようなもの。淡い色合いで、発せられた相手に寄り添うようなものもある。  僕は、母の口から発せられる声が嫌いだった。

「みっちゃん。みっちゃんは可愛いわねぇ。お人形さんみたいな顔ねぇ」

 息子である僕を娘のように呼ぶ声が、言葉が、嫌いだ。ただでさえ母似の女と見紛う顔が嫌いなのに、どろりと粘つくどす黒い声にまとわりつかれると、ますます嫌いになってしまう。  小学校に通い始めるまで、僕が着られる服は女の子のものだった。小学生になっても、可愛らしい色合いの服ばかり着せられた。中学生になり詰め襟を着るようになれば、母も僕を〝息子〟と認識してくれるかと思ったが、母はいつまでも僕を「みっちゃん」と呼ぶ。  たまりかねたある日、スクラップ用の鋏を握りしめた僕は、夕飯の支度ができたと部屋に入った母の声を掴んだ。僕にまとわりつこうとする声は見た目通り粘つく感触で、僕にさらなる不快感を与える。握りしめた鋏を開き、手の中でぬるぬると動く言葉に刃を添えた。  ぶつんと、確かな手応えが僕の手に伝わった。僕を呼ぶ母の声は、鋏によって切り取られた。  何もない宙に向かって手を伸ばし鋏を振るう僕を、母は驚愕に見開いた目で見つめていた。中年と呼ばれる年に老いてなお少女然とした空気を持つ母は、吐き気がするほど僕に似ていた。

「み――」

 みっちゃん、と言いかけたのだろう。だが母の口から、僕を女の子のように呼ぶ言葉は出なかった。母は喉元を押さえ、何度も口を開閉させた。母の口に戻りたいのか、手の中の「みっちゃん」は魚のようにのたうつ。僕は決して、手を開かなかった。何度も口を開閉させた母は、諦めた顔で喉から手を離した。

「――|道徳《みちのり》。鋏なんか振り回して、危ないじゃない」 「ごめんよ、母さん」

 言い訳せず謝ると、母はもう一度夕飯ができた旨を言い残し、僕の部屋を出た。僕が部屋を出たのは、母が出ていった数分後だ。母の言葉を鋏で細切れにしていたら、少し時間がかかった。冷たい刃でぶつぶつと断ち切られるたび、べとつく言葉は震え、「みっちゃん」と僕を呼んでいた。

 視える声に乗った言葉を切り取れると知った僕は、常に鋏を持ち歩くようになった。好きな人の言葉を切り取るためだ。  好きな人。同じ中学の、渚七海さん。小柄な僕より小さくて、いつもおどおど怯えていて、相手の目を見て話せない、うつむいてひそひそと話す女の子。  彼女の声は冬の色。寒々として、けれど冴え冴えとした美しい色。渚さんに話しかけるのは僕だけで、腫れ物のように扱うみんなは渚さんの声の色を知らない。  腫れ物扱いされる渚さん。小さい頃、飼い犬と一緒に事件に巻き込まれた渚さん。今でも傷を抱えて生きている渚さん。その傷を知っていて話しかけるのは僕だけで、そばにいるのも僕だけだ。  他人と話せない彼女に代わって、僕が話す。あらゆるものに怯える彼女を、僕が支える。友達もいない彼女のそばにいるのは、今もこれからも僕だけ。そう思っていたのに。  中学三年の秋。渚さんは塾に通い始めた。僕の知らない間に、渚さんは世界を広げた。  塾で友達ができた渚さんは、僕と同じ高校へ進学し、さらに世界を広げた。同じクラスの子と明るく話すようになり、部活にも入って、穏やかな性格の先輩たちと挨拶を交わすようになった。  そして渚さんは、僕以外の男に恋をした。  渚さんと同じクラスで、同じ部に所属する少年。名前は藤咲春馬。色素が薄くて、白い肌にはそばかすが散っていて、僕と変わらないくらい小柄で、いつもへらへら笑って頼りなげな雰囲気の彼を、渚さんは好きになった。  あんな奴の、どこがいいんだろう。渚さんのことを何も知らないあいつのどこに、渚さんは惹かれたんだろう。  ああ、いやだ。あいつが渚さんに笑顔を向けている。人の良さそうな、いかにも人畜無害といったあの笑顔。虫唾が走る。渚さんの傷を知っても、あの事件を知っても、藤咲君は同じ笑顔を向けられるのか? そんなの、絶対あいつには無理だ。  だから僕は藤咲君に事件の話をした。渚さんが抱える傷の話をした。中学時代の渚さんがどんな風だったか、僕がどれだけ彼女を支えたかを話した。  それを、渚さんに見られた。  渚さんは、見開いた目で僕を見た。涙の中に僕が映り込む。渚さんの目は、きりきりと吊り上がった。

