角ある王のお気に入り

 世界はどうやら滅んだらしい。頭に大きな角を生やし、そこへ蔦を這わせた巨大な〝王〟が、私の背中を優しく撫でながら言う。

「外は人間には過酷な世界になってしまった。けれどお前だけは、私の膝の上で生かしてあげよう。お前だけは私が愛でてあげよう」

 〝王〟の低く柔らかな声は脳を心地よく痺れさせ、私の目をとろりととろけさせた。  私は今までの日々を思い出す。今までの人間関係を思い出す。思い出したくもない事柄を思い出す。それらと切り離されて生きていいのなら、この膝の上で丸くなって過ごすだけでいいのなら、これ以上望むものなんてないのではないか。  そう思った私は、返事をするのも気怠く、喉をくすぐる大きな指に頭を預け目を閉じた。

***

 〝王〟の膝の上でまどろんでいたら、来客が来た。〝王〟とよく似た、角に花を咲かせた巨大な人外の女性だった。

「人間を飼い始めたと聞いたが……これはまぁ、何とも小さく脆弱な生き物か」

 まるで鷹のような目だった。値踏みするような視線が恐ろしい。けれど見つめ返さずにいられない美しさが、この女性にはあった。  小麦の穂のような美しい黄金の髪。夏の空のような深い青の瞳。  震えながら見上げていたら、不意に影が落ち、視界が塞がれた。〝王〟の巨大な手が、私の顔を覆ったせいだ。〝王〟の低い声が、不機嫌を隠しもせず言う。

「帰れ。私の愛し子が怯えている」

 手の向こうで、女性が笑う気配がする。

「愛し子。愛し子! 兄上ともあろう方が、籠絡されたものだ」

 女性の気配が消えた。視界を塞ぐ手も消えた。見れば女性の姿は忽然と消えていて、王の間はいつもの通り私と〝王〟の二人きりになっていた。

「可哀想に、こんなに震えて……。いや、寒いのか? お前のような生き物は脆弱だからな。もっとあたたかい服を仕立ててやろう」

 寒くて震えているわけではない。けれど返事をするのも億劫で、私は〝王〟にぴたりと寄り添い顔をうずめた。  〝王〟はいつもの柔らかく低い声で笑い、私の髪を不器用に指先で撫でた。

***

 玉座に座る〝王〟の膝の上でまどろんでいたら、召使いらしき人外が恭しく何かを持ってきた。〝王〟が私にと誂えた服だ。それは〝王〟の手に渡り、そして私に差し出された。  受け取ってみるが、その服――服と呼べるのだろうか――の構造は複雑で、ひっくり返してみたり広げてみたりしても、どう着たものかとんと判断がつかない。  首を傾げ服を広げる私から服を取り上げ、〝王〟は不器用な手つきで、何かの毛皮でできた服を私に着せた。  着てみた感想は――重い。袖が余って邪魔だ。ただでさえ緩慢な動作が、さらに鈍くなる。  〝王〟は私を抱き上げ、服がきちんと着られたことを確認すると、満足げに何度かうなずいた。

「いい子だ。褒美をやろう」

 王がひらりと手を振ると、何もなかったはずの肘掛けに黄金の|杯《さかずき》が現れた。  甘い香りがする。葡萄の匂いだ。よく熟れた葡萄の、うっとりするほど甘い香りだ。中身は葡萄ジュースだろうか。それとも、蜂蜜のように甘い葡萄酒だろうか。  王は杯を手に取り、私の口元にそれを傾けた。私の身長ほどもあろう杯から、蜂蜜色の液体が流れ出る。私はそれを受け止め損ね、着せられたばかりの服を濡らしてしまった。

 ――怒られる!

 叱られる、ではなく、怒られる。そう思った。私の体は強張り、咄嗟に小さく背を丸めた。  しかし〝王〟は怒らなかった。喉を鳴らして笑い、しとどに濡れた私の顎を指でそっと拭った。

「不器用だな。そこも愛おしい」

 濡れた指を、王の赤い舌がぺろりと舐める。

 ――ああ、よかった。怒られなかった。

 安心する私の口元に、王は杯に浸した指を差し出した。どうやら、杯から直接飲ませるのは諦めたらしい。  私は王の指に手を添え、滴る蜂蜜色の液体を舐め取った。  甘い。  頭がくらくらするほど甘い。  酒ともジュースともつかぬ液体をちゅっと音を立てて吸う私を見下ろし、王はくつくつと笑っていた。

***

「少し出る」

 そう言って、〝王〟が王の間を出て行った。〝王〟は時々ああやって玉座を立ち、どこかへ行く。  〝王〟が席を立つのは少し怖い。とりわけ、誰も連れずに王の間を出る時は。  そんなときは決まって、召し使いの誰かが私をいじめるのだ。

「王様のお気に入りだからって、こんないい服着せてもらっちゃって」 「陛下が与えてくださるからって、こんないいものを飲みやがって」

 私の髪を引っ張ったり、大きな手で私の体をつねったり、王からもらった服を剥ぎ取ろうとしたり、なぜそんなにも私に敵意を持つのかと不思議になるほど意地悪をする。〝王〟のいる前では、決して私に触れないのに。  〝王〟のいない間、彼ら彼女らは私を鬱憤の捌け口にでもしているかのようにいじめる。  そう、〝王〟の前では決して私をいじめない。〝王〟の戻る時間を把握していたのだろう。それを、〝王〟は知っていたのかもしれない。  いじめられ、それでも抵抗できず、丸くなってしくしく泣くしかできない私は、彼らの向こうで重々しい扉が開くのを見た。  立派な角に蔦を這わせた、〝王〟の姿があった。  私をいじめていた召使いが振り向いた。  その瞬間、〝王〟は軽く上げた手を素早く振り下ろした。  それと同時に、まるで大きな手に押し潰されたかのごとく召使いの体がひしゃげる。  私の目の前――玉座の前に、血だまりができた。人外の彼らの血も赤なのだなと、どこか遠くの出来事のように思った。  〝王〟がゆったりとした足取りでやってくる。玉座の上で小さくなっていた私を両手で包むように抱き上げると、〝王〟は私の体を検めた。

