※ AIに手伝ってもらいました。
もうほとんど太陽が沈みかけたような、夕暮れ時のことだ。古い家のポーチを、心地よい風が吹き抜けていく。ペンキの剥がれた柱には蔦が絡みついている。この蔦は、もう何年放置されているだろう。 古い家も、家よりも自然のほうが多い田舎の風景も、ポーチに置かれた揺り椅子に座る二人も、時が止まったように変わることがない。 いや、正確には、一人だけが変わっていた。 変わったのは、揺り椅子に座り目を閉じる老婆エレノアだ。かつて黒かった紙は今やすっかり白くなり、ぴんと伸びていた背筋は曲がり、顔には深い皺が刻まれている。しかし、七十を過ぎた今でもその瞳だけは少女の頃のまま、気の強さが見て取れる光を宿している。 対するはもう一人、揺り椅子にだらしなく身を預ける少年レオだ。彼はエレノアと仲良く――ケンカをするほうが多かったが、概ね仲良く――遊んでいた十二歳の少年のままだ。金の髪は夕日に照らされ本物の黄金のように輝き、青空を閉じ込めた瞳には|永久《とわ》を生きる憂いが滲んでいる。時の流れに乗ることのない顔は磁器でできた人形のように美しく、どこか冷たさがあった。
「おい、婆さん」
レオがぶっきらぼうに口を開く。
「腹減った」
これはこの数十年、幾度となくエレノアに投げかけられた言葉だった。拗ねた子供のように、レオは揺り椅子の肘掛けに頬杖をつく。エレノアは皺だらけの顔をしかめた。
「またかい。今日何度目だよ、まったく」
やれやれ、とエレノアは呆れたように首を振る。
「少しは我慢を覚えたらどうだい。人間は一日三食で生きてるってのに、あんたときたら一日に何回飲みたがるのさ」 「俺は人間じゃねえよ」 「知ってるとも。だからこそ図々しいって言ってるんじゃないか」
そう毒づきながらも、エレノアは慣れた手つきで袖をまくり上げる。たるんだ腕を差し出すその仕草は、あまりに自然で呼吸をするのと変わらないようだった。 レオは舌打ちしながら立ち上がると、エレノアの揺り椅子の隣に移動し、膝をついた。差し出された腕を取り、瑞々しい唇を老婆の手首へ近づける。
「痛いことすんじゃないよ」 「どうしたって痛がるくせに」 「文句言われるのが嫌なら飲まなくていいんだよ」 「飲むに決まってんだろ」
レオの牙が、エレノアの皮膚に食い込んでいく。牙は皮膚を貫き、血管を破る。そこから滲んだ血を、レオは丁寧に吸い上げた。味わうように、飲み過ぎないように、そっと。 エレノアは眉をひそめることもなく、遠くの並みを眺めていた。家々を囲む山々が夕日に染まって、炎のように美しい。
「いつまでこんなこと続けるんだい」
血を吸われながら、エレノアがぽつりと呟いた。
「知らねえよ」
レオが顔を上げ、手首を離す。小さな傷跡はすでに止血していた。
「お前が死ぬまでじゃねえの」 「ひどい奴だねえ」
そう言うエレノアの声に怒りはない。呆れた声で首を振るが、その顔は笑っており、どこか安堵したような、穏やかな顔をしていた。 血を飲み終え、レオが自分の揺り椅子に戻る。エレノアは袖を下ろし、揺り椅子に深く腰掛け直した。 太陽が完全に沈む。ポーチに夜の静寂が下りてくる。虫たちが鳴き始め、遠くでは犬――もしくは狼か――が遠吠えをする。 エレノアがぽつりとレオを呼んだ。
「レオ」 「何だよ」 「まだ閉まってないはずだから、パン屋でシナモンロールを買ってきておくれよ。もうなくなりそうなんだ」 「は? お前が行けよ」 「あんたのほうが足が速いだろ」 「そりゃそうだけど」
レオは面倒くさそうに言いながらも、結局は「わかったよ」と小さく返事をした。レオの返答に、エレノアが嬉しそうに笑う。皺くちゃの顔に浮かんだ笑顔は、昔と少しも変わらず愛らしい。レオは気恥ずかしくなり、ぷいとそっぽを向いた。
