人を惑わしては食う性悪狐が捕まった。山を自由に駆る狐は、今や地に転がされ、不気味に艶めく黒い縄で縛られていた。体躯は仔犬ほどに小さく、目の前で人が食う様を見ていなければ、これが性悪狐だなんて誰も信じないだろう。 性悪狐を地面に転がし縛るのは、黒い蛇だった。うぞうぞ蠢く蛇は性悪狐の白に近い金の毛並みを気味の悪い粘液で汚し、その下の柔い皮膚を溶かした。痛みと不快感に、性悪狐は情けなく悲鳴を上げ続けた。 この性悪狐を追い詰めたのは、あやめという少女だった。艶めく黒い髪と、何もかも吸い込みそうな黒い瞳が特徴の、美しい少女だった。 彼女こそが地元の名家、そしてまじないを得意とする家系の一人娘のあやめだ。この性悪狐を捕らえたのは、まだ十二歳の時分だった。 あやめの祖母をはじめとした一族はこの性悪狐を殺すつもりだったが、あやめがそれを止めた。あやめはこの性悪狐を、自分で使役すると宣言した。子供のわがままに近い主張を通せるほどには、あやめの力は強かった。 蛇に縛られたままの性悪狐を家に連れ帰ると、あやめは広い庭の片隅にあるお堂に籠もった。ひんやりと冷たい板張りの床に、性悪狐の小柄な体が下ろされる。あやめが口の中で何やら呪文を呟くと、性悪狐に絡む蛇が消えた。 己を縛る蛇が消えても、性悪狐は動けなかった。初めて味わう痛みと屈辱に、性悪狐はショックで立ち上がることもできなかった。 あやめの静かな声が、お堂に響く。
「死にたくなければ、私に従え」
性悪狐は、自分の体液と蛇の粘液に濡れた顔を上げた。ひどい顔だった。あやめは眉一つ動かさず、冷たい目で性悪狐を見下ろしていた。
「人前で、私はお前を千代と呼ぼう。けれどお前に用を言いつけるときは、菊千代と呼ぶ」 「お前は千代」と、十二歳と思えない威厳に満ちた声が性悪狐を呼ぶ。伸ばされた手が性悪狐の爛れた肌に触れる。痛みに震えた性悪狐だが、その震えはすぐに消えた。痛みが霞のように消えていく。これもまた、あやめの呪文だった。 性悪狐の金の目と、あやめの黒い目が互いを映し合う。
「千代に八千代に、私の命令を聞くしもべとなれ。お前の真の名は菊千代。母の名〝菊〟を冠するお前を、私は私利私欲のために使わないと誓おう」
冷たい目だ。射殺すような目だ。そんな目をしておきながら、あやめは性悪狐を生かす選択をした。 性悪狐はあやめに興味を覚えた。初めて、己以外の生き物に興味を覚えた。復讐心なんて欠片も芽生えなかった。あどけない外見に違わず、性悪狐の中身もまた幼い。 力の入らぬ足に満身の力を込めて、性悪狐は立ち上がった。よろめきながら床を踏み締め、自分を見下ろすあやめに頭を垂れる。 《《菊千代》》は、あやめのそばにいるため、あやめに仕えることを誓った。
それから二年の月日が過ぎた。菊千代はすっかり人間との生活に慣れた。あやめとその母・菊子が炬燵に入っていようと、自分も炬燵に潜り込んで大の字になるほどだ。 そう、それは冬のある日、クリスマスイブのことだった。 食事を終えたあやめと菊子は、炬燵を囲んで適当なニュース番組を見ていた。菊千代はあやめと菊子の間でころんと転がる。 人を惑わし誑かしさえしなければ、菊千代は愛くるしい仔犬にしか見えない。転がる獣が人食いであったことを忘れがちな菊子は、腹を見せ転がる菊千代の顎を撫でてやる。菊千代も菊千代で、己が人食いであったことなんか忘れたように振る舞う。 菊子が撫でる手を受け入れ「極楽じゃあ」と蕩ける様は、仔犬というより猫に近い。そんな菊千代を、あやめは射殺す目で睨んでいた。 あやめが呪文を唱えるか否かの刹那、テレビから鈴の音が響いた。その場にいる二人と一匹の意識がテレビに向かう。
