優しいカラスと幽霊ちゃん

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優しいカラスと幽霊ちゃん

 村の外れの教会に、森と隣接する墓地がありました。並ぶ墓石の下には、家族や友人に見送られた故人が、そのときが来るまでゆっくり眠っています。なので墓石に座る彼女は、いつでも退屈でした。

「ひまだわ。することがないわ。とっても退屈だわ」

 白いワンピースに身を包んだ彼女は、白金髪を揺らし、白い頬に白い手を当て、「困ったわ」と呟きました。緑の目は、何か暇を潰すものはないかと、きょろきょろ動きます。  彼女が座る墓石は、彼女が眠る場所を示すもの。彼女はただの〝彼女〟ではなく名前を持った故人なのですが、本人が名前を思い出せないので、ここでは幽霊ちゃんと呼びましょう。  幽霊ちゃんは墓石に座り、日がな一日ぼんやりしています。出歩くことができればいいのですが、幽霊ちゃんが動けるのは精々、墓石から四、五歩の距離です。  退屈な幽霊ちゃんは時折、ふっつりと眠ってしまいます。幽霊なのに眠るなんておかしいですね。でも幽霊ちゃんは時々、生きていた頃のように眠り込んでしまうのです。折悪しく、そんなときに限って幽霊ちゃんのお墓を参る人が来ます。その人たちは幽霊ちゃんの名前を呼んで悲しむのですが、眠る幽霊ちゃんには聞こえません。自分の墓参りに来た人がいることも知らず、幽霊ちゃんは墓石に頭を預け、すやすやと眠っていました。  目を覚ました幽霊ちゃんは、ぐるりと墓地を見渡しました。昼日中のこと、晴れた空にまん丸のお日様が浮かんでいます。こんな時間に、墓地を訪れる人はいません。この時間は畑を耕したり、お針子をしたりと、みんな忙しく働いている時間だからです。  なぁんにもすることのない幽霊ちゃんは、自分が座る墓石を眺めるしかすることがありません。腰掛けた墓石から降りた幽霊ちゃんは、墓石を上から下までまじまじと眺めます。墓石はつい最近作られたもののようで、苔どころか鳥の糞すら見当たりません。墓石には追悼の言葉が彫られています。 『あなたの優しさを見た神様が あなたをおそばに呼んだのかしら 私たちにその時が来たならば あなたの優しさで 私たちもおそばへ呼んで』  刻まれているのは、こんな追悼の詩でした。そのほかに、幽霊ちゃんの名前が彫ってあります。 『我が子××××、ここに眠る』  彫られた名前は真新しいものです。なのに幽霊ちゃんはなぜか、その名前が読めません。触れることのできない指で文字をなぞりながら、幽霊ちゃんは首を傾げます。

「おかしいわ。この詩が読めるのだから、自分の名前だって読めるはずなのに。いいえ、そもそも、名前を思い出せないなんておかしいわ」

 おかしいわ、おかしいわ。そう呟きながら、幽霊ちゃんは墓石に腰掛け、白い足をぶらぶらさせました。自分がそんなことをしているのに気がついて、幽霊ちゃんは「あら」と足を押さえました。

「はしたないわ。叱られちゃう」

 でも、誰に?  首を傾げる幽霊ちゃんに、答えを教えてくれる人はいませんでした。そう、《《人は》》いません。  ところで、墓地のすぐそばは大きな森がです。この森にはたくさんの動物が住んでいるのですが、一番多いのはカラスです。それはもう、塒へ帰る群れが空を覆う様は、一足早く夜が来たかのよう。そんなたくさんいるうちに一羽が、幽霊ちゃんの友達です。  どこからともなくやってきたカラスは、舞うように墓石の一つに飛び乗ります。幽霊ちゃんは緑の目を輝かせ、血の通わない頬を紅潮させて来客を喜びます。

「いらっしゃい、カラスさん! 待ってたのよ。一日が百日のようだったわ!」 「待たせてすまないね。今日はお土産があるよ」

 そう言ってカラスは、ぴょんぴょんと跳ねて幽霊ちゃんの墓石の前に花を一輪落としました。幽霊ちゃんの赤く染まった頬のような、可憐な色の花でした。  幽霊ちゃんはカラスがやってくると、いそいそと墓石の上に座り直します。そしてカラスがお向かいの墓石に飛び乗ると、楽しいおしゃべりの始まりです。

