目次
※ AIに手伝ってもらいました。
1
神殿の大広間は、荘厳な空気を漂わせつつも残酷なほど静まり返っていた。磨き上げられた大理石の床はそこに集う騎士たちの姿をぼんやりと映し、天井近くに設けられたステンドグラスは色のついた光を無遠慮に投げかける。
『〈花の聖女〉ニコラ様付・護衛騎士選考会』
本来、この場所は栄誉と祝福に満ち、集まった騎士たちが期待と興奮にさざめいているはずだった。だが今この場に満ちているのは、気まずさと侮蔑の空気。 護衛騎士選考会と名目は立派だが、その実これは〈花の聖女〉ニコラの護衛騎士が決まらないための急募である。 他の〈水〉〈月〉〈大地〉の三聖女は護衛騎士を志望する無数の志願者の中から選び抜かれる、まさに〝選抜〟であるのに対し、これは〝募集〟だ。それも、人が集まらないがための屈辱的なもの。 それでも集まった騎士の数は、両手で数えても余るほどだった。集まった顔ぶれも、お世辞にも精鋭とは言えない。 とうに盛りを過ぎ、もうこういった場でしか職を得られないであろう老騎士。まだ騎士叙任のインクも乾いていないような、経験の乏しい若者。ほかの三聖女であれば絶対に選ばないような者ばかり。 そんな中、大広間の重厚な扉が軋むような音を立てて開かれた。 荒々しい足音が、広間に響く。硬いブーツが大理石の床を踏みしめる、遠慮のない音だった。 現れたのは一人の男だ。短く刈った黒い髪、鋭い眼光、精悍な顔立ち。何より印象的なのは、その顔の左半分を覆う、大きな傷跡。獣の爪で引き裂かれたかのような傷跡は醜く盛り上がり、見る者の目を逸らさせる。 広間にいた騎士たちの視線が、一斉にその男に注がれる。
「荒くれエドウィンだ……」
誰かが、押し殺した声で呟いた。
「見ろよ、あの醜い傷……」 「魔獣と一人で戦うなんて、蛮族にしかできないぞ」 「そもそも、何であんな野蛮人が騎士を名乗っているんだ?」 「他の聖女様の選考では、全部落とされたって聞いたぞ」 「それは当然だろう。あんな顔で聖女様の前に立つなど、不敬にも程がある」
ひそひそと交わされるのは、遠慮のない陰口。隠す気のないそれは男――エドウィンの耳にもはっきりと届いた。 エドウィンは音がするほど奥歯を噛みしめたが、陰口を言う者たちを振り返ることも、一瞥をくれることもなかった。ただその足音をさらに高く響かせながら、広間の奥へ向かって歩き続けた。その足音に、陰口を叩いていた者たちは口をつぐんだ。エドウィンの足音には、彼の中に燃える苛立ちと、世界すべてに対する反骨心が込められていた。 エドウィンの行き先は、広間の隅だ。人目につかない壁際に行くと、彼は腕を組み、壁に寄りかかった。そのまま広間を見回し、冴えない顔ぶれを見て自嘲気味の笑みを浮かべる。
――どいつもこいつも冴えねえ顔だ。聖女様を守ろうって気概がねえ。
広間の顔ぶれを確かめると、エドウィンは次に、広間の一段高い場所を見た。そこでは神官二名と、聖女ニコラ自らが騎士たちの面接を行っている。 豪華な彫刻の施された椅子に座っているというのに、ニコラに偉ぶっている様子はない。むしろ、枝の上で冬の寒さにうずくまる小鳥のように小さく見える。豊かな体つきを隠すような、ゆったりとした仕立ての聖女服は純白だ。その白さが、彼女の気弱さを物語っているようだった。 エドウィンはニコラの姿をじっと見た。ほかの聖女のように、柳のような細い体つきではない。歴代の聖女を思い出しても、彼女のようにふくよかな丸みを帯びた者はいなかっただろう。だがエドウィンには、彼女のその体つきを「聖女らしからぬ体だ」などと不快には思わなかった。むしろ好ましいものに思えた。細すぎて折れてしまいそうな華奢さよりもよほど健康的で、生命力に満ちているように見える。まるで豊穣の女神のような、自然で、温かみのある美しさだった。あとは俯いたりせず、自信を持って顔を上げれば完璧だろう――そう思えた。 豊かな亜麻色の髪を一房前に流したニコラは、手元の功績録に視線を落としたまま、騎士の顔を見る時以外は一度も顔を上げようとしない。その隣に座る神官たちの態度は、もっとあからさまだ。 隠そうともしない、退屈そうな顔。形式だけのやり取り。時折交わされる、ニコラへの蔑みの視線。それらすべてが、ニコラという存在を〝ハズレ聖女〟だと断じていた。 花も咲かせられない〈花の聖女〉――。それが神殿の、この国におけるニコラへの評価だった。彼女が受け持つ庭園の花々は、そのほとんどが枯れ果てている。本来ならば、彼女も王国の生命線を支える四大聖女の一柱だ。だのにその力を十全に発揮できない彼女は、今や神殿のお荷物と成り果てていた。
「次、前へ」
神官の一人が、あくび混じりで次の応募者を呼ぶ。次は盛りを過ぎた老騎士の番だった。もう鎧をまとうことすら厳しいのか、その足取りは覚束ない。エドウィンはその光景から目を逸らすように、自身の顔半分を覆う大きな傷跡にほとんど無意識に触れた。 この傷のせいで、エドウィンはすべてを失ったと言ってもいい。 国境にある村が魔獣の被害に遭っていると聞き、エドウィンはその討伐部隊に加わった。エドウィンは自身の剣の腕前に自信があった。一人であろうと魔獣程度に負けるつもりはなかった。だから単身魔獣の群れへ突っ走り、ほとんどの魔獣を一人で屠った。だが結果は、このざまだ。 顔を覆う醜い傷。〈水の聖女〉が清めた聖水で傷を洗い清めて治療に当たっても、この傷が薄くなることはなかった。魔獣の爪の毒と、その血を浴びた呪い。それによってエドウィンは、腕前だけならば護衛騎士になれるというのに、どの聖女からも門前払いを受けた。
「不浄な傷だ」 「まるで蛮族のようではないか」 「聖女のそばに置くには、あまりに荒々しい」
人々を救った傷だというのに、誰もそれを認めはしなかった。単身で突っ込んでいった野蛮な騎士だと誹った。そこにはエドウィンの能力の高さに対するやっかみも含まれていたが、もはやエドウィンにはどうでもよかった。
――結局のところ、俺もニコラも同じだな。他人から一方的に〝ハズレ〟の烙印を押された、はぐれ者同士ってわけだ。
そんなくだらない感傷が胸を過り、エドウィンは再び自嘲を深める。静まり返った広間に、老騎士の当たり障りのない受け答えだけが虚しく響いていた。
「次――エドウィン騎士。前へ」
何人の名が呼ばれた後だろうか。神官が、まるで罪人の名を呼ぶかのように感情のない声でエドウィンの名を告げた。エドウィンは組んでいた腕を解き、壁から背を離した。一歩、また一歩と大理石の床を踏みしめるたび、自身の鎧が冷たい金属音を立てる。それは静まり返った広間に、やけに大きく聞こえた。 エドウィンの前に呼ばれた老騎士は、当たり障りのない質疑応答の末、あっさりと退けられている。あの老騎士よりも使える騎士でいるつもりだが、とエドウィンは自身の顔半分に意識を向ける。この傷ではなと思ったときには、口角が皮肉っぽく吊り上がっていた。
――どうせ今回も、この傷を理由に落とされる。
そんな諦念だけが、エドウィンの胸を占めていた。 長机の前に設けられた椅子に、エドウィンは無言で腰を下ろした。目の前には、俯いたままの〈花の聖女〉ニコラと、あからさまに面倒そうな顔をした神官たち。
「志望動機を」
神官の一人が、手元の羊皮紙に目を落としたまま、事務的に尋ねる。
「……騎士としての任を、全うするためだ」
エドウィンは、短く、そして投げやりに答えた。どうせ何を言っても無駄だ。この顔の傷を見た瞬間、もう結果など決まっている。 神官はエドウィンの答えに興味すら示さず、ただ無感情にペンを走らせるだけだった。やはり、時間の無駄か。エドウィンが席を立とうかと考えたその時だった。
「あの……」
鈴を転がすような声が、エドウィンの耳に届いた。声の主は、今まで俯いていた聖女ニコラその人だ。彼女は恐る恐るといった様子で顔を上げ、黒曜石の瞳でまっすぐにエドウィンを見つめていた。その視線が顔の傷に注がれるのを、エドウィンは見逃さなかった。
――またか。
エドウィンは内心で毒づいた。同情か、哀れみか、あるいは恐怖かそれとも侮蔑か。どれを向けられているとしても、もう飽き飽きだった。 だが、ニコラの唇から紡がれたのは、彼の予想を、その人生を、根底から覆す言葉だった。
「その傷……まるで、冬の厳しさを耐え抜いた木の幹のようですね。あなたの今までの人生、その物語を感じます」
エドウィンの思考が、一瞬止まった。
――何だ? 今この女はなんと言った?