「ったく、婆さんになっても甘いもんが好きなんだな」 「あんたと一緒に食べるのが楽しみなのさ」 「俺は食わねえよ」 「わかってるよ。でも、食べてる間ずっと隣にいてくれるだろ?」
レオは答えなかった。答える代わりに、揺り椅子からぴょんと立ち上がった。風が吹いて、蔦の葉がさわさわと音を立てる。山の向こうに星が瞬き始めた。
「小銭、寄越せよ」 「はいよ」 「ったく、昼間に行っとけよな……」
ぶつぶつ文句を言いながらも、レオは暗くなった夜道へ足を踏み出す。エレノアの大好物であるシナモンロールを、閉店前に手に入れるためだ。 これが、数十年続いた二人の日常だった。時に罵り合い、時に憎まれ口を叩き合いながらも、決して離れることのない、二人だけの時間。永遠に続くと思われたその日常に、終わりの時は静かに近づいていた。
***
翌朝のことだ。太陽が昇った。鳥が鳴いている。なのに、エレノアが起きてこない。いつもなら日が昇ると同時にがたがたと台所で音を立て始める。だが、今朝は妙なほど静かだ。レオは居間の古いソファで目を覚まし、その異様な静寂に首を傾げた。 吸血鬼に睡眠は必要ない。それでもレオは人間だった頃の習慣で、夜が明けると横になることにしていた。エレノアが「昼夜逆転した生活なんて体に悪いだろう」と小言を言うからだ。今日はその小言すらも聞こえてこない。
「婆さん?」
レオが声をかけても、返事はない。 二階へ続く階段を見上げる。もう一度「婆さん」と呼ぶが、返事はない。レオは軋む階段に一歩足をかけた。
「おい、朝だぞ」
朝日を浴びないよう気をつけながら、ぎしぎしと軋む階段を上がる。エレノアの部屋の前に立つ。静かだ。レオは「婆さん」とまた声をかけながらノックした。やはり、応答はない。
「婆さん、入るぞ」
ドアノブを回して部屋に足を踏み入れたレオは、ベッドに横たわるエレノアの姿を見つけた。いつものように毛布を胸元まで引き上げ、安らかな表情を浮かべ眠っている。 だが、その胸は上下していなかった。
「なあ、おい、婆さん」
レオがベッドに近づく。エレノアの頬に手を当てると、既に体温は失われていた。冷たい肌に触れた瞬間、レオの体が硬直した。
「エリー?」
幼い頃に彼女を呼んでいた愛称が、無意識に口をついて出た。だが、エレノアが応える声はどこからも聞こえてこない。 レオはエレノアの顔をじっと見つめた。深い皺に刻まれた顔は穏やかで、まるで心地よい夢でも見ているかのようだった。唇の端には、かすかな微笑みすら浮かんでいる。きっと最期まで、苦しむことはなかったのだろう。 レオは動かなかった。ベッドの傍らに立ったまま、ただエレノアの寝顔を見つめ続けた。 何か言うべきなのだろうか。 何かするべきなのだろうか。 けれど、レオには何をすればいいのかわからなかった。人の死に立ち会うのはこれが初めてだった。いや、大切な人の死に立ち会うのは、これが初めてだった。 時計の秒針が、時が過ぎていくのを告げる。その音だけが、やけに大きく聞こえた。 やがてレオの口から、搾り出すように音が漏れた。
「ちっ……」
舌打ちと共に、彼はエレノアから顔を逸らした。
「勝手に逝きやがって」
それは悪態だった。哀しみでも感謝でもなく、身勝手な文句だけ。
「今度は誰に飯もらえってんだよ。面倒くせえな、おい」
彼は部屋を出ようとして、足を止めた。振り返ると、エレノアは相変わらず安らかな顔で眠っている。
「一人だけそんな顔して逝きやがって……気楽なもんだ」