「今日は何を話してくれるの?」 「そうだね。町で見てきた大道芸のことを話そうか」 「まあ、素敵!」

 幽霊ちゃんの拍手を合図に、カラスは実に滑らかに話し始めました。  このカラス、墓地から出られない幽霊ちゃんに代わって見聞きした物事を、それはそれは上手に語ります。カラスの声といえば濁ったしゃがれ声というのが相場ですが、このカラスの声といったら、素晴らしく美しいのです。日だまりのように優しく、せせらぎのように涼やか。そして春の夜風のように穏やかで、幽霊ちゃんが聞き惚れてしまうほどです。  初めてカラスと出会ったとき、幽霊ちゃんはたいそう驚いたものです。

「カラスって、そんなに穏やかに話せるのね。もっと喧しいと思ってたわ」

 喧しいと言われてもカラスは怒りもせず、穏やかに「人間と同じさ」とうなずきます。

「騒がしいのもいれば、私のように大人しいのもいる。人間だって、そうだろう?」

 いつだってこんな風に、カラスは幽霊ちゃんと話します。その上とっても知的なので、幽霊ちゃんはカラスの言うことには素直にうなずいてしまうのです。そんなカラスの、美しい声と優しい語り口。幽霊ちゃんは相づちに質問を混ぜながら、カラスの話に目を輝かせて聞き惚れます。

「……と、こんな風に見物客を魅了していたんだ」 「素敵だわ。目に浮かぶようだわ。あなたって本当に話すのが上手ね!」 「次はきみの番だよ。私と会わない時間、ここでは何があったんだい?」 「そうね、今度は私の番! 聞いて、カラスさん。今日の朝日はとってもきれいだったのよ」

 カラスが語り終えたら、今度は幽霊ちゃんが話す番です。といっても、幽霊ちゃんが話せるのは墓地から見える範囲で起きたことだけ。  朝日が昇る様。小鳥が歌う声。樵が木を切る音。今朝咲いた花の色。教会の鐘の|音《ね》。遠く聞こえる口笛の音色。そよぐ木の葉の色づき具合。  見聞きした小さな世界を、幽霊ちゃんは言葉を尽くして細やかに表現します。幽霊ちゃんが楽しそうに語るのを、カラスは黒い目を細め、静かに相づちを打っていました。

「きみは細やかに、優しい目で世界を見ているんだね」

 幽霊ちゃんが話し終えると、カラスは幽霊ちゃんの見る世界を褒めます。幽霊ちゃんははにかみながら、カラスの褒め言葉を受け入れます。

「素敵なお話をしてくれるあなたにそう思ってもらえて、とっても嬉しいわ」

 こんなやり取りを、幽霊ちゃんとカラスは毎日、毎日繰り返していました。  ある日のこと。おしゃべりを終えて小休憩を挟んでいたとき、幽霊ちゃんは思いついた質問をカラスに投げかけました。

「ねえ、カラスさん。あなたは私に名前を聞かないのね」 「ああ、聞かないよ。どうしてだい?」 「だって、名前を呼べないと不便でしょう?」 「そうでもない。だってここには、私ときみしかいないんだから」

 カラスの言うとおり、この墓地にはカラスと幽霊ちゃんしかいません。優しいカラスが幽霊ちゃんを訪ねてくるときには、不思議と、ほかのカラスの一羽すらもやってこないのです。カラスの返事に幽霊ちゃんが拗ねると、カラスは嘴を閉じたまま笑いました。

「どうしたんだい。何を聞きたいんだい?」 「あなたは町へも行ったりするんだから、物知りでしょう? 私の名前を知らないかと思って」 「何だ、そういうことか。それなら知っているとも。きみの名前も、どうして死んだかも」

 今度こそ幽霊ちゃんは、跳び上がるほどびっくりしました。まさかこのカラスが、名前どころか自分の死因すらも知っていたなんて、思いもしなかったからです。驚いて言葉が出ない幽霊ちゃんに、カラスはゆっくり答えます。

「私が教えることは簡単だ。でもそれは、自分の力で思い出さなくちゃいけないことだよ。きみ自身のことなんだから」 「教えてよ、カラスさん。知ってるのに教えないなんて、意地悪はよして」 「だめだめ」

 カラスは首を振り、羽を広げました。ばさりと羽ばたき、カラスは墓石から離れます。

「私が嘘を教えても、きみは嘘だとわからない。それは、とても不安なことなんじゃないかな」

 幽霊ちゃんは首を傾げます。カラスの言うことはもっとものような、そうでもないような。うーんと考え込む幽霊ちゃんに、カラスは空へ飛び立ちながら、一つヒントをあげました。