木の幹。物語。そこに込められているのは、哀れみでも恐怖でもない。ただ目の前にあるものをありのままに捉え、そして詩的に表現する言葉だった。 エドウィンが呆然としていると、ニコラは改めて彼の傷跡を見つめた。今度は最初に向けた、恐る恐るといった視線ではない。それは慈しみに満ちた眼差しだった。 彼女は羊皮紙を手放すと、エドウィンの頬へ丸い手をそっと伸ばした。傷跡に触れる直前、その手は躊躇うように止まった。ニコラは我に返ったのか、慌てて手を引っ込めた。
「あ、あの……」
丸みを帯びた頬が、|巴旦杏《アーモンド》の花のように薄紅色に染まる。それでも、彼女は勇気を振り絞るように小さく息を吸った。
「も、もしよろしければ……触れても、いいですか?」
その声は細く、震えていた。緊張してるのだろう。しかしそこには、確かな真心が込められている。 エドウィンはニコラの申し出に驚いた。この傷に進んで触れようとするのは、医者以外にいなかった。いや、医者ですら躊躇って触れたがらなかった。 見るだけで不快感を露わにされた。 見るだけで不浄な傷だと蔑まれた。 その傷を、聖女であるニコラは触れたいと言った。 エドウィンはゆっくりと、わずかに躊躇いながらうなずいた。
「……お好きに」
ニコラのぷっくりした唇が、ほっとしたような小さな笑みを浮かべる。そして今度は迷うことなく、ふっくらと愛らしい指先をエドウィンの左頬へそっと触れさせた。 あたたかく、柔らかな感触が醜い傷に触れる。それは春風のようなあたたかさと優しさに満ちていた。 ニコラの指は、エドウィンの醜い傷跡をまるで神聖なものに触れるかのように、慈しむようになぞっていく。 くすぐったかった。それと同時に、泣きたくなるほどの喜びがエドウィンの胸から湧き上がった。傷を負って以来凍りついていた心の奥底に、春の日差しが入り込んだようなあたたかさがそこにはあった。 ニコラは傷跡を指先でそっとなぞりながら、優しい目でエドウィンを見上げた。
「国境の村の人たちを守るために、こんな傷を負って……」
その声には感謝と、そして深い尊敬が込められていた。
「それでも騎士を続けてくださって、ありがとうございます」
その言葉は、これまでエドウィンが聞いたどんな賞賛よりも、どんな栄誉よりも、彼の魂の深いところに響いた。 ありがとう。 この傷に対してそんな言葉をかけてくれたのは、この世にただ一人。目の前の、この心優しい聖女だけだった。
「あなたは国境の村を、たった一人で魔獣からお救いになったそうですね。報告書、拝見しました。そのようなことができる騎士は、この国広しといえどあなたしかいないと思います」
エドウィンの心臓が跳ねた。ニコラは自分の戦いを知っている。それどころか、それをすごいことだと面と向かって認めた。誰もがその結果として残った傷だけを見て、戦いの功績そのものから目を逸らしてきたというのに。 ニコラははにかみながら、咲き始めの百合のような笑みを浮かべた。
「その傷で悩まれてきたようですね。でもほかの誰がどう言おうと……私は、誇らしく思います」
その瞬間、エドウィンの世界から音が消えた。 誇らしい。 その一言が、エドウィンの魂を打ち抜いた。彼自身でさえ呪い、屈辱の印としか思えなかったこの傷を、目の前の聖女は祝福したのだ。 胸の奥から焼けつくような熱い何かがこみ上げてくる。目の前の気弱で、そして誰よりも優しい聖女が、ひどく愛おしい。
――ああ何だ、何なんだこの感情は!
気づけば面談は終わっていた。神官が何か言っているが、エドウィンはまるで耳に入らなかった。何かに憑かれたように立ち上がったエドウィンは、自分を追い返そし次の騎士を呼ぼうとする神官の腕を、ほとんど掴みかからんばかりの勢いで制した。
「お待ちいただきたい」
エドウィンは普段から荒々しい。しかし今この声は、普段のそれとは質の違う、鬼気迫るような声だった。神官が怯んだように目を見開く。
「俺は、何としてもニコラ様の騎士になりたい。この任は、他の誰にも渡すつもりはない」
その熱烈な言葉は、静かな広間に響き渡った。ニコラは驚いたように目を見開き、巴旦杏の花色に染まった頬を、今や薔薇色に染めてエドウィンを見つめている。 結局、その日のうちに〈花の聖女〉の護衛騎士はエドウィンに決まった。彼の熱意に、ほかの応募者たちが自ら辞退を申し出たのだという。彼らの「〈花の聖女〉の護衛騎士になる」という意志はその程度だったということだろう。 ニコラは「エドウィンさんのような方が私なんかの護衛でいいのでしょうか……」と戸惑っていたが、最後には小さくうなずいてくれたらしい。 そして今、エドウィンは、再びニコラの前にいた。今度は応募者としてではない。ニコラがただ一人選び取った騎士として。 彼はその場に跪き、深く|頭《こうべ》を垂れた。
「ニコラ様。この任に就くにあたり、俺の覚悟を最初にお伝えしておきます」
エドウィンはゆっくりと顔を上げた。その真剣な眼差しに、ニコラは動きを、呼吸すらも止めた。
「俺はこの傷と素行のせいで、誰からも騎士として認められなかった。だがあなただけは、この傷を『誇らしい』と言ってくれた。俺を、騎士と認めてくれた。あなたは……俺の魂を救ってくれた」
だから、とエドウィンは顔を上げた。
「だから、俺のこの剣と命は、あなただけのためにある。これは騎士としての誓いだけじゃない。俺個人の、あなたに対する絶対の誓いだ。これから何があっても、俺だけは絶対にあなたの味方だ。それだけは、覚えておいてほしい」
エドウィン告白に対し、ニコラは声にならない声でただ、こくりとうなずいた。その顔には戸惑いと、少しのはにかみが混ざっていた。
2
エドウィンがニコラの正式な護衛騎士となって、数日が過ぎた。 彼の生活は一変したと言っていい。これまでは騎士団の宿舎で他の騎士たちと顔を合わせるたびに好奇や侮蔑の視線に晒され、常に神経をささくれ立たせていた。だが、今は違う。彼の世界にあるのは立った一人、〈花の聖女〉ニコラだけ。彼女を守ること、その一点に彼のすべては集約されていた。 彼の最初の、そして主な任務は、ニコラが毎日行う庭園の手入れへの付き添いだった。 〈花の聖女〉の庭園。その言葉の響きとは裏腹に、その場所はひどく寂しい空気に満ちていた。 かつては色とりどりの花々が咲き乱れていたのであろう面影だけを残し、ほとんどの植物は力なく項垂れ、土は乾き、生命の気配が希薄だった。まるで主である聖女の心を、そのまま映し出したかのように。 ニコラはその枯れた庭園で、毎日祈りを捧げていた。 変色し、萎れた花一本一本に屈みこみ、その土に触れ、目を閉じて何かを必死に祈る。その姿は痛々しいほどに健気だった。結果が出ないとわかっていながら、それでも彼女は自分の役割を諦めてはいなかった。 エドウィンは、そんな彼女の背中を少し離れた場所からただ黙って見守る。それが彼の仕事だった。聖女を狙う不届き者がいれば身を挺して守る。しかし聖女の仕事には手出しをしない。それが聖女の護衛騎士だ。 そしてもう一つ、彼には重要な仕事がある。それはニコラの心をこれ以上乱さないよう、彼女の心をかき乱す者を徹底的に排除することだった。 その日も、数人の若い神官たちが庭園の脇を通りかかった。彼らは祈りを捧げるニコラの姿を認めると足を止め、ひそひそと嘲笑を交わし始めた。
「まだやっているのか、あのハズレ聖女様は」 「枯れ木に祈って花が咲くなら、誰も苦労はしないな」 「まさに神殿の穀潰しだ」
その声は、静かな庭園ではニコラの耳にも届いているはずだった。彼女の肩が悔しさに震えるように小さく揺れるのが見えた。その瞬間、エドウィンは一歩、前に踏み出した。 ただ、それだけだ。しかし彼の全身から放たれる、鞘に納まったままの剣よりもなお鋭い威圧感に、神官たちはびくりと体を震わせた。エドウィンは何も言わない。深い傷跡の残る顔で、氷のような視線を彼らに向けるだけだ。その視線は明確に告げていた。「俺の主を侮辱する者は、誰であろうと容赦しない」と。 神官たちはそそくさとその場を立ち去っていった。エドウィンがニコラの方へ視線を戻すと、彼女は俯いたまま、袖で目元を隠していた。
――まただ。また、この人はこうして、一人で傷ついている。
もう何度も見た光景だ。エドウィンは悔しさに歯噛みした。そばにいても、ニコラの心の奥までは守りきれない。出会いの日に誓った「絶対の味方だ」という言葉が、虚しく響く。
――どうすれば、俺はこの人を本当に守れる? どうすれば、あの日のような笑顔をもう一度見られるんだ?