「それでは皆さん、よいクリスマスを」
アナウンサーの〆の言葉に「おおそうじゃ」と反応したのは菊千代だ。起き上がり、ぶるんと頭を一振りしてからあやめを見上げる。
「最近『くりすます』の話をよく聞くが、結局くりすますって何なんじゃ?」
あやめは「お前が知ってどうするの」と不機嫌な声を返す。代わりに「そうねぇ」とおっとり答えるのは菊子だ。
「千代ちゃんにもわかるように言うと、一種のお祭りね」 「ほほう、祭りか」 「いい子のところにはサンタさんが来て、プレゼントをくれるのよ」 「ぷれぜんとって何じゃ?」
矢継ぎ早に繰り出される問いに、菊子は「うーん」と悩んだ。あやめがぼそりと「真剣に答えてやらなくていいのに」と呟いたが、菊子はあえて聞かなかったふりをした。
「プレゼントというのはね、相手に贈るもののことを言うの。クリスマスプレゼントだと、いい子がほしがってるものってことが多いわね」 「ほう! ということは、いい子にしとればさんたがほしいものをくれるんじゃな」 「そうそう。千代ちゃんは賢いわねぇ」
褒められ、小さな頭蓋を撫でられ、菊千代は得意気に胸を反らした。あやめはそれを横目に見て、舌打ちを漏らした。菊千代は聞かなかったふりをして、菊子にまた話を振った。
「それならわしのところにも、さんたは来るんじゃな?」 「あらあら。千代ちゃんたら、自信満々ねぇ」 「当然じゃ。わし、いい子じゃったからな!」 「そうねぇ、どうかしらねぇ。あやめはどう思う?」
菊子から話を振られても、あやめの機嫌は直らない。ぷいと顔を逸らしたあやめは、「知らない」と低い声で答えた。
「去年よりは言うことを聞くようになったんじゃないの」 「あらあら、拗ねちゃってる」 「あやめはなぁ、菊子がわしを可愛がるから妬いとるんじゃ。あやめは菊子がだいすきじゃからな」 「お前がお母さんを呼び捨てにするな!」
勢いよく振り向いたあやめが、鬼の剣幕で菊千代を怒鳴る。菊千代は「怖い怖い」とおどけて、菊子は「まあまあ」とあやめを落ち着かせた。
「それよりほら、千代ちゃんはほしいものがあるの?」 「あるぞ! ほしゅうてほしゅうてたまらんものがな!」 「教えてもらえる?」 「人肉じゃ!」
胸を張った菊千代の鼻から、ふすん、と鼻息が漏れた。菊子がぽかんとする目の前で、あやめが素早く手を伸ばし、菊千代の小さな体を掴んだ。 ぶらん、と宙に浮くのは白に近い金の幼い体躯。猫のようにぶら下げられた菊千代は「何をする!」と抗議しかけて、あやめの目を見て口を閉じた。
「お前は性懲りもなく、まだ人を食べようと……」 「何でじゃ! 何がだめなんじゃ!」
あやめの眼光に一度は怯んだものの、恐怖に勝る食欲が菊千代を突き動かした。掴まれぶら下げられたまま、菊千代はじたばたと暴れる。
「あやめの言うこと聞いていい子にしとったんじゃ、わしもぷれぜんとがほしい! 久々に肉がほしい!」 「何があっても、それだけは絶対、だめ!」 「いやじゃ!」
噛んで含める言い方にも、菊千代は屈しない。体のバネを生かして藻掻き、あやめの手から逃れようと足掻く。
「いやじゃいやじゃ、いやじゃあ! カリカリは飽きたんじゃ、肉汁が味わいたいんじゃあ!」