「きみが死んだのはそこの森だよ。私は見ていないけれど、ほかのカラスは見ていた」

 それだけ言い残して、カラスは空の向こうへ行ってしまいました。一人残された幽霊ちゃんは、墓石に座り、考えるしかありません。  次の日も、また次の日もカラスはやってきません。お陰で、幽霊ちゃんはゆっくり考える時間ができてしまいました。  考えることは、自分が死んだ日のことばかり。幽霊ちゃんは自分がどうやって死んだのか、いつ死んだのかを考えます。  樵の斧が振るう音を聞きながら、幽霊ちゃんは記憶を探ります。

「木を切る音は聞こえた? いいえ、聞こえなかったわ。ということは、私が死んだのは、樵の人たちが仕事を終えた後よね?」

 鳥たちの歌う声を聞きながら、幽霊ちゃんは記憶を手繰り寄せます。

「鳥の声は聞こえた? いいえ、鳥たちは歌ってなかったわ。じゃあきっと、鳥たちが眠りにつく前ね」

 沈む夕日を見ながら、幽霊ちゃんはあと一息で鮮明になりそうな記憶を追いかけます。

「空は青色だった? いいえ、赤くなってきていたわ。だからきっと、こんな時間だったのよ」

 可哀想な幽霊ちゃん。元々白かった顔は青ざめて、頬はげっそり痩せこけてしまいました。艶のある白金の髪は、藁のようにがさがさの白髪になってしまいました。優しい眼差しの緑の目は、ぎらぎらした光を宿すようになってしまいました。  幽霊ちゃんは段々と、自分がどうして死んだかを思い出してきました。どうやって殺されたか、思い出してきました。いったい誰が自分を殺したか、幽霊ちゃんは、思い出してしまいました。幽霊ちゃんの目から、赤い涙がつぅとこぼれ落ちました。

「ひどいことされたわ。ひどいことされたの。とっても痛かったわ。とっても苦しかったわ。とっても怖かったわ。ひどい、ひどい。ひどすぎるわ」

 思い出した幽霊ちゃんは、もう以前の幽霊ちゃんではありませんでした。  幽霊ちゃんが座る墓石の周りだけ、お日様が照っていてもやけにじめじめするようになりました。  墓石に近寄るだけで、誰もがどんよりした気分になってしまうようになりました。  幽霊ちゃんが恨み言を呟く声が、夜な夜な墓地に響くようになりました。今の幽霊ちゃんは、誰がどう見ても、恐ろしい悪霊です。  カラスが墓地を訪れなくなって、七日。幽霊ちゃんがほとんど悪霊に変わって、三日ほどのことでした。近づきがたい空気を漂わせる幽霊ちゃんのそばに、カラスは平気な顔で近づきます。

「やあ、すっかり思い出したようだね」 「ええ、お陰様で。全部思い出したわ。私と、あいつの名前以外は。それで、あなた、私の名前を教えてくれに来たの?」 「いいや。意地悪をしてすまなかったねと、謝りに来たのさ」 「謝る必要なんてないわ。ええ、ちっとも謝ってほしくない」 「そう言わずに。どうかこれで、許しておくれ」

 カラスは幽霊ちゃんの墓前に、ぽとりと何かを落としました。それは湿っていて、歪ながら丸い形をしています。  形が歪なのは、肉片がまとわりついているからです。カラスが落としたものは、白く濁りつつある、青い瞳の眼球でした。

「きみにひどいことをした男の目だよ」

 穏やかな声で、カラスが言います。幽霊ちゃんは転がされた眼球をじっと見つめました。

「……そうね。見覚えがあるわ。私を見下ろしてた目はこれよ。私の最期を笑いながら見届けた目よ。憎い憎いあいつの目」

 幽霊ちゃんがうなずくと、どこからともなく、別のカラスが飛んできました。黒い嘴に、何かくわえています。飛んできたカラスは幽霊ちゃんの墓前に、何かをぽとりと落としました。それは、引きちぎられた人間の耳でした。垂れた血が、地面に赤い斑点を描いています。  幽霊ちゃんが「まあ」と驚くのを皮切りに、あちこちからカラスが飛んできました。彼らは一様に肉色のものをぽとりと落とし、幽霊ちゃんが何か言う前に去っていきます。それはそのまま肉片だったり、剥がされた爪だったり、幽霊ちゃんにはよくわからない臓物だったりと、様々でした。  降り注ぐ肉の雨を見ている人がいたならば、身の毛がよだつ光景に「いったいどんな凶事の前触れか」と戦いたでしょう。もちろん、幽霊ちゃんが怖がることはありません。  現れては去るカラスが落とす〝お土産〟の数々。次第に、幽霊ちゃんの目からぎらぎらした光が消えました。代わりに、驚きと少しの喜びが光となって、幽霊ちゃんの緑の瞳を輝かせます。