そんなことを考えていた午後。ささやかな出来事が起きた。 一羽の小鳥が庭園に迷い込んできた。うまく飛べないのか、心細そうに鳴いている。それに気づいたニコラは、そっと小鳥に近づいた。彼女が手のひらを差し出すと、小鳥はその手に宿る優しさを感じ取ったかのように、躊躇いなくちょこんと飛び乗った。ニコラは、その小さな命を愛おしそうに見つめ、ふわりと笑った。 それは、あの日見た百合のような笑顔とは異なる、年相応のあどけない笑顔だった。彼女の周りだけ陽光が穏やかに差し込んだかのような、温かい笑顔。 エドウィンはその光景に、時が止まったかのように見入った。そして、気づいた時には言葉が口をついて出ていた。
「……笑ってるあんたは、本当にきれいだな」
しまった、と思った。「あんた」だなんて無礼な、それ以前に騎士としてあるまじき心の吐露。手で口を覆ったところでもう遅い。 エドウィンの言葉に、ニコラは「へ?」と間の抜けた声を上げたかと思うと、次の瞬間には耳まで真っ赤になって俯いてしまった。エドウィン自身も、自分の柄にもない発言にどうしようもない気恥ずかしさを感じ、バツが悪そうにそっぽを向いた。 気まずい沈黙が、二人の間に流れる。そのまま無言で二人は庭園を周り、騎士としての護衛を終えるまで、一度も話すことはなかった。 その翌朝のことだ。 いつものように庭園の警護についていたエドウィンは、ふと、ある一点に目を留めた。昨日、ニコラが小鳥を手に乗せてあの笑顔を見せた場所。そのすぐ足元の土から伸びる、数本の萎れていた花。その花弁に、ほんのわずかだが、色が戻っている。 それは、まだ生きているとは言い難い、淡い色の変化だ。だが、昨日までの完全に生命力を失った茶色とは明らかに違っている。 エドウィンはその数本の花と、ニコラのことを思い返す。 彼女の心からの笑顔。そして、自分の柄にもない一言。 まさか、そんなはずはない。だが目の前で起きているこの小さな変化は、一つの可能性を、彼の心に強く示唆していた。 この人を本当に守るということは、ただそばにいることではない。この人の心を、笑顔を取り戻させることこそが、あるいは――。 エドウィンの護衛任務は今、まったく新しい意味合いを持ち始めていた。
3
あの日、エドウィンが思わず「きれいだ」と口にしてから、二人の間には、どこかぎこちなく、しかし確かな変化が生まれていた。
「あの、エドウィンさん」
ニコラはエドウィンと二人きりの時は、以前よりも俯くことが減った。それに、エドウィンに話しかけることも増えた。
「この前……あの、きれいだって言ってくれたときの、ことなんですけど……」 「あれは……無礼な物言いをしました。申し訳ありません」 「いえ、気にしてません。むしろ、懐かしくなりました」
ニコラはそう言って、愛らしい、はにかんだ笑顔を浮かべた。
「聖女に選ばれる前は、侍女だったんです。あんた、なんて呼びかけられるのは久々で……懐かしかった」
だから、とニコラは微笑んだままエドウィンを見上げた。
「あんまり畏まらないでください。私はどうせハズレ聖女ですし、いつまで聖女を続けられるかわからない……。だから、エドウィンさんと普通に仲良くしたいです」
それは願ってもない申し出だ。しかしうなずくわけにもいかない。自分は騎士で、ニコラは聖女だ。 エドウィンがどう返したものかと悩んでいるうちに、ニコラは飛んできた小鳥に気を取られ、本分である祈りに意識を集中させてしまった。それを少し残念に思いつつ、エドウィンはニコラの護衛の任に就いた。 ニコラが変わったように、エドウィン自身も変わった。今までならば護衛対象はただの護衛対象で、その心情を深く知ろうとは思わなかった。しかし今の彼は、ニコラの些細な表情の変化や、ふとした瞬間に見せる笑顔の気配を見逃すまいと、その全神経を彼女一人に集中させるようになった。 そして、彼が立てた仮説はどうやら正しかったらしい。あの時、ニコラが笑顔を見せた場所にあった数本の花は、今もなお、淡いながらも生命の色を保ち続けている。それはこの枯れた庭園の中の、たった一つの希望の光だった。 この光を、どうすればもっと大きくできるのか。エドウィンがそんなことを考えながら、いつものようにニコラの警護についていた、穏やかな昼下がりのことだった。 その平穏は、一人の聖女の来訪によって砕け散った。 庭園の入り口から現れたのは、数人の従者を従えた一人の美しい女性だった。 水の流れを思わせる、青と白を基調とした豪奢な聖女服。背筋は一分の隙もなくまっすぐに伸び、その歩みはまるで女王のように自信に満ち溢れている。 〈水の聖女〉セレスティーナ。それが彼女の名だった。 彼女の涼やかながらも厳しい眼差しが、枯れた庭園を一瞥し、そして祈りを捧げていたニコラの姿を捉える。その瞳にあからさまな蔑みの色が浮かんだのを、エドウィンは見逃さなかった。
「ごきげんよう、ニコラ様。お祈りの最中でしたかしら」
その声は磨き上げられた水晶のように美しく、そして冷たかった。ニコラはびくりと肩を竦ませると、慌てて立ち上がった。すっかり萎縮してしまったニコラは、おどおどしながらセレスティーナへお辞儀をした。
「セレスティーナ様、ようこそお越しくださいました。お祈りなら、今済ませました」 「そう。それなら少しよろしいですわね?」
セレスティーナはニコラの返事を待たず、本題を切り出した。その言葉はどれもニコラの心を突き刺す、冷たい氷の刃のようだった。
「来月は年に一度の『大浄化の儀』。それは覚えておいでですわよね?」 「は、はい……」 「わたくしの儀式に必要な『月光の蓮』、今年もまだ蕾すらつけておりませんのね」
セレスティーナは、庭園で唯一蓮が植えられている水辺に目をやった。そこにあるのは、茶色く変色し、水面に力なく浮かぶ、枯れた葉だけだった。
「各地の観測所から、嘆願が殺到しておりますの。下流の村では川の淀みがひどく、民の健康を害する恐れもあるとか……。このままでは王国の聖水が、ただの泥水になりかねませんわ」
その言葉は正論だった。正論だからこそ、悪意よりも深く人を傷つける。ニコラは顔を真っ青にさせ、ただ「申し訳、ありません……」と、蚊の鳴くような声で繰り返すことしかできなかった。 その時だった。 今まで沈黙を守っていたエドウィンが、無言のまま、一歩前に出た。ただそれだけの動きだ。しかしその一歩は、ニコラを庇うようにセレスティーナとの間に割り込む形になった。 彼の右手が、腰に提げた剣の柄にそっと置かれる。それは抜刀の意志を示すものではない。だがこの男がただの飾りではない、歴戦の騎士であることを、雄弁に物語っていた。 そして、その顔の傷跡。魔獣が遺した、獰猛で圧倒的な力の証。その傷の下で、エドウィンの瞳が射殺さんばかりの光を放ってセレスティーナを捉えている。
「我が主の価値を、貴殿が判断する権限はない。俺にとって、ニコラ様は|他《た》のいかなる聖女よりも尊いお方だ。これ以上の侮辱は許さん」
セレスティーナの眉が、わずかにぴくりと動いた。彼女はエドウィンに怯んだ自分自身に驚いたようだった。聖女である自分が、こんな出自も知れぬ傷モノの騎士に気圧されるなど、ありえない。 プライドを傷つけられた彼女は、しかし、ここで騒ぎを起こす愚は選ばなかった。
「……善処を、期待しておりますわ。ニコラ様」
彼女はそれだけ言い放つと、氷の仮面を貼り付けたまま、優雅に踵を返した。従者たちが慌ててその後を追っていく。水の聖女がその傲慢な輝きと共に去った後、庭園には、まるで冬が訪れたかのような凍てつく沈黙だけが残された。 沈黙を破ったのは、ニコラの今にも消え入りそうな声だった。
「ごめんなさい、エドウィンさん……。私のせいで……」
その声は、罪悪感と自己嫌悪に震えていた。セレスティーナに無礼を働いたエドウィンの身を案じているのか。それとも、自らの不甲斐なさをただただ恥じているのか。
「あんたが謝ることじゃない」
エドウィンは、短く、そしてできるだけ穏やかな声で答えた。だがその言葉は、気休めにすらならなかったらしい。ニコラは|頭《かぶり》を振った。
「いいえ、私のせいなんです。セレスティーナ様の仰るとおり、私が……私が、もっとしっかりしていれば、『月光の蓮』も、きっと……」
その言葉は、最後には嗚咽に変わった。ニコラはその場にうずくまり、両手で顔を覆う。その小さな背中は、不甲斐なさと情けなさに震えていた。慌てたエドウィンがいくら慰めの言葉をかけ背中を撫でても、ニコラは泣き止まない。むしろ一層激しく泣くだけだ。エドウィンは悔しさに、唇を噛みしめた。 湧き上がるのは、目の前で泣き崩れる主への憐憫か。いや、違う。彼の胸の内を焼くのはもっとどうしようもなく暴力的な感情――怒りだった。 あのセレスティーナとかいう女に対する、純粋な怒り。そして、これほどまでに一人の少女を追い詰めながら何一つ手を差し伸べようとしない、神殿という仕組みそのものへのどうしようもない憤り。 彼はニコラの震える背中から目を逸らし、思考を巡らせる。セレスティーナの言葉を、一つ一つ頭の中で反芻する。
『大浄化の儀』 『月光の蓮』 『川の淀み』