子供のように暴れる菊千代を落ち着かせようと、菊子があれはどうだこれはどうだと代案を出す。しかしそれは菊千代が満足できるものではないし、あやめも了承できるものではなかった。 藻掻き足掻いた甲斐が実り、菊千代はあやめの手からするりと抜け出た。手から逃れる勢いそのままに、菊千代は「いやじゃ」「ほしいんじゃあ」と居間を走り回った。 炬燵布団が、座布団が、屑籠が、謎の壺が、掛け軸が、走る菊千代によってなぎ倒され吹き飛ばされる。家の中に台風が入り込んでもこうはなるまいという有様に、あやめの怒りが頂点に達した。
「この性悪狐目……。言うこと聞かないなら、ハウスッ!」
犬を躾けるような一声だ。しかしそれはまじないで、菊千代が逆らうことのできない言葉だ。 びしりと固まった菊千代は、暴れる勢いを殺しきれずべしゃりと畳に倒れた。倒れてもすぐさまぎくしゃく起き上がり、ゆっくりと居間の外を目指す。菊千代の寝床は廊下を渡った突き当たり、離れと母屋を繋ぐ一角だ。 とぼとぼ歩く菊千代の後ろ姿を、菊子が気の毒そうに見送る。菊千代のしゅんとしょげた横顔を見てしまったあやめは、ばつの悪そうな顔をしていた。しかし、菊千代に出した命令を取り消すことはしなかった。 菊千代は居間を出て、廊下の向こうにある寝床へ消えた。菊千代の主はあやめだ。自分がどうこう言える問題ではないと心得ている菊子は、「片付けようか」とあやめを促した。 居間を片付けている最中、廊下の暗がりからはくすんくすんと啜り泣きが聞こえていた。廊下をちらと見て、あやめは「嫌みったらしい」とぼやいた。しかしその顔は、言い過ぎたことを反省していた。 二人が居間を片付け終える頃には、菊千代の泣き声は聞こえなくなっていた。 あやめは足音を消し、そろりと廊下に出ると、菊千代の様子を見に行った。明かりをつけては菊千代を起こしてしまう。夜目の利くあやめは、静かに歩いて菊千代の寝床を覗いた。 菊千代の寝床は、大きな篭にみっちりと毛布を詰め込んだ簡素なものだ。詰め込まれた毛布の上で、白金の毛並みが丸くなっている。ふわふわの毛並みは規則正しく上下し、小さな鼻からはぴすぴすと寝息が聞こえる。泣き疲れて眠っているようだ。 泣いて暴れて疲れて眠る様を見て、あやめは「自由すぎる」と呆れた。いつの間にかあやめの後ろに立っていた菊子が、寝床で眠る菊千代を覗き込んでくすっと笑った。
「まだまだ子供だもの、仕方ないわよ」 「お母さんは千代に甘いよ。そんなだから千代は調子に乗るんだから……」
ぶつくさぼやくあやめに、菊子は「あら」といたずらっ子のような目を向ける。
「あやめだって、プレゼントを用意してあげるくらいには甘いじゃない」
あやめは「う」と言葉に詰まった。菊子の言う通り、あやめは菊千代にプレゼントを用意していた。「肉がいい」「カリカリはいやじゃ」「わしもしょくれぽがしたい」と駄々をこねる菊千代に、少なくないお小遣いから鴨肉を注文したのは数日前のことだ。 うふふと笑う菊子から顔を背け、あやめは言い訳を口にした。
「たまにはいいかなって思っただけだもん」 「そうね。あやめが優しい子に育って嬉しいわ」 「や、やめてよぉ、お母さん。もう中学生なんだから……」
菊子の手が、慈しみを込めてあやめを撫でる。白い頬を染め軽く抵抗を示すものの、あやめの表情は緩んでおり、母から褒められるのは満更でもないと告げていた。 あやめから菊千代に用意したプレゼントは、玄関に置かれたクリスマスツリーの下へ隠された。そうとは知らず、菊千代はすやすや眠りに落ちていた。