「これ、全部あいつの?」 「ああ、そうだよ。そこから動けないきみの代わりに、私たちが。余計なお世話だったかな?」 「いいえ。いいえ!」

 幽霊ちゃんの目から流れる涙は、透明になりました。青ざめていた頬に、赤みが差しました。藁のようにがさがさだった髪には艶が戻り、白髪は白金の輝きを取り戻しました。幽霊ちゃんの周りに、ほかの墓石と同じように、暖かな日差しが降り注ぎました。  カラスたちがすべての肉片を落とし終えても、幽霊ちゃんから光は消えません。ほとんど悪霊になっていた幽霊ちゃんでしたが、今はすっかり元の幽霊ちゃんです。  涙を拭った幽霊ちゃんは、日差しに負けないほどの笑顔を浮かべ、優しいカラスにお礼を言いました。

「余計なお世話だなんて、とんでもないわ! ありがとう、カラスさん。私じゃきっと、あいつに触れることすら叶わなかった」 「それでいいのさ。心優しいきみが、あんな男のために穢れる必要はない」

 幽霊ちゃんの話し相手になったり、幽霊ちゃんの代わりに復讐を遂げたりと、このカラスは幽霊ちゃんのために動き通しです。幽霊ちゃんは優しいカラスがどうしてここまで優しいのか、不思議でなりませんでした。

「どうしてあなたは優しいの?」 「思い出してごらん。きみが死ぬ前のこと、もっともっと前のこと。きみが楽しく、幸せに過ごしていた頃のこと」

 優しいカラスからの、最後のヒントでした。カラスの濡れたような黒い目が、じっと幽霊ちゃんを見ます。小首を傾げる様を見て、幽霊ちゃんの瞳に星が瞬きました。その星が弾け、小さな火花となって、影に隠れて見えなくなっていた幽霊ちゃんの記憶を煌々と照らします。  彼女が生まれたのは、小さい家でした。両親と祖父母、たくさんの兄弟でいっぱいいっぱいになるような家でした。生活は贅沢なものではありませんでしたが、心は豊かでした。いつでも笑顔に溢れた家でした。  村の人も、気のいい人ばかりでした。同い年のニナとは恋の内緒話をたくさんしました。同い年のリュシーとは、刺繍の腕を競い合いました。三つ上のナディアお姉さんには、レディとしての振る舞いを教えてもらいました。五つ下の可愛いラシェルには、森で採れる美味しい果実を教えてあげました。  森の中で、彼女は、巣から落ちたカラスを拾ったことがありました。カラスは彼女によく懐き、手のひらに乗るようになりました。濡れた瞳で見上げてくるカラスを、彼女はたいそう可愛がっていました。

「思い出したわ」

 幽霊ちゃんはぽつりと呟き、カラスを正面から見つめ返しました。

「あなた、森で拾ったカラスちゃんね? そうよ、そうだわ! 私の髪と正反対の色!」

 幽霊ちゃんの喜びに満ち満ちた声とは反対に、カラスの声は静かで、落ち着いています。

「思い出せたかい、きみの名前」 「ええ、ええ! 思い出したわ、私の名前。私はイレーヌ。イレーヌよ!」

 幽霊ちゃん、いいえ、イレーヌは、ようやく自分の名前を思い出すことができました。もう、イレーヌの目から光が消えることはありません。イレーヌの周りから、光が消えることはありません。  天から差したまっすぐな光が、幽霊ちゃんを包みます。

「忘れてたわ。どうして忘れてしまってたのかしら。あいつのことでいっぱいになって、それが苦しくって、忘れてたんだわ。あいつのことを忘れるために、楽しかったこと、幸せだったことまで思い出せなくなってた」

 イレーヌはふわりと浮かび上がり、ゆっくりと天に昇り始めました。イレーヌは目一杯手を伸ばし、触れることのできない手で、優しいカラスをそっと撫でました。

「ようやく空へ行けるわ。あなたともう会えなくなるのは寂しいけれど、また会えたら、そのときはたくさんお話ししましょうね。今までみたいにたくさん、いいえ、今までよりもたくさん!」 「もちろんだとも、優しいイレーヌ」

 触れられない手に嘴を寄せ、カラスはうなずきました。

「また会う日まで、私を忘れないでいておくれ」 「ええ、もちろん! 忘れないわ。だからあなたも覚えていてね、かわいいカラスちゃん」

 イレーヌの手が、カラスから離れます。カラスは追いかけようとしたのか、羽を広げました。しかしすぐ羽をたたみ、その黒い瞳で、イレーヌが消える一瞬まで見つめ続けました。  天に招かれたイレーヌは、最後までカラスに感謝を告げ、光の粒となって消えました。残されたカラスは消えゆく光を見上げ、ぽつりと呟きました。