おかしい。どう考えても、繋がりが不自然だ。〈水の聖女〉の儀式ならば、その力は水そのものに宿るはず。なぜそこに花が介在する必要がある? 儀式を彩るための飾りではないのか? あの女の口ぶりはまるで、その蓮がなければ儀式そのものが成り立たないとでも言いたげだった。 そこでエドウィンの脳裏に、昨日の朝に見た光景が蘇る。 ニコラの笑顔に応えるように、ほんのわずかに、色を取り戻した数本の花。あの時は、まさか、と思った。だが、もしもあれが偶然ではなかったとしたら? もしニコラの感情が、本当にこの庭園の植物の生命力に影響を与えているのだとしたら? だとするならば、この枯れた庭園は彼女が花を咲かせられない〝ハズレ聖女〟であることの証明などではない。この庭園は、彼女の心がどれほど深く傷ついているかを示す証ということになる。 一つの仮説が、エドウィンの中で急速に形を成していく 〈花の聖女〉の力の本質は、花を咲かせることではない。その花を触媒として、他の聖女たちの力を増幅させる、あるいは、その力の根源を支えることにあるのではないか。だとすれば〈花の聖女〉こそ、四大聖女の要。この国の生命線そのものだ。 そんな国家の最重要人物が、なぜこれほどまでに蔑まれ、孤独に喘いでいるのか。なぜ、彼女の心の傷について、誰も知ろうとしないのか。知っていたとして、なぜ放置しているのか。 そうだ、とエドウィンは気づく。あのセレスティーナは、ニコラの庭園が枯れていることを責めた。だが、聖女失格だとは言わなかった。彼女は知っているのではないか。ニコラの感情こそが庭園を蘇らせるのだと。それを知っていて、わざとそこに触れないようにしているのではないか。 このままではいずれ、ニコラはその心の優しさゆえにすべての責任を一人で背負い込み、潰れてしまうだろう。
――そんなことはさせない。絶対に。
出会いの日に誓ったのだ。「俺だけは絶対にあなたの味方だ」と。味方であるならば、ただそばにいて彼女を脅かす者を威嚇するだけでは足りない。彼女を苦しめる、この状況そのものを変えなければならない。 そのためにはまず、知らなければ。 〈花の聖女〉の力の、本当の仕組みを。 彼女の心を曇らせる理由を。 そして、この神殿に渦巻く、欺瞞の正体を。 エドウィンは固く拳を握りしめた。泣きじゃくる主の、か細い背中を見つめながら、静かに、しかし鋼のような意志で、心に誓う。
――もう、あんたを一人で泣かせはしない。俺が、全部、解き明かしてやる。
彼の騎士としての本当の戦いが、今、始まろうとしていた。
4
〈水の聖女〉セレスティーナが残していった、氷のように冷たい言葉の棘。それはニコラの心に深く突き刺さったまま、エドウィンの思考にも暗い影を落としていた。 ただの飾りではない、儀式の要となる『月光の蓮』。〈花の聖女〉の力がほかの聖女の力に影響を及ぼすという、エドウィンの仮説。だが確証がなければ、それはただの妄想に過ぎない。どうすれば真実にたどり着ける? 書庫を漁り、難解な古文書を紐解くのも一つの手だろう。だが、騎士である自分にそれを許されるかはわからない。それに、書物に残された知識よりももっと確かなものがあるはずだ。長年この神殿で、この庭園で、聖女たちを見つめ続けてきた、生きた人間の記憶が。 エドウィンが向かったのは、庭園の隅にある古い道具小屋だった。彼の目当ては、神殿に仕えて五十年になるという、古株の庭師だ。神官たちのように体面を気にせず、騎士のように忠誠に縛られもしない。土と植物だけを相手にしてきた男なら、何かを知っているかもしれない。 老庭師は、古びた鋤の手入れをしていた。エドウィンの姿を認めると、彼は節くれだった手を止め、訝しげに眉をひそめた。
「これはこれは……〈花の聖女〉お付きの騎士様が、このような埃っぽい場所に何のご用で?」
その声には、あからさまな警戒が滲んでいた。エドウィンは、できるだけ威圧的にならないよう、しかし、単刀直入に切り出した。
「あんたに、いくつか聞きたいことがある」 「はあ、わしに」 「俺はニコラ様の護衛騎士だ。主のことを、もっと知る必要がある」
その言葉に、老庭師の纏う空気がわずかに和らいだ。彼は手入れしていた鋤を壁に立てかけると、エドウィンに向き直った。
「ニコラ様のことですか。あのお優しい方が、何か?」 「昔の話が聞きたい。あんたは先代や、その前の〈花の聖女〉様のことも知ってるんだろう?」
エドウィンの問いに、老庭師は「存じておりますとも」と遠い目をしてうなずいた。皺の刻まれた顔に、懐かしむような笑みが浮かぶ。
「先代のフローラ様も、先々代のプリムラ様も、それはそれは素晴らしい聖女様でいらっしゃった」 「その方たちは……どうやって、この庭園の花を咲かせていたんだ?」
エドウィンは、核心に触れる質問を投げかけた。何か、特別な儀式があったのか。あるいは、秘伝の呪文でも唱えていたのか。だが、老庭師の答えは彼の予想を裏切るものだった。
「どうやって、と申されましても……特に、何も」 「何も、だと?」 「はい。お二方とも、何か特別なことをされていたご様子はありませんでしたな。ただ……」
老庭師は、言葉を探すように、空を見上げた。
「ただいつも、笑っておられた」 「笑って……?」 「ええ。庭園の陽だまりでお茶を飲んでは、やってきた客人と楽しそうにおしゃべりをされたり。お気に入りの花のそばで、気持ちよさそうにお昼寝をされたり。鼻歌を歌いながら、蝶々と戯れたり。そうしているだけで、花どもは聖女様のそのお気持ちに応えるかのように、勝手に咲き誇っておりましたなぁ」
――やはり、そうか。
エドウィンの仮説が、確信に変わる。〈花の聖女〉の力は、その感情、特に幸福な感情に呼応するのだ。
「その方たちは……どんなお人柄だったんだ?」 「お人柄? それは……お二人とも、いつでもほんわかと幸せそうなお方でしたな」
老庭師は、楽しそうに続ける。
「先々代のプリムラ様は甘いものがお好きで、よく厨房からお菓子を拝借してはこの庭でこっそり食べておられました。同じく庭師だった親父についてきたわしに、よく分けてくださったものです。フローラ様は恋物語がお好きで、よく侍女に本を読ませては、物語の登場人物に一喜一憂しておられましたな。お二人とも、難しいお顔などなされたことがない。いつも、まるで春の陽だまりそのもののような、幸せそうな空気をその身に纏っておられました」
春の陽だまり。その言葉は、今のニコラの姿とはあまりにもかけ離れていた。 老庭師は、エドウィンの心中を察したように、ふっと笑みを消し、寂しげに息をついた。
「今のニコラ様は……あまりにお優しすぎて、なにもかもを一人で抱え込みすぎている。あんな今にも泣き出しそうなお顔をされていては、花どももそりゃあ萎れるというもんです」
その言葉は、エドウィンの胸に深く突き刺さった。 先代、先々代の聖女は、特別なことなど何もしていなかった。ただ幸せに笑って、生きていただけ。それだけで庭園は花開き、国は祝福されていた。 ニコラに足りないのは、聖女としての能力ではない。年頃の娘としての、穏やかで幸福な日常。それだけなのだ。そしてそれを奪っているのは、紛れもなくこの神殿の連中だ。 エドウィンは礼を言うと、老庭師に背を向けた。彼の頭の中では、すでに次に行うべきことが明確に定まっていた。
5
老庭師の言葉は、エドウィンの心に深く、そして重く突き刺さっていた。 ニコラに足りないのは、聖女としての才能や努力ではない。年頃の娘としての穏やかで幸福な日常――。 その仮説を、彼はどうしても証明する必要があった。憶測のままでは何も変えられない。彼女を本当に守るには、誰もが認めざるを得ない〝事実〟という名の剣が必要だった。 その夜、エドウィンは神殿の奥深くにある大書庫に一人で忍び込んでいた。ここは一部の高位神官しか立ち入りを許されていない、禁じられた知の聖域だ。昼間であれば、騎士である彼でも入室は叶わない。だが幸か不幸か、彼には物怖じしない性格と、常人ならためらうような扉の錠前をいともたやすく無力化する腕力があった。 ひやりと冷たい空気が彼の肌を撫でる。古紙と、乾燥したインクの匂い。天井まで届く書架が、まるで森の木々のようにどこまでも連なっている。その一つ一つに、この国の数百年分の歴史と儀式の記録が、眠っているのだ。 エドウィンは、月明かりを頼りにその森へと分け入った。目指すは、四大聖女に関する記録。公にされている当たり障りのない教本などではない。過去の聖女の選定記録のような、より深部に隠された情報だ。 何時間そうしていただろうか。膨大な書物の山と格闘するうちに、彼の額には汗が滲んでいた。ほとんどの記述は当たり障りのない賞賛の言葉か、あるいは形式的な儀式の記録ばかり。焦りと苛立ちが、胸の内を焦がし始める。 その時だった。書架の最下段、ほとんど忘れ去られたかのような一角で、エドウィンは一冊の古びた革張りの書物を見つけた。表紙には題名すら記されていない。だがその背表紙には、四つの花の紋章が辛うじて見て取れる形で刻まれていた。 これだ、とエドウィンは直感した。震える指で、その書物を開く。 そこには、震えるような古語で、四大聖女の力の〝本質〟についてこう記されていた。
『王国の礎たる四大聖女の力、その根源は、生命そのものに宿る。〈水〉は流れを、〈月〉は時を、〈大地〉は礎を司る。されど、その三柱の力が神威として顕現するためには、必ずや〈花〉の聖女が育む神花の生命力を触媒としなければならない。〈花〉の聖女とはすなわち、他の三柱を支える器にして、王国の生命循環を司る心臓そのものである。故に、心せよ。〈花〉の聖女の心が曇る時、それは国そのものが病に冒される兆しであると知れ。――』
エドウィンは、息を呑んだ。 やはり、そうだったのだ。彼の仮説は正しかった。ニコラは決して〝ハズレ〟などではない。彼女こそが、この国の全てを支える絶対的な要だった。 だとするならば、なぜ。なぜ、そんな重要な存在が、これほどまでに蔑ろにされているのか。彼女の心が曇ることが国の病の兆しであると知りながら、誰も彼女を救おうとしないのか。この書物に記された真実は、どう考えても意図的に隠蔽されている。 エドウィンの胸に新たな、そしてより深い怒りが込み上げる。この欺瞞に満ちた神殿で、主であるニコラはただ一人で戦わされているのだ。それをどうして許せよう。 エドウィンは書物を元の場所に戻すと、静かに書庫を後にした。彼の頭の中には、次なる疑問が渦巻いていた。
――あの人の心を曇らせた最初のきっかけって、一体何なんだ?