そう呟いて、レオは部屋を後にした。階段を降り、玄関へ向かう。もうここにいる理由はなかった。エレノアがいなければ、この家は単なる古い建物に過ぎない。 ドアノブに手をかけた時、レオの足が止まった。振り返ると、台所のテーブルに、エレノアが用意していたらしいシナモンロールが置かれていた。レオは物を食べないというのに、きっちり二人分。 突然、レオは胸がきりりと痛むのを感じた。それが何なのか、レオにはわからない。ただ息苦しく、その場にいることが耐えられなかった。 冬物の分厚いコートを取り、朝日を浴びないようそれを纏って家を出る。振り返ることはしなかった。エレノアの死んだ家を、エレノアのいない家を振り返るなんて、できなかった。 そして家には、静寂と二度と目を覚ますことのない老婆だけが残された。 永遠に少年の姿のまま一人になった元人間は、当て所なくさまよい始めた。胸の奥で何かが軋む。きりきりと痛む。レオはそれらを無視して歩き続けた。 痛みがあることを認めたくなかった。認めてしまえば、歩くどころか立っていることもできなくなるだろうから。
***
レオが故郷を離れて三日が経った。 近所の人々の間では、エレノアの葬儀を知らせる電話が鳴り響いているだろう。エレノアとずっと一緒にいたレオを探す声もあるかもしれない。だが、レオはもうあの家に帰らない。レオはただひたすら、あの家から離れるように歩き続けていた。 どこへ向かっているのかもわからないまま、レオは足の向くままに歩いた。コートを纏っても日の強い昼間は森の奥で眠り、夜になると起き出して歩き出す。そんな放浪を続ける内に、レオの腹の底で鈍い痛みが渦巻き始めた。 飢えだ。 エレノアを失って以降、レオは一滴も血を口にしていない。吸血鬼にとって、このまま飢えれば、やがて理性を失い獣と化すだろう。それはレオの望まぬところだった。 この道を歩けば、きっと街に出られるだろう。街には人がいる。人がいれば血がある。そう理解していても、レオの足は重かった。 レオはエレノア以外から血を吸ったことが一度もなかった。数十年間、ずっとエレノアだけがレオを生かしていた。
――血は血だろうが。
レオは自分に言い聞かせる。どうせ同じ赤い液体だ。味に大差などない。エレノアが特別だったわけじゃない。エレノアはただの、都合のいい餌に過ぎなかった。 そう思い込もうとしても、胸の奥でくすぶる痛みは消えなかった。
***
夜更け。レオは街道沿いの宿場町にたどり着いた。観光客を当てにした小さな町で、夜でも行き交う人の姿がある。レオは暗がりに身を潜め、獲物を物色した。 できるだけエレノアに似た相手がいいかもしれない。そう思って見回すが、彼女のような老女がこんな夜更けに一人で歩いているはずもない。 やがて、レオの目に一人の若者が映った。二十代半ばくらいの男で、大きなバックパックを背負っている。きっと放浪の旅をしているのだろう。そういう人間なら、いなくなっても騒がれまい。 レオは影のように男の後をつけた。町外れの人気のない場所まで来たところで、男の前に躍り出る。
「よう」
突然現れた少年に、男が驚いて足を止めた。
「こんな時間に子供が一人で歩いてて大丈夫かい? 迷子か?」
男は親切そうな声でレオに話しかける。その優しげな表情を見て、レオの胸にちくりと痛みが走った。
「迷子じゃねえよ」
レオが男に近づく。男は警戒することなく、心配そうにレオを見下ろしていた。
「じゃあ、何してるんだ? こんな夜中に」 「……血を吸いに」
男が眉をひそめた瞬間、レオは男の首筋に飛びかかった。吸血鬼の身体能力は人間を遥かに上回る。男が抵抗する間もなく、レオは男の体を押し倒し、牙を首筋に突き立てた。
「やめっ――」
男の悲鳴が夜闇に響く。レオは男の口を押さえつけ、湧き出る血を吸った。 その瞬間、レオの顔が歪んだ。
――不味い。
信じられないほど、不味かった。まるで鉄臭い泥水を飲まされているようで、吐き気が込み上げてくる。
「うえぇっ……」