夜が更け、夜が明け、クリスマスの朝。 目を覚ました菊千代は、昨夜のことも忘れて寝床から起き出した。てちてち響く足音も隠さず、あやめの部屋の前へ行く。あやめはすでに起きているようで、部屋はもぬけの殻だった。 またてちてち足音を響かせ廊下を行くと、あやめを洗面所で見つけることができた。歯を磨いているあやめに「あやめぇ」と声をかける。あやめは「おはよう」と返し、菊千代に玄関へ行くよう命じた。
「昨日サンタが来たかもしれないから、ツリーの下を見てきて」 「来てもわしのほしいものはないじゃろ」 「いいから見てきて」
低い声で言われては逆らえない。菊千代は玄関を目指し、冷たい廊下を歩いた。 ツリーの下には、大きい箱と細長い箱が置いてあった。鼻先を寄せ、においを確認する。この家のにおい、知らない人間のにおい、あやめと菊子のにおいが混ざっている。危険なにおいは感じられなかった。 菊千代はてちてちとあやめの元へ戻った。
「あやめぇ、箱があったぞ」
こざっぱりしたあやめは「ああそう」とうなずき、洗面所から出た。
「じゃあ取りに行こうか」
菊千代の先導で、あやめは玄関へ赴いた。膝をついて箱を持ち上げたあやめは、「あら」と手を止めた。
「これ、二つとも千代宛てね」 「わし?」 「開けてあげるから、居間に行きましょ」
居間へ行くと、菊子がにこにこ笑って二人を待っていた。菊子が満面の笑みを浮かべている理由も、あやめが気まずそうな、照れくさそうな顔をしている理由も、菊千代にはわからない。菊千代のきょとんとした目から逃げながら、あやめは大きな箱からラッピングを解いた。 箱から出てきた立派な鴨肉を見て、菊千代は金色の目を輝かせた。
「おお、肉じゃ!」
声を弾ませる菊千代の様子に、菊子が緩んだ頬をさらに緩ませる。
「サンタさんが千代ちゃんにくれたのねぇ」 「そうかそうか、さんたはわかっとるのぉ!」 「次はこっち」
そう言って、あやめは細長い箱のラッピングを解いた。出てきたのは首輪だ。白金の毛並みに映える鮮やかな赤だった。菊子が「あらぁ」と目を細める。
「よかったわねぇ、千代ちゃん。お洒落になるわ」
頭を撫でられながら、菊千代は怪訝そうに首輪を見た。人食いとして生きてきた菊千代が、首輪が何たるかをわかるはずもない。
「何じゃそれは」
首を傾げる様は愛らしい。人食いとわかっているあやめすら、その仕草には頬が緩みそうになる。菊子なんて、すでに目が糸より細くなってしまった。菊千代にだけはみっともない顔をさらすものかと己を律し、あやめは努めて普段の声で、首輪の用途を説明した。
「お前の首につけるのよ」 「これを? わしの首に?」 「そう。人前に出るとき、お前が野良だと思われると面倒だからね」 「そんなもんいらん!」
言うが早いか、菊千代は鴨肉をくわえ居間を飛び出した。思いもしなかった拒否の言葉にぽかんとしていたあやめだが、ハッと我に返ると「待て!」と一声叫んで菊千代を追った。 どたばたと走り回る一人と一匹の足音が、広い家に響く。静かなのは、居間に残された菊子だけだ。困った顔で頬に手をやると、菊子は「あらあら」と微笑んだ。
「あやめも千代ちゃんも、お父さんがまだ寝てるんだから暴れちゃだめよぉ」
菊子のおっとりした声は、二人の元気な声と足音にかき消された。