書庫での発見から数日、エドウィンは任務の合間を縫って、神殿内の情報収集に当たっていた。しかし、ニコラが心を閉ざした直接の原因について、誰もが口を閉ざして核心にたどり着くことができない。 苛立ちの募るある日の昼下がり、彼は神殿の裏手にある洗濯場を通りかかった。そこでは数人の若い侍女たちが、シーツを洗いながら楽しげにおしゃべりをしている。普段なら気にも留めずに通り過ぎる光景だが、その日、彼の耳は聞き慣れた名前を捉えた。
「ねえ、聞いた? ニコラ様、また神官長様に呼ばれていたそうよ」 「ああ、庭園のことででしょう? 神官長様もニコラ様には厳しいわよねぇ。先代のフローラ様が完璧だったから、余計にニコラ様の〝ハズレ〟っぷりに腹が立つんでしょうけど」
エドウィンは音もなく物陰に身を隠し、息を潜めた。
「ニコラ様っていつもおどおどされてるものね。苛立つのも無理ないわ。でも昔、侍女だったときはあんな風でもなかったでしょ? 一体いつからあんな風になっちゃったのかしら」
一人の少女が素朴な疑問を口にする。するともう一人の少し年長らしい少女が、声を潜めながらも得意げに答えた。
「あなた、知らないの? ニコラ様が聖女に選ばれたばかりの頃の話よ」
その声には、下世話な好奇の色が満ちていた。
「四大聖女に叙任される時、それぞれ、代々受け継がれてきた伝統の『儀式服』に袖を通すでしょう?」 「ええ、そうね」 「ニコラ様ももちろん〈花の聖女〉の儀式服に袖を通そうとされたの。でも……」
少女は勿体ぶるように、一度言葉を切った。
「入らなかったんですって。あの方、昔からふくよかでいらっしゃったから。何百年も歴代の聖女様方が問題なくお召しになってきた、あの神聖な服が」
エドウィンの全身から、血の気が引いていくのがわかった。
「まあ、大変……!」 「ええ。それで、その場に立ち会っていた、侍女長様が、こう、仰ったんですって。それも大きなため息をつきながらよ」
少女はわざとらしく、年老いた女性のような声色を作ってその時の言葉を再現してみせた。
「『あらあら。歴代の聖女は皆、柳のようにしなやかで、華奢な方ばかりでしたのに。これはこれは、困りましたねえ』……って。ご本人の目の前でよ」 「それからよねぇ、ニコラ様がいつでもおどおどして、笑わなくなったの」 「昔はよく笑う子だったらしいのにねぇ」
エドウィンの頭の中で、何かがぷつりと切れた。
――何だ、それは。何だその、くだらない嫌味は。
国を支える聖女の心が折れた理由が。庭園が枯れ、国が傾き始めたきっかけが。あまりにも些細で、無神経で、そして年頃の娘にとっては何よりも残酷な言葉だったなんて。 少女たちの無邪気な笑い声が、やけに遠くに聞こえる。エドウィンの手は、指の関節が白くなるほど強く握り締められていた。その顔に浮かんでいたのは、もはや怒りではない。それは底なしの侮蔑。そして、そんなくだらない悪意から主を守り抜くと誓う騎士の、静かで、恐ろしいほどの決意の表情だった。
6
ニコラの心を折った、あまりにもくだらない、そして残酷な真実。 書庫で見つけた、〈花の聖女〉の重すぎる役割。 全てのピースが、エドウィンの頭の中で一つの忌まわしい形を結びつつあった。だが、まだどこか現実感がない。たった一人の少女の心がこの国全体を左右しているなんて、本当にあり得るのだろうか。 その答えを求めて、エドウィンは数日ぶりに城下町へと足を運んでいた。表向きの用は任務に必要な備品の買い出しだ。だが真の目的は、この国の〝今〟を自らの目で確かめることだった。 まず彼が向かったのは、町の広場にある大きな井戸だ。神殿の聖水に繋がると言われ、いつもは清らかな水が尽きることなく湧き出ているはずだった。 しかし、彼がそこで見たのは、釣瓶を引き上げた町の人々が、桶の中の水を覗き込んで一様に顔をしかめている姿だった。
「おい、今日の水は、また一段と濁っちゃいねえか」 「何だか臭くて、とてもじゃないが飲めたもんじゃないよ」
横から水桶を覗き込むと、その水は確かにうっすらと白く濁っていた。セレスティーナが言っていた川の淀みは、すでに人々の生活を脅かす現実の脅威となっているのだ。 次に彼は、市場へと向かった。 そこは普段ならば活気に満ち溢れているはずの場所だ。しかし、その日の市場は活気がなく、人々の声にも張りがなかった。 エドウィンは一軒の八百屋の前で足を止めた。並べられた野菜はどれも小ぶりで、どこか元気がなく、葉の色も悪い。 店主の老人が、馴染み客らしい女性と深いため息をつきながら話しているのが聞こえた。
「本当に、どうしちまったんだろうねぇ。日照り続きというわけでもねえのに、今年は何を作っても育ちが悪くて」 「うちの畑もですよ。〈大地の聖女〉様が豊穣の祈りを捧げてくださっているはずなのに……」 「聖女様のお力も追いつかねえほど、土の力が弱ってるのかもしれんなぁ」
〈大地の聖女〉。彼女の儀式にも、ニコラが咲かせる『太陽の向日葵』が必要なはずだ。その花が咲かない今、彼女の祈りも大地に届いていないのだろう。 最後にエドウィンは、町の掲示板の前で立ち尽くした。 そこには定期的に〈月の聖女〉による〝星の託宣〟が貼り出される。それは未来を予知し、人々に指針を与える希望の言葉のはずだった。 だがそこに記されていたのは、あまりにも曖昧で、不吉な言葉だけだった。
『影が満ちる時、歩みを違えれば、光は遠のく』
人々はその託宣を、不安げな表情で見上げている。
「また、よくわからないお告げだ……」 「月の聖女様も、近頃ははっきりとした未来が見えていらっしゃらないのかしら」
〈月の聖女〉の儀式に必要な『星屑の露草』もまた、ニコラの庭では、枯れたままだ。 水が濁り、大地が痩せ、未来が見えなくなる。 すべてが繋がった。 緩やかに、しかし確実に進行している王国の衰退。そのすべての元凶が、たった一人の心優しい少女の心の傷に繋がっている。 エドウィンは、城下町を行き交う不安げな人々の顔を見渡した。
――そうだ。俺が守るべきは、ニコラ一人だけじゃない。あの人の笑顔を取り戻すことは、国の人々の、この国そのものの未来を取り戻すことだ。
エドウィンのニコラへの愛は、今この瞬間、王国をも救うという使命へと姿を変えた。 エドウィンは固く拳を握りしめると、踵を返し、神殿へと続く道を迷いのない足取りで歩き始めた。
7
その日、神殿では季節の変わり目を祝う、ささやかな祭事が執り行われることになっていた。 四大聖女が揃って神前に立つような大掛かりなものではない。聖女たちはそれぞれの持ち場で、普段より少しだけ改まった祈りを捧げることになっている。それはニコラも例外ではない。 エドウィンがニコラの私室の前に迎えに行くと、いつもより少しだけ遅れて、静かに扉が開かれた。
「おはようございます、エドウィンさん……」
現れたニコラの顔は、いつも以上にどんよりとしている。そしてその腕には、豪奢な刺繍が施された純白の聖女服が、大切そうに、しかしどこか恐る恐るといった様子で抱えられていた。 エドウィンは、すぐにそれがニコラが袖を通すことのできなかった伝統の服だと察した。祭事に合わせて着るようにと誰かから言われたのだろう。あるいは、彼女自身が今日こそはと勇気を振り絞ろうとしたのかもしれない。 だがその結果は、彼女の今の表情が物語っていた。 ニコラは腕の中の服と、今自分が着ているゆったりとした仕立ての簡素な聖女服を、一度だけ見比べると、諦めたように小さく息を吐いた。そしておずおずと、エドウィンにそれを差し出した。
「エドウィンさん……これを持っていてもらえますか……?」
エドウィンは何も言わずに、その服を受け取った。ずしりとした重み。何世代にもわたる聖女たちの想いと、そして目の前の少女の屈辱と悲哀が、その布地には染み込んでいるようだった。 彼はあえて知らないふりをして尋ねた。その声は、自分でも驚くほど、硬く、低くなった。
「あんた、これを着ないのか。今日の祭事のためのものだろう」
その言葉に、ニコラはびくりと体を竦ませる。ニコラは俯いたまま、絞り出すような声で告白した。
「……着れないん、です」
その一言に、どれほどの痛みが込められているのか。彼女は、ぎゅっと、自分の服の裾を握りしめた。
「……入らなくて」
エドウィンは、聞いたことを後悔し、唇を噛んだ。彼の心の中では、名状しがたい、どす黒い怒りが渦巻いていた。 くだらない。あまりにもくだらない。 こんな布切れ一枚のせいで、なぜこの心優しい娘がこれほどまでに苦しまなければならないというのか。 だが、ここで怒りを露わにしても彼女をさらに追い詰めるだけだ。彼はその燃え盛るような感情を理性の奥底に無理やり押し込むと、できるだけぶっきらぼうな口調を装って、言った。
「そうか」
彼は、腕に抱えた聖女服を、無造作に眺める。
「入らねえだけなら、新しいのを仕立てりゃいいだろうに。いつまでも一枚しか用意しておかねえなんて、神殿もケチくせえな」 「え?」
ニコラは驚いたように顔を上げた。 新しい服を仕立てる。そんなこと、ニコラは考えたこともなかったのだろう。彼女を責めた誰もが、伝統の服が着られないことを問題にした。誰も、彼女に合う服を用意することを提案したりはしなかった。 エドウィンはそんな彼女の驚きには構わず、まるで独り言のように続けた。その視線はニコラから逸らされ、どこか遠くを見ている。
「……この服を着たあんたは、今以上に可愛いだろうからさ」