レオは思わず男から離れ、口の中の血を地面に吐き出した。
「不味い……!」
男は首を押さえてうずくまり、恐怖に震えていた。怯えながら見上げる視線が、レオの胸に鋭く突き刺さる。 エレノアは、こんな目でレオを見たことがあっただろうか。いや、一度もない。初めて血を吸った時から、彼女はいつも穏やかだった。時には面倒くさそうに、時には呆れたように、それでも決して恐れはしなかった。
「ば、化け物……!」
男が震え声で呟いた。その言葉が、レオの心を深く抉る。 レオは立ち上がると、何も言わずにその場を走り去った。男の悲鳴は背後で続いていたが、振り返ることはしなかった。 森の奥で、レオは木に背をもたれて座り込んだ。口の中に残る血の味が、まだ気持ち悪い。
――エリーの血は、こんなんじゃなかった。
いつも甘くて、温かくて、まるで砂糖菓子のように美味しかった。それだけじゃない。血を吸っている間の、あの安心感。エレノアの温もりと、「まったく、しょうがないね」という小言。憎まれ口を叩きながらも、決して自分を拒まない彼女の存在。 それらすべてが、最高のスパイスだったのだ。 レオは膝を抱えて、小さく身を丸めた。
――俺は、何をしてんだ。
初めて、自分のしていることが見えた気がした。あの男の恐怖に歪んだ顔が、頭から離れない。エレノアだって、本当は怖かったのかもしれない。それでも、レオのために自分を犠牲にしてくれていたのかもしれない。 だとしたら、レオは何という恩知らずだったのだろう。 静寂の森の中で、レオは初めて、本当の孤独を知った。
***
それから、レオは何度も人間を襲った。 飢えに耐えかねて理性を失いそうになる度に、夜の街で獲物を探した。 若い女、屈強な男、時には自分と同じくらいの年頃に見える少女まで。年齢も性別も、様々な人間の血を口にした。 だが、結果はいつも同じだった。 どの血も鉄臭く、泥水のようで、吐き気を催す味だった。無理やり飲み下しても体に力が戻る感覚はない。むしろ胃の奥に重苦しい塊ができるばかりだ。 何より辛いのは、犠牲者たちの目だった。恐怖に歪む顔。助けを求める声。絶望に震える体。それらがレオの心を容赦なく抉り続けた。 三度目の襲撃の後、レオは廃墟と化した教会の中で膝をついていた。古い十字架が倒れた祭壇の前で、彼は荒い息を吐いた。
――何が足りないんだ。
血は血のはずだ。人間の血液に、そう大きな違いがあるはずもない。それなのに、なぜエレノアの血だけがあれほど美味しく感じられたのか。 レオは記憶をたどった。 初めてエレノアの血を吸った日のことを。あれはレオが吸血鬼になって間もない頃だった。理性を失いかけた彼に、エレノアは躊躇することなく自分の腕を差し出してくれた。
「レオ、大丈夫。私がついてるから」
その時の彼女の声を、レオははっきりと覚えている。優しくて、温かくて、そして少しも恐れていなかった。 血を吸う間中、エレノアは小さな手でレオの頭を撫でてくれていた。
「私がいるから、私の血ならいつでも吸っていいから」
悪い夢に怯える子供をあやすように。レオが人間ではなくなってしまったことを、少しも気にしていないように。 それからの数十年も同じだった。レオが空腹を訴える度に、エレノアは文句を言いながらも腕を差し出してくれた。恐れることも、嫌がることもなく、ただ当たり前のこととして。
「腹減った」 「うるさいよ、この居候」
あのやり取りが、どれほど愛おしかったか。レオは今になって気づいていた。 血を吸っている間の、エレノアの温もり。「まったく、あんたって奴は」という呆れた笑い声。そして時には、レオの髪をそっと撫でてくれる優しい手。 それらすべて、血に込められた愛情だった。 レオの胸に、込み上げてくるものがあった。それは今まで感じたことのない、激しい痛みだった。