「榊君なんかっ、大っ嫌い!」

 冬を表したような声に乗せられた拒絶の言葉は鋭い欠片となり、僕の胸に突き刺さった。胸に走る痛みに、思わず左胸へ手をやる。触れただけで、渚さんから放たれた言葉はパキリと折れて僕の手元に残った。  渚さんは涙を落とし走り去った。藤咲君が「渚さん!」と追いかけていく。僕は渚さんから投げつけられた「嫌い」を手に、覚束ない足取りで家へ帰った。

 机に向かって、椅子に深く腰掛けて、折り取った言葉を手でもてあそぶ。氷のように冷たくて、金属片のように鋭くて、ガラスみたいに脆い、渚さんの言葉。いつかのために用意していたアクリルケースを取り出して、その中へ丁寧に、慎重に仕舞い込む。ケースの蓋をこつんと叩くと、中の言葉はきぃんと甲高い音を立てて震えた。

「大っ嫌い」

 囁くような声は、泣いているようにも聞こえた。

 それから、あれから。

 渚さんと藤咲君は、僕が追いかけなかったあの日に交流を深めたようだ。渚さんは藤咲君への思いをますます強めたらしい。とうとう渚さんは藤咲君に思いを告げると決めたようだ。放課後に校舎裏でと耳に挟んだ僕は、鋏片手に物陰に潜むことを決めた。  瞬く間にやってきた放課後。校舎裏の物陰に隠れた僕は、渚さんたちがやってくるのを待った。  そわそわと、落ち着かない様子でやってきた渚さん。やや遅れて、藤咲君もやってくる。向かい合った二人を見て、僕はいつでも飛び出せるよう身構えた。

「藤咲君」

 冬色の声が、緊張に震えている。渚さんは中学時代のように目を伏せうつむくと、背筋を伸ばし、まっすぐ藤咲君を見た。

「私、藤咲君が、好き」

 淡い色の、きらきら光る言葉が、観賞魚のように優雅な動きで宙に放たれた。僕は物陰から飛び出し、藤咲君へとまっすぐ泳ぐ言葉を掴むと、持っていた鋏で切り取った。  突然現れた僕に驚く二人を置いて、僕は走り去った。手に掴んだ「好き」は「嫌い」と違い、あたたかくて、すべすべして、しっとりしていた。

 家に帰り、この日のために――渚さんの「好き」を仕舞い込むためだけに――用意していたアクリルケースへ、渚さんの言葉を放す。ケースに入れられてなおあたたかな言葉は、ケースをつつくとふるりと震え、ため息のように「好き」と囁いた。

 言葉を奪った翌日。登校するなり、僕は渚さんに掴みかかられた。

「榊君でしょ? 榊君があのとき、私の言葉を盗ったんだ!」

 いつも寒々しい色をしている渚さんの声が、燃え盛る炎の色になっている。揺らぐ言葉は熱を帯び、触れると火傷しそうだ。  僕に掴みかかる渚さんを、友人が宥め引き剥がそうとする。その手を振り払い、渚さんは涙をこぼし僕を睨みつけた。

「私の言葉を返して、藤咲君への気持ちを返して!」

 ――大好きな渚さんの頼みでも、それは聞けないなぁ。

 口にせず微笑んだ僕は、オロオロする藤咲君に優越感を抱いた。しかし帰宅してすぐ、この優越感は打ち砕かれる。ケースに入れていた「好き」が、消えていたのだ。「嫌い」は未だケースの中にあるのに。  ああそうかと、諦め混じりに納得する。

「あの言葉は、僕に向けられた言葉じゃないものね」

 きっともう、渚さんは藤咲君に「好き」と告げられる。けれど僕が教えなければ、渚さんは気づかない。  教えない。教えてやるもんか。僕以外に「好き」と言えるだなんて。

 それから渚さんは、言葉が戻っているとも知らず、藤咲君に「好き」と言えないままにいる。それは僕を睨む目つきでわかる。けれど二人は、「好き」の言葉なしに思いを通じ合わせている。

「藤咲君」

 あいつを呼ぶ渚左さんの声が、「好き」に勝るとも劣らない輝きを持っている。はにかむ藤咲君が口にする「渚さん」には、あたたかさが溢れている。  きらきらして、ほんのりあたたかくて、思わず触れたくなる言葉たち。  僕は再び、鋏を握った。