その言葉は、静かな廊下にことりと落ちた。 ニコラは目を見開いたまま、動けずにいた。ニコラの頬が、じわりと赤く染まっていく。見開かれた目が、信じられないと言うようにエドウィンを見つめている。 エドウィンは、そんな彼女の様子に気づかないふりをした。「行きましょう」と短く告げると、ニコラの服を小脇に抱え、庭園へと向かって歩き始めた。ニコラは慌ててその後を追う。 その時、ニコラはまだ気づいていなかった。自身の心がほんの少しだけ温かさを取り戻したことに呼応して、遠い庭園の一区画で、固く閉ざされていたいくつかの蕾がかすかにほころび始めていたことを。
8
その日の夕暮れ。エドウィンは庭園の片隅で、静かに佇むニコラの姿を見つめていた。 昼間、神殿の本堂で行われた小さな祈りの会。そこで彼女はまた、他の神官たちから無視されたり、聞こえよがしに陰口を叩かれたりしていた。エドウィンが睨みを利かせることでそれ以上のいじめに発展することはなかったが、彼女の心に新たな傷が刻まれたことは、その沈んだ背中を見れば明らかだった。 ニコラは健気にも、日課である庭園の手入れを続けていた。エドウィンの言葉に勇気づけられて、ほんの少しだけ蕾をつけ始めたあの花々。彼女はその一つ一つに、慈しむように指先で触れ、祈りを捧げる。 だがその横顔は悲しみに深く沈んでいた。時折、ぎゅっと唇を噛みしめては込み上げる涙を必死にこらえている。離れた場所にいるエドウィンにも、それは痛いほどに伝わってきた。 もう、我慢の限界だった。エドウィンは、静かに、しかし迷いのない足取りで、彼女のもとへと歩み寄った。
「ニコラ」
エドウィンは初めて、彼女を様付けではなく呼び捨てにした。あまりにも不敬な行為だが、ニコラが怒ることは決してない。ニコラはエドウィンの声が普段とは違う真剣な響きであることに驚き、ニコラはゆっくりと振り返った。その黒曜石の瞳は潤み、夕陽の光を反射してきらめいていた。
「な、何でしょう、エドウィンさん」 「いつまでそんな顔してんだ」 「そんな顔って……」 「あいつらのくだらねえ戯言を、いつまで気にしてるんだ」
ニコラを問い詰める声は荒々しい。ニコラは思わず俯いてしまった。
「で、でも……私が、至らないばっかりに……」 「至らないだと?」
エドウィンの声が一段大きくなる。エドウィンはニコラの丸い肩を掴むと、無理やり顔を上げさせた。間近で見るニコラの瞳から、堪えきれなかった一筋の涙が頬を伝った。
「いいか、よく聞け」
彼の声に含まれるのは、怒りだけではない。それは必死の、心からの訴えだった。
「あいつらが何と言おうと関係ねえ。神官だろうが、他の聖女だろうが、どこのどいつがあんたを扱き下ろそうが、そんなもんは全部、俺が叩き潰してやる」
その言葉は騎士として、あまりにも過激だった。だが彼の瞳は、冗談など一切言っていない。
「あんたがどれだけ優しくて、どれだけ真面目で、この枯れた庭園をたった一人で諦めずに守り続けてるか。俺はずっと、この目で見てきた」
そして彼は、これまでで最も強い声で宣言した。
「俺にとっては、あんたは最高の女だ!」
その言葉は、雷のようにニコラの心臓を貫いた。 エドウィンはニコラを、「きれいだ」と言った。ニコラに「可愛い」と言った。ニコラはそのたび頬を染め、庭園にわずかに光を取り戻した。しかし今、エドウィンがニコラに伝えたのは、そんなものとは比べ物にならない、絶対的な肯定の言葉だった。 容姿でもなく、聖女としての能力でもなく、〝ニコラ〟という、彼女の存在そのものを、彼は〝最高〟だと言ったのだ。 堰を切ったように、彼女の瞳から涙が溢れ出した。それはもう、悲しみの涙ではなかった。
「な、んで……」
か細い声で、彼女が問う。
「何で、そんなこと、言ってくれるんですか……」 「事実を言っただけだ」
エドウィンはそれだけ言うと、照れ隠しのようにニコラから手を離し、そっぽを向いてしまった。ニコラは、そのぶっきらぼうな背中を、涙に濡れた瞳で見つめていた。そして、ゆっくりと、目の前の、蕾をつけたままの花に、向き直る。
「エドウィンさん……。私今、今なら、花に祈りを届けられる気がする……」
ニコラはそう言うと、そっと花に手を触れ、目を閉じた。 その瞬間だった。 ぽんっと、何かが弾けるような、栓の抜けるような、小気味よい小さな音がした。固く閉じていた蕾の一つが、不完全ながらも花弁を開いた音だった。 蕾は一つ、また一つと、咲いた蕾に続くように、次々と花弁を開いていく。そのどれもが、形は歪で大きさもまばらだった。完璧な美しさにはほど遠い。だがそれは、間違いなく開花だった。 庭園に、何年ぶりかの甘く優しい香りが漂う。 ニコラは目の前の光景が信じられないのか、た、呆然と立ち尽くしていた。そっぽを向いたままだったエドウィンも、その香りに気づいて振り返る。 そして、見た。 夕陽を浴び、不器用ながらも懸命に咲き誇る花々。そしてその中心で、涙を流しながらも、生まれて初めて見るような満開の笑顔を浮かべる聖女の姿を。
「見て、エドウィンさん……私、花を咲かせられた!」
ニコラがエドウィンを振り返り、ほころんだ薔薇の花のような笑顔を向ける。エドウィンの口元に、満足そうな、そして、どうしようもなく優しい笑みが浮かんだ。
9
王国の衰退は、もはや誰の目にも明らかだった。 川は日に日にその透明度を失い、大地は活力をなくし、人々の顔からは未来への希望の光が消えつつあった。追い詰められた王宮と神殿は、最後の望みを賭けて〈水の聖女〉セレスティーナによる『大浄化の儀』を、予定よりも大幅に前倒しで執り行うことを決定した。
そして、運命の日がやってきた。
神殿の大聖堂は、張り詰めたような緊張感に支配されていた。王国の主だった貴族や、高位の神官たちが、固唾をのんで祭壇を見守っている。 その視線の先には、儀式の主役であるセレスティーナが、水の女神のように荘厳な出で立ちで控えている。その隣には、月の聖女と大地の聖女の姿もあった。彼女たちの表情もまた、硬い。 その中でニコラは、あまりにも場違いなほどみすぼらしく見えた。 結局、彼女はあの伝統の服に袖を通すことはできなかった。今その身を包んでいるのは、いつもの洗いざらした簡素な聖女服だけ。その姿は、この国の危機すべての責任が自分にあるのだとまるでわかっていないようだった。 エドウィンは祭壇へと続く通路の脇に、石像のように直立していた。彼の役目は、ニコラが『月光の蓮』を庭園からこの祭壇まで無事に運び届けるまでを護衛すること。そして儀式を、終わるまで見守ること。それだけだ。今の彼にとって、それは世界で最も困難で、もどかしい任務に思えた。 彼女の手の中、小さな硝子の水盤に浮かぶ一輪の蓮。 エドウィンと過ごす日々でニコラの心が少しずつ癒やされたことにより、奇跡的にたった一つだけ、辛うじてつけた蕾だ。これが、これこそが、この国の最後の希望だった。
――大丈夫だ。あいつはやれる。俺は見てきた。
エドウィンは自身にそう言い聞かせる。だが、彼の背筋を嫌な汗が伝っていた。心臓が、まるで警鐘のようにうるさく鳴り響く。見守ることしかできない。それがこれほどまでに苦しいことを、彼は知らなかった。
「これより、大浄化の儀を執り行う」
神官長の厳かな声が、大聖堂に響き渡った。
「〈花の聖女〉ニコラよ。祭壇へ、『月光の蓮』を」
その声に、ニコラの肩がびくりと跳ねた。 ニコラはゆっくり立ち上がると、硝子の水盤を、両手で祈るように胸の前に抱えた。そして一歩、また一歩と、祭壇へと向かって歩き始める。その足取りはひどく覚束なかった。 大勢の突き刺さるような視線。それは期待ではない。疑いと、蔑みと、そして最後の望みを託さざるを得ないことへの苛立ち。 ニコラの顔が青白くなっていく。ニコラの呼吸が上がっていく。ニコラがこの状況に負荷を感じているのは誰の目にも明らかだった。だが、誰も助けない。エドウィンですら助けられない。ニコラは今、一人でこの場を歩かねばならなかった。 ニコラは必死に歩いた。水盆を神官長に届ければいい。ただそれだけなのに、足は鉛のように重い。水盆には薄く張った水と蓮の蕾しかないというのに、それを持つ手は小刻みに震える。その震えが、水面の蓮を頼りなげに揺らす。
あと、十歩。あと、五歩。
祭壇はもう目の前だ。セレスティーナが、冷ややかな瞳でニコラを見ている。神官長が、厳粛な表情で手を差し伸べている。 あと数歩。その時だ。 ニコラの足が、ぐにゃりともつれた。極度の緊張のせいだろう。ニコラは小さく「あっ」と悲鳴を漏らした。ふくよかな体躯がよろめく。張り詰めた緊張の糸が、切れてしまった。 ガラスの水盆がニコラの手から滑り落ちる。滑り落ちた水盆が大理石の床に叩きつけられる。叩きつけられた水盆は、甲高い音を立てて砕け散った。
人々の、息を呑む音。
水盤からこぼれた聖水が、無慈悲に床へと広がっていく。 そしてその水たまりの中心で、最後の希望だったはずの『月光の蓮』の蕾が無残にも押し潰されていた。 大聖堂は、水を打ったように静まり返った。その静寂は死そのもののように冷たく、重かった。 ニコラは目の前の光景が信じられず、ただ、呆然と立ち尽くしていた。 砕け散った硝子の破片。広がっていく水。そして、潰れた、蕾。
――私の、せいで。
ニコラの唇が動く。
――私のせいで、最後の希望が。この国が。
彼女の瞳から、光が消えた。 通路の脇で、エドウィンは、その光景をただ見ていることしかできなかった。指が白くなるほど強く握りしめた拳が、怒りなのか、絶望なのか、どちらかわからずに震えている。 どれほどの時間が経ったのだろう。 一秒が一時間にも感じられるような沈黙。大聖堂に集った誰もが、床に散らばる硝子の破片と、無残に潰れた蕾の残骸から目を逸らすことができなかった。国の最後の希望が今、目の前で、あまりにも呆気なく失われたのだ。 息もできないほどの静寂を最初に破ったのは、雷鳴のような怒声だった。
「――ニコラァッ!」