――俺は血に飢えてんじゃない。
十字架の倒れた祭壇を見つめながら、レオは真実に辿り着いた。
――エリーに飢えてんだ。
エレノアの血が美味しかったのは、それが単なる栄養源ではなかったからだ。彼女の愛情と、信頼と、数十年間積み重ねてきた絆の結晶だったからだ。
「腹減った」と言えば、「うるさいね」と返してくれる人。レオが何をしても、決して見捨てない人。化け物になってしまった自分を、最後まで受け入れてくれた人。 そんな人は、もうどこにもいない。 レオは床に両手をついて、声を殺して嗚咽した。込み上げてくる感情を止めることができなかった。 何十年もの間、レオは自分を欺いていた。エレノアのことを、都合のいい餌としか思っていないふりをして。本当は、彼女なしでは一日たりとも生きていけないことを知っていたくせに。
――何で、生きてるうちに言えなかったんだ。
「ありがとう」の一言すら、レオは彼女に伝えていなかった。それどころか、最後の朝も悪態をついた。彼女が死んだ時ですら、自分のことしか考えていなかった。 祭壇の前で、レオは初めて泣いた。吸血鬼になってから、初めて流す涙だった。 それは、失って初めて気づいたものの重さを表すかのように、止まることがなかった。
***
レオが故郷に戻ったのは、エレノアを失って一ヶ月が過ぎた頃だった。 放浪の末に戻った街並みは、まるで時が止まったかのように変わらずそこにあった。小さな商店街、古い教会、そして丘の上に広がる墓地。すべてが記憶の通りで、それがかえってレオの胸を締めつけた。 レオの姿は見る影もなかった。服は汚れて破れ、髪は伸び放題。頬はこけ、青い瞳は虚ろに窪んでいた。これではまるで、生ける屍だ。 それでも彼の足は、迷うことなく丘へ向かった。墓地へと続く石段を、一歩ずつ登っていく。息が切れることはないが、心臓のない胸の奥が、ひどく苦しかった。 墓地に着くと、レオは足を止めた。 そこには、見慣れない真新しい墓石があった。まだ白い大理石が月光に照らされて、淡く光っている。墓石の傍らには、枯れかけた花束がいくつか供えられていた。きっと、近所の人たちが弔問に来てくれたのだろう。 レオはゆっくりと墓石に近づいた。そこに刻まれた文字を読み上げる。
「エレノア・マーシュ……享年七十三歳」
その下に、小さな文字で刻まれた言葉があった。
「愛する者のために生きた、慈悲深き女性……」
レオの喉が詰まった。愛する者とは、誰のことだろう。エレノアに家族はいなかった。友人は何人かいたが、特別に親しい相手がいたという話も聞いたことがない。だとすれば――。 レオは墓石にそっと手を触れた。冷たい石の感触が、彼の掌に伝わってくる。 数十年間、エレノアが自分の血を与え続けてくれたこと。どんなに悪態をついても、決して見捨てなかったこと。最期の朝まで、レオのためにパンを用意してくれていたこと。 すべてが、愛だった。 レオは墓石に背を預けるようにして座り込んだ。風が吹いて、丘の上の大きなオークの木の葉がさわさわと音を立てた。その音が、まるでエレノアの笑い声のように聞こえて、レオの胸が締めつけられた。
「ただいま、エリー」
小さな声で、レオが呟いた。
「遅くなったな」
返事はない。当然だ。それでもレオは、エレノアがそこにいるような気がしてならなかった。
「俺、馬鹿なことしちまった」
レオは膝を抱えて、静かに話し始めた。
「お前がいなくなって、ほかの奴らから血を吸ったんだ。でも、全然だめだった。不味くて、気持ち悪くて、吐いちまった」
風が止んで、辺りが静寂に包まれる。
「それでやっとわかったんだ。俺がお前に甘えてたってこと。お前の優しさに、ずっと頼りきりだったってこと」