「後で手当てをしてやろう。もう泣くことはない、私の愛し子」

 私を優しく抱くこの手は、召使いが今されたように、いとも簡単に私を潰してしまうことができる。いや、大きな動作は必要ない。この手に軽く力を込めるだけで、私はあっさりと死んでしまうだろう。  震えながら〝王〟を見上げる。王は優しい目で私を見下ろし、「可愛い子だ」と笑って、大きな手で私の頭をそっと撫でた。

***

 〝王〟が召使いを殺した。私を執拗にいじめていた召使いを、私の目の前で殺した。それ以来、私は〝王〟の膝の上にいるだけでも恐ろしかった。けれど下手に抵抗して、〝王〟の不興を買うのも恐ろしい。だって〝王〟は、私を簡単に、それこそ赤子の手を捻るよりも気楽に私を縊り殺してしまえるのだ。  〝王〟は私の怯えを察したのか、私を抱き上げて膝の上に仰向けに寝かせると、その大きな手で私の体をまさぐり始めた。

「力を抜け。そう怯えるな。私はお前を傷つけない。私だけは、お前を愛でてやる」

 〝王〟の手が耳を、肩を、腕を、手を、太ももを、脚を、爪先を、優しく揉む。強張っていた体が優しく揉みほぐされ、私はぽかぽかと体温が上がるのを感じた。

「《《あれ》》のことは忘れてしまえ。お前を傷つける者は二度と現れない。現れることなど、ありはしない」

 〝王〟の声は低く、甘く、煮詰めた蜜のよう。〝王〟の指がツボを押さえるたび、ため息が漏れる。  これではまるっきり、愛玩動物だ。私は人間なのに。人間、なのに。  こねられ、撫でられ、揉みほぐされ、私は自分の体から骨が抜け出てしまったのではないかと不安になった。それほどに、〝王〟から施されるマッサージは快楽の極みだった。普段はあんなに不器用に私に触れるのに、なぜこれだけはこんなにも器用にツボを押さえるのか。  瞼が重くなる。  葡萄の匂いがする。  甘く芳醇な香りが私の脳を痺れさせる。

 ――もういいや、どうだって。

 召使いにいじめられたことも、目の前で召使いが殺されたことも、この手が召使いを殺したことも、どうでもいい。  極楽と呼べる快楽の中、泥のような眠りに誘われ、私は目を閉じた。  恐怖も、つらさも、すべてどうでもいい。  意識の途切れるその間際でも、私に触れる〝王〟の手は私のツボをあちこち押さえたままだった。

***

 目を覚ますと、〝王〟がいなかった。見渡せば、王の間はがらんとしている。  玉座からは〝王〟のぬくもりが消えている。どうやら、〝王〟が玉座を下りて随分時間が経ったらしい。  私は体を起こした。いつもじんわりと痺れている頭が、今はやけにはっきりしている。体も、不本意ながら施されたマッサージのお陰で、すっきりと軽い。  重い毛皮の服をかき抱いて、私はそろりと床に足を下ろした。  毛足は短いがしっとりとした絨毯が足を包む。絨毯の続く先には、王の間に出入りするための扉がある。あの重厚な扉が、私一人では決して開けられないであろう扉が、うっすらと開いている。  今なら出られる。  愛玩動物であることをやめて、人間として歩き、出て行くことができる。  私はもつれそうな足で歩いた。柔らかな絨毯を踏みしめ、扉に近づいた。  扉のそばに立ち、手をつく。扉の向こうに気配はない。今なら安全かと、私はそっと扉の外を窺い見た。  巨大な扉の向こうには、目眩を覚える巨大な世界が広がっていた。  ビルほどもありそうな柱。家ほどもありそうな窓。地平線のような廊下。その向こうからは、微かに話し声が聞こえてくる。

 ――こんな、巨大なものだらけの中を……歩いて出ていけるの? あの人以外に見つかったら、またいじめられるんじゃないの? 下手をすれば、殺されちゃうかもしれない。

 足が震えだした。  体が震えだした。  私は身を翻し、何度も転びながら玉座へ戻った。  玉座は冷たかった。あの人の温度がなくて、寂しかった。  冷たく硬い玉座の上で、私は毛皮の服に包まり丸くなった。そしてしくしくと泣いた。  泣き疲れてうとうとしていた頃、あの人が帰ってきた。  扉の軋む音。  絨毯を踏みしめる足音。  間違いなく、あの人が帰ってきた音だ。  あの人は私を抱き上げ、膝に載せ、そして撫でた。大きな手で、頭を、背中を撫でた。  泣き腫らした目で見上げると、慈しむような優しい目が私を見下ろしている。私は〝王〟に身を寄せ、小さくなりながら優しい体温を享受した。

 ――私はこの部屋を出なかった。出なかったんだ。

 〝王〟の指が私の喉をくすぐる。その感触に心地よさを覚えながら、私はまどろんだ。  私を愛でながら、〝王〟は密かに、けれどどこか満足げに微笑んでいた。