祭壇に立っていた神官長が、顔を憤怒に真っ赤に染め、震える指を、呆然と立ち尽くすニコラへと突きつけていた。
「なんということをしてくれたのだ、このっ……国賊めが!」
その声はもはや、聖職者のそれではない。憎悪と、そして迫りくる破滅への恐怖に満ちた、獣の咆哮だった。
「貴様一人の不注意で、貴様のそのふしだらな心根のせいで、この国の希望が今、絶たれたのだぞ!」
神官長の怒声が大聖堂の壁に反響し、ニコラの小さな体を何度も何度も打ち据えた。 だが、彼女はもう、何の反応も示さなかった。その黒曜石の瞳からは、すでに光が消え失せ、ただ、床の染みを、虚ろに見つめているだけだった。
「ああ、やっぱり……」
ニコラはぽつり呟く。
「やっぱり私は、ハズレだったんだ……」
通路の脇で、エドウィンは奥歯を噛みしめていた。 今すぐあの神官長の前に躍り出て、その胸ぐらを掴み、壁に叩きつけてやりたい。あの汚れた口を、二度と開けないように黙らせてやりたい。 彼の全身の筋肉が、その衝動に、今にも張り裂けんばかりに、軋んでいた。腰の剣の柄を握る彼の右手は、血が滲むほどに、強く握りしめられている。 だが、動けない。 ここで彼が力に訴えれば、どうなるだろう。ニコラは『反逆者の騎士を侍らせた、国を滅ぼす聖女』として、その汚名を歴史に刻むことになる。それだけは、絶対にできない。 歯が、砕けんばかりの音を立てる。 無力だった。 出会いの日に魂を救われたというのに。 彼女の絶対の味方だと誓ったというのに。 彼女が世界中から石を投げつけられているこの瞬間に、自分はただ、見ていることしかできない。 その無力感が、彼の心を、内側から焼いていく。 神官長の断罪の声はまだ、終わらない。
「そもそも、貴様が聖女に選ばれたこと自体が間違いだったのだ! ろくに祈りも捧げられず、花の一輪も咲かせられない! その怠惰と無能で、国を危機に晒しおって!」
神官長は祭壇からゆっくりと降りてくると、ニコラの目の前に仁王立ちになった。そして、集った全ての貴族、すべての神官、すべての聖女に聞こえるように、高らかに、そして冷酷に宣告した。
「もはや、聖女にあらず!」
その言葉に、ニコラはようやく反応した。神官長はそんな彼女を虫けらでも見るかのような目で見下ろし、最後の、そして、最も無慈悲な言葉を吐き捨てた。
「〈花の聖女〉ニコラ! 今この瞬間をもって、お前を、聖女解任とする!」
解任。 その一言が、大聖堂に、死刑宣告のように重く響き渡った。集った人々は息をも忘れ、セレスティーナは冷ややかに目を伏せ、他の聖女たちも同情すら見せず、ただ顔を背けていた。 誰も彼女を庇わない。 誰も彼女を助けない。 ニコラは聖女という唯一のアイデンティティを奪われ、国の破滅の責任を一身に負わされ、今、この世界にたった一人で投げ出された。 ニコラの膝が、ゆっくりと崩れ落ちる。 その瞳から、最後の光が消えていく。 エドウィンの心の中で、怒りを通り越した、静かで、冷たい何かが、確かな形を成した。
解任、という言葉が、呪いのように大聖堂の空気に溶けていく。 神官長は満足げに、そして冷酷に、床に崩れ落ちたニコラを見下ろしている。貴族たちは、これで厄介払いができたと安堵のため息を漏らす。聖女たちは無関心を装い、目を伏せている。 誰もが、これで終わりだと思っていた。一人の〝ハズレ聖女〟の物語が今、ここで静かに幕を閉じたのだ、と。 諦めと侮蔑に満たされた淀んだ空気を、一つの硬質な音が切り裂いた。それは騎士の硬いブーツが、大理石の床を踏みしめる音だった。 すべての視線が音の主へと注がれる。そこに立っていたのはもちろん、これまで石像のように沈黙を守っていた、ニコラの護衛騎士、エドウィンだ。 彼はゆっくりと、しかし一歩も揺るがぬ足取りで、歩き始めた。 驚きに目を見開く神官たちの横を通り過ぎ、呆気に取られる貴族たちの前を横切り、冷ややかに見つめる聖女たちを睨み返すようにまっすぐに進む。 彼の瞳には、もはや、そこにいる誰の姿も映ってはいなかった。見つめるのはただ一人。床に崩れ落ち、心も魂も砕け散ってしまった主君の姿だけだ。
「き、貴様、何を……!」
神官長が咎めるような声を上げる。だが、エドウィンはそれに目もくれない。彼はニコラの目の前まで来ると、その場にゆっくりと片膝をついた。それは、騎士が主に忠誠を誓う時の、最も敬意を表す姿勢だった。彼は水に濡れた床に膝をつくことを、一切ためらわなかった。
「まだだ」
静かに、しかし、腹の底から絞り出すような、低い声が響いた。
「まだ、終わってない」
彼はそっと、ニコラの肩に手を置いた。ニコラの体は、氷のように冷え切っている。
「下を向くな、ニコラ!」
その声は、静寂を切り裂く雷鳴のような咆哮だった。大聖堂の壁がびりびりと震える。ニコラの体が、その声に打たれてびくりと跳ねた。ゆっくりと、光の消えた虚ろな瞳がエドウィンへと向けられる。
「俺の目を見ろ」
有無を言わさぬ力強い声に、ニコラはまるで操り人形のように、エドウィンの瞳を見つめた。魔獣による傷跡の下で、燃えるような激しい光が、ニコラだけを見つめている。
「思い出せ」
優しい声が、ニコラの心に語りかける。
「俺と会って、あんたは少しずつ花を咲かせられるようになったじゃねえか」
その言葉に、神官たちが「何を馬鹿な」と嘲笑する声が聞こえた。だが、エドウィンは構わない。
「あんたがあの庭で、小鳥に微笑みかけた時。俺があんたの笑顔を『きれいだ』と言った、あの日の翌朝。萎れていた花に色が戻ったのを、俺はこの目で見た」
彼の言葉に、ニコラの瞳がわずかに揺らぐ。
「あんたがあの忌々しい服をそれでも着ようとして悲しんでいた時。俺が『可愛い』と言った後、庭の一区画に蕾がついたのを、俺は知ってる」
そうだ、と彼は心の中で叫ぶ。これは、希望的観測などではない。自分だけが知っている、厳然たる事実だ。
「小さくたって、一輪だって、不格好だって、なんだっていい。あんたは間違いなく、あんた自身の力で花を咲かせたんだ!」
彼の言葉の全てが、ニコラの閉ざされた心の扉を激しく、何度も叩いていた。彼女の最後の絶望を打ち砕くように、エドウィンは彼女の肩を掴む手にさらに力を込めた。そして、これまでの人生の全ての信頼と、愛情と、そして祈りを込めて、彼女の名を、叫んだ。
「お前ならできる、ニコラ!」
できる。エドウィンは信じていた。ニコラはただ、弱くおどおどするだけの聖女ではない。
「あの時みたいに、俺があんたを『最高の女だ』と言った、あの日のように!」
エドウィンは信じていた。ニコラが自分を信じるよりも先に、エドウィンが、ニコラの可能性を信じている。
「今ここで、咲かせるんだ!」
その魂の叫びは、大聖堂の天井にいつまでも、いつまでも響き渡っていた。 エドウィンは荒い息をつきながら、ただまっすぐにニコラの瞳を見つめ続ける。ニコラの虚ろだった瞳の奥底に、今、小さな光が灯った。 エドウィンの叫びは、もはやただの声ではなかった。それはニコラの、灰色になった世界をこじ開ける唯一の鍵だった。 彼の声が、ニコラの閉ざされた心の扉を激しく叩く。ニコラはじっと、エドウィンを見上げた。
「私……私、できる? 今ここで……花を、咲かせられる?」 「ああ。あんたならできる。俺はそれを知ってる」
エドウィンだけが、ニコラをまっすぐに見ていた。ニコラ自身でさえ信じられなかったほんの小さな可能性を、彼はずっと見守り、信じ続けてくれていた。 その確信が、ニコラの心に一条の光を灯した。絶望の底で、初めて、自らの意志で、光を掴む。
「私……エドウィンさんの期待に応えたい」
ニコラは声に出した。エドウィンの無謀なほどの信頼に、自身の全てを懸けて、応えたくなった。 その瞬間だった。
ニコラの体から、ふわりと金色の光の粒子が溢れ出した。
それは彼女の足元に転がってる、無残に潰れた『月光の蓮』の蕾へと吸い込まれるように集まっていく。 次の瞬間、大聖堂に集まった誰もが、信じられない光景を目の当たりにした。 潰れていたはずの蕾が、まるでぜんまい仕掛けの人形のようにゆっくりと、その形を取り戻していったのだ。折れていた茎はまっすぐに伸び、傷ついていた花弁はその傷を癒やした。 そして、ぽんっ、と優しい音が響き渡る。 青白い花弁が、荘厳な光を放ちながら、完全に開花した音だった。 大理石の床の上で、一輪の蓮が、奇跡のように、咲き誇っている。
「な……!」
神官長が、腰を抜かさんばかりに後ずさる。 だが、奇跡はまだ始まったばかりだ。
ニコラから溢れ出した金色の光は、一つの大きな波紋となり大聖堂の扉を抜け、神殿全域へと凄まじい速さで広がっていく。 その光が、あの枯れ果てていた〈花の聖女〉の庭園に到達した。 強い風が吹く。そんな勘違いをする勢いで、萎れていた全ての植物が、瞬く間にその茎や葉に鮮やかな緑色を取り戻していく。 そして、庭園中のありとあらゆる枝から、ありとあらゆる茎から、無数の蕾が一斉に芽吹き始めた。 それはもはや、開花という生やさしい現象ではなかった。
池という池で、『月光の蓮』が月の光を宿して咲き誇る。 畑という畑で、『太陽の向日葵』が太陽に向かって黄金色の花弁を開く。 庭中の土という土から、『星屑の露草』が夜空の星々のようにきらきらと輝きながら溢れ出す。
庭園はほんの数十秒のうちに、何百年という神殿の歴史の中でも見たことのないほどの色と、光と、そしてむせ返るような甘い生命の香りに満たされた。
その奇跡は、庭園だけにはとどまらない。
光の波紋は城下町へと流れ、濁っていた井戸の水を水晶のように浄化し、元気をなくしていた畑の作物を力強く奮い立たせる。 この国全体が、その心臓である〈命の聖女〉の鼓動を再び感じ取っていた。