レオの声が震えた。
「お前は、俺のこと怖くなかったのか? 化け物になっちまった俺を見て、逃げ出したくならなかったのか?」
墓石は何も答えない。ただ、月光を受けて静かに佇んでいるだけだった。
「でも、お前は逃げなかったな。それどころか、俺を守ってくれた。俺がほかの誰かを傷つけないように、自分の血を分け続けてくれた」
レオは墓石に額を押し当てた。
「ありがとな、エリー。今更だけど……本当に、ありがとう」
初めて口にした感謝の言葉が、夜の闇に溶けていく。 オークの木の下で、少年の姿をした吸血鬼は、ようやく自分の心と向き合っていた。愛していた人を失った悲しみと、その人に何一つ恩返しできなかった後悔を抱えて。 月が真上に昇り、傾き始めても、レオはその場を動かなかった。エレノアの墓石に寄りかかったまま、静かに星空を見上げていた。 もう、行く場所はどこにもなかった。 帰るべき家も、待っていてくれる人も、何もかもが失われてしまった。 それでも、この場所だけは違った。ここには、エレノアがいる。彼女の温もりは感じられないけれど、彼女が自分を愛してくれていたという事実だけは、確かにここにあった。 東の空が、薄紫から淡いオレンジ色に変わり始めた。レオは墓石に背を預けたまま、じっとその変化を見つめていた。山並みの向こうから太陽が顔を覗かせようとしている。もうすぐ夜明けだ。 吸血鬼にとって、朝日は死を意味する。日光に触れれば、その身は一瞬で燃え上がり灰と化す。 だが、レオに恐怖はなかった。むしろ、胸の奥に静かな安らぎが広がっていた。長い間抱えていた重荷を、ようやく下ろせるような気持ちだった。
「エリー」
レオが小さく呟く。その声には、いつものような苛立ちも、悪態も込められていない。ただ、深い愛情だけがあった。
「お前、向こうで退屈してるんじゃないか?」
風が吹いて、オークの木の葉が優しく揺れる。まるで、エレノアが「そんなことないよ」と答えているかのように。 空の色が、さらに明るくなっていく。山の稜線に、太陽の輪郭がはっきりと見え始めた。あと数分もすれば、最初の光がこの丘に届くだろう。 レオは墓石に刻まれた文字をもう一度見つめた。『エレノア・マーシュ』という名前が、朝の光の中で金色に輝いて見える。
「最後にわがまま言ってもいいか?」
レオの唇に、かすかな笑みが浮かんだ。それは、エレノアが生きていた頃には見せたことのない、穏やかで優しい笑顔だった。 太陽が山の向こうから姿を現した。黄金色の光が、ゆっくりと谷を照らし始める。その美しさに、レオは息を呑んだ。 朝日がどれほど美しいものなのか、彼は忘れていた。人間だった頃の記憶が、遠い昔のことのように思えた。だが今、その光を見て、レオは思い出していた。エレノアと一緒に見た、あの頃の朝を。 光がゆっくりと丘を登ってくる。レオの足元まで、もうすぐ届きそうだった。 レオは目を閉じて、深く息を吸った。それが、彼にとって最後の呼吸になるかもしれなかった。
「俺も……」
光が、レオの足に触れた。その瞬間、彼の体から煙が立ち上る。
「そっちに行っていいか、エリー?」
それが、レオの最後の言葉だった。 朝日が彼の全身を包んだ瞬間、少年の姿をした吸血鬼は燃え上がった。声を上げる暇もなくその体は一瞬で灰となって風に散る。灰は意思を持っているかのように、エレノアの墓石の周りをひらひらと舞った。そして、墓石の表面にそっと降り積もっていく。まるで、口うるさい幼馴染の隣で、ようやく永遠の眠りについたかのように。 やがて風が止み、辺りに静寂が戻った。朝日に照らされた墓地には、一つの墓石だけが静かに佇んでいる。その表面には、薄い灰の層が積もって、まるで二人分の魂がそこで寄り添っているかのように見えた。