大聖堂の中では、誰一人言葉を発する者はいなかった。 セレスティーナは、目の前で咲き誇る蓮と、窓の外に広がる信じがたい光景を、ただ呆然と見つめている。
そして、エドウィンはというと。 彼は、目の前で起きた奇跡よりも、その奇跡の中心にいる娘だけを見つめていた。 ニコラはゆっくりと自分の手のひらを見つめ、そして、目の前で跪く騎士へと視線を移した。 エドウィンは、彼女を見つめる自分の眼差しが、これまでの人生で最も穏やかで誠実なものになっていることを感じていた。それはただの感謝でも、ただの忠誠でもない。魂の奥底から湧き上がる、静かで、しかし燃えるような愛情の光だった。その眼差しは言葉よりも雄弁に、彼女への想いの全てを物語っていた。 花々の香りに包まれた大聖堂で、エドウィンはただひたすらに、自分の世界の全てとなった聖女を見つめ続けていたのだった。
10
大聖堂は、圧倒的な生命の奔流に沈黙していた。 先ほどまでの、人を断罪する冷たくて重い静寂はもうない。今ここにあるのは、人知を超えた奇跡を目の当たりにした者たちが等しく言葉を失った、畏怖と驚嘆に満ちた静寂だった。
床に散らばる硝子の破片。その中心で、凛として咲き誇る、一輪の『月光の蓮』。 窓の外に広がる、まるで創世記の絵画のように色とりどりの花々で埋め尽くされた庭園。 そして、その庭園から大聖堂にまで流れ込んでくる、むせ返るほどに甘く優しい花の香り。
神官長は祭壇の前で、へなへなと腰を抜かした。その顔からは血の気が引き、わなわなと唇を震わせていた。 〈水の聖女〉セレスティーナは、その気高い美貌を驚愕に見開いたまま、咲き誇る蓮と、その奇跡の中心にいるニコラを、信じられないものを見るかのように交互に見つめている。 誰もが、奇跡そのものに心を奪われていた。 だが、その奇跡の中心にいるエドウィンとニコラの二人には、もはや周囲の視線も驚愕も何も届いてはいなかった。彼らの世界には、お互いの姿しか映っていない。
エドウィンはまだ、ニコラの前に跪いたままだ。彼はまっすぐに目の前の主君を見つめている。その瞳にあった荒々しいまでの激情が、今は穏やかに、どこまでも深い湖のような愛情に変わっていた。 ニコラはそんな彼の視線を、まっすぐに受け止めていた。
もう俯くことはない。 もう自分を卑下することもない。
彼女の心の中は、エドウィンがくれたたくさんの言葉と、たくさんの信頼で、温かく満たされていた。 自分の力が彼の言葉に応えて、世界を祝福で満たした。その事実が、彼女にこれまでの人生で感じたことのないほどの自信と、一つの大きな勇気を与えてくれていた。 静寂の中、ニコラがもじもじとその丸い指先を組み合わせた。ふっくらとした頬が、満開の薔薇のように真っ赤に染まっていく。黒曜石の瞳が伏せられる。 しばらくして、ニコラは意を決したように目を上げた。そして震えながらも、しかし、はっきりと聞き取れる鈴のような声で言った。
「あの……その……」
一度ぎゅっと目を閉じて、それからもう一度その黒曜石の瞳を開くと、ニコラはエドウィンの心を、まっすぐに射抜いた。
「わ、私……あなたのこと、好きになっちゃった……」
それは、彼女が生まれて初めて、自分のためだけに振り絞った勇気の言葉だった。 その言葉を聞いた瞬間、エドウィンの心臓は大きく跳ね上がり、その身には血が沸騰するような凄まじい歓喜が湧き上がった。
――好き……? 今俺を、好きだって言ったのか……?
彼の頭の中では、もっと素直で、もっと野蛮な己自身が、歓喜の雄叫びを上げていた。
――俺だってあんたが好きだ、いや愛してる! 出会ったあの瞬間からずっとだ! 今すぐその体を腕の中に抱きしめたいくらいに!
だが彼は動かなかった。今目の前にいるのは、か弱い庇護対象などではない。絶望の底から自らの力で立ち上がり、世界を救うほどの奇跡を起こし、そして、自らの言葉で愛を告げた、気高く、最高に愛おしい女性だ。そんな彼女に自分の衝動をぶつけるなど、どうしてできようか。 彼は燃え盛るような激情のすべてを、理性の奥底にぐっと押し込めた。そして、これ以上ないほどの愛情と感謝、それから優しさを込めて、傷だらけの顔に不器用な、しかし、最高の笑みを浮かべた。
「……俺は、愛してる」
その言葉は、どんな雄弁な愛の言葉よりもまっすぐにニコラの心へと届いた。 彼女の瞳からこぼれたのは、嬉し涙だ。大粒の雫となって幾粒もこぼれ落ちる。 はぐれ者の騎士とはぐれ者の聖女がお互いの心を救い、世界を救い、そして最後に、たった二人だけの恋を始めた、奇跡の瞬間だった。
エピローグ
奇跡の儀式から数日後。エドウィンは庭園へ向かう途中、神殿の廊下ですれ違った侍女たちが楽しげに噂話をしているのを耳にした。
「ねえ、聞いた? 神官長様、解任されたそうよ」 「らしいわね。ニコラ様への度を越した仕打ちが問題になったとか……」 「あの仕打ちの理由、お亡くなりになった先代フローラ様への執着だったらしいのよ」 「何それ、どういうこと?」 「神官長様はかつて、フローラ様に懸想しておられたんですって。だから、その面影のないニコラ様が許せなかったみたい。自分の理想と違うから、八つ当たりしていただけ……ですって」 「怖いわねぇ、おじさんの執着って」
以前のエドウィンならば、神官長の勝手な振る舞いにまたも拳を震わせていただろう。だがもう、その必要はない。件の男はその座を引きずり下ろされた。もうニコラを悩ますことはない。今エドウィンにとって大事なのは、エドウィンの世界に必要なのは、ニコラが穏やかに笑っていられるかどうかだけだ。 庭園に行くと、今やそこには様々な花が生きることを喜ぶように咲き誇っていた。その中心では、ニコラが穏やかな表情で花の手入れをしている。 エドウィンは声をかけようとして立ち止まった。ニコラに近づく者がいる。それは供も連れずにやってきた、〈水の聖女〉セレスティーナだった。手には何やら、小さな包みを持っている。
「……ご機嫌よう、ニコラ様」
ニコラは振り返り、セレスティーナに気づくと花のような笑みを浮かべた。
「セレスティーナ様。お越しくださりありがとうございます。今日はどうされましたか?」
セレスティーナはつんとそっぽを向きながら、手に持った包みを不器用な子供のように差し出した。
「先日の儀式の件で、お礼に参りましたの。あなたが咲かせた蓮のお陰で川の浄化ができましたわ」 「それは良かったです。水は命の源。きれいな水なくしては生きていけませんから」
ニコラは差し出された包みを受け取ると、ハッと息を呑んだ。中身は焼き菓子。けれどそれは、ニコラが侍女時代に好きだった店のものだった。
「このお菓子……私が侍女をしていた頃、大好きだった……」
そっぽを向いたままのセレスティーナの顔が、わずかに赤くなる。
「わたくしが選んだわけではありません。侍女たちが勝手に用意しただけですわ!」 「そうですか」
ニコラは優しく微笑むと、「ありがとうございます」とお辞儀をした。セレスティーナはそれを横目で見ると、きちんとニコラに向き直り、自分もお辞儀を返した。
「こちらこそ、ありがとうございました。次の儀式でも、また花を咲かせてくださいまし」
エドウィンはその光景を、ただ静かに見守っていた。二人の聖女の間に、今、新しく対等な関係が生まれた。それは何より喜ばしいことだった。 その日の午後のこと。城下町に備品の買い出しに行くと言ったエドウィンが、大きな箱を持って帰ってきた。自分の頼んだ備品にそんな大きなものはなかったはず、と不思議がるニコラに、エドウィンはぶっきらぼうに箱を差し出した。
「あんたのだ」
一体これは何なのか。エドウィンに開けるようせっつかれ、ニコラは箱の蓋を開けた。 そこには、ニコラが袖を通すことのできなかったものと同じ意匠の聖女服が入っていた。しかしそれはただの新たな聖女服ではない。彼女のふくよかで女性らしい体を最高に美しく見せるよう仕立て直されたものだ。柔らかで光沢のある生地は、きっと彼女の優しさを際立たせるだろう。
「今日はもう祈りを終えただろうが……着てみてもらえないか」
そう言われて、断る理由はニコラにはない。エドウィンに優しく背を押され、ニコラは神殿内の自室へ聖女服を携え戻った。
「えっと……どうでしょうか」
着替えを終えて部屋から出てきたニコラの美しさに、エドウィンは息を止めた。生地からこだわって良かった。心からそう思った。
「ああ……やっぱり、似合うな」 「えへ……。ありがとうございます、エドウィンさん」 「でも、思ってたのと少し違うな」 「えっ」 「可愛い……いや、そんなんじゃ足りねえ。きれいだ。いや、それでも足りねえ……」
がしがしと頭を掻きながら、エドウィンはそっぽを向いた。
「……最高だ」
エドウィンの耳が赤く染まる。ニコラは顔を、首まで赤くした。
「も、もぉー……エドウィンさんったら!」
ニコラはそのままエドウィンに請われ、庭園に出た。ニコラは庭園に出る前に侍女を呼び、お茶の準備をさせた。何せ今日は最高のお茶菓子があるのだ。お茶をしないわけにはいかない。 庭園に置かれた机に、セレスティーナから贈られた菓子と侍女の用意したお茶が並べられる。本来ならエドウィンはその机に着くことはないが、ニコラに悲しそうな顔をされ、慌てて椅子に座った。
「エドウィンさん、見て。あの花は今日咲かせたの。嬉しそうな顔に見えない?」
ニコラはもう、俯かない。顔を曇らせない。心の底から幸せそうに、楽しそうに笑う。そしてその笑顔がまた新たに花を開花させる。だがエドウィンには、どの花よりもニコラの笑顔が輝いて見えた。
――こんな幸せが、いつまでも続けばいい。
そんなことを思いながら、エドウィンはニコラに「どうぞ」と勧められるがまま、幸せの象徴のようなあたたかなカップに手を伸ばすのだった。