「忘れないよ、イレーヌ。きみのことも、きみへの恩も、何もかも」

 黒い翼が、音を立てて広がりました。ばさりばさりと羽ばたくたびに、カラスの体が膨らみます。小さな額から、頬から、めりめりと音を立てて六つの目が現れます。背中からも同じ音を立て、もう三対の翼が生えました。  優しいカラスは見る見るうちに、八つの目と四対の翼を持つ、大きな大きなカラスになりました。このカラスこそが、墓地のそばにある森を治める王様です。森に住む動物たちはみんな知っていますが、人間たちは誰一人、森に王様がいることなんか知りません。  しゃがれた鳴き声が、村に散らばるカラスを呼びます。王様の呼び声に応じ、村中のカラスが集まりました。

「戻ろう、我が配下たち。イレーヌは天に昇った。清らかなまま、優しいあの子のまま」

 ほかのカラスたちが、喜ぶように、惜しむように、濁った声で答えます。王様が羽を広げると、ほかのカラスたちも一斉に羽を広げます。黒い群れは空を夜色に染め上げながら、森の王は、塒である森へと帰っていきました。  あとに残るのは、イレーヌを殺した悪漢の肉片と、黒い羽の一枚だけ。

優しいあの子と森の王

 カラスはどうして森の王になったのでしょう?  王様を決めるのに、森の動物は争ったりしません。何せ王様は、生まれたときから王様と決まっています。そのカラスは卵の中にいる頃からすでに、自分が王様だとわかっていました。母も兄弟も、みぃんな心得ています。  灰色の雛の状態でも、森の王であることに変わりはありません。王様は森で一番偉くて、一番力のある存在です。ですから親鳥がいない間に泣き喚いても、蛇に頭から丸呑みされる心配はありません。ちょっとわんぱくが過ぎて巣から落ちたって、オオカミに食べられる心配はありません。動物たちは、森の決まり事をよぉくわかっています。王様がいなくなれば、森の理はめちゃくちゃになってしまうのです。  森の決まり事をわかっていないのは、人間だけです。人間だけが、彼が森の王だと気づかず手を出します。巣から落っこちた王様をいじめていたのは、村でもいたずらっ子で有名なブノワとエリクでした。  鋭い枝の先でつつかれ、転がされ、王様は痛みに泣き喚きました。けれどブノワもエリクも意地悪なので、ますます面白がって王様をいじめます。  森の王たる自分に、こんなことをするなんて!  王様の怒りも知らず、いじめっ子二人は幼い王様をいじめます。近くにクマでもいれば、このいじめっ子にけしかけ、あっという間に王様は痛みとさよならできたでしょう。けれど生憎、近くにはクマどころか、うり坊すらいません。高い枝の上にいる兄弟たちは、どうしたものかと右往左往するばかり。  助けもなくこのままいじめ殺されるのかと、王様が諦めかけたそのときです。たかたかと駆け寄る足音が聞こえたかと思うと、ばちんと小気味いい音が響きました。

「何してるの、あなたたち!」

 言い放ったのは、白金色の髪を編んだ少女でした。ブノワの頬に、真っ赤な手形が浮かんでいます。森に響いたいい音は、ブノワの頬を引っぱたいた音でした。いじめっ子二人は突然の平手に気色ばむかと思いきや、後ろめたそうに目を伏せ、持っていた枝を手放しました。

「何だよ、イレーヌ。叩かなくたっていいだろ」 「俺たち、ちょっと……ちょっと、こいつと遊んでただけじゃないか」

 イレーヌと呼ばれた少女は、優しげな緑の目をきりと吊り上げ、二人の台詞をぴしゃりと切り捨てます。

「誰かが痛い思いをするようなこと、遊びなんて言わないわ!」

 毅然として言い放つイレーヌを見た王様は、イレーヌを女神だと思いました。それほどにイレーヌは輝いていたのです。事実、そのときのイレーヌは太陽の光を背にしていました。王様には後光に見えたことでしょう。  しゅんとするいじめっ子二人を放置して、イレーヌは動けない王様を両手で拾い上げました。血を流す王様を、前掛けで優しく包みました。

「可哀想に。痛かったでしょう。手当てしてあげるから、一緒にうちに来てちょうだいね」

 森の王に掛ける言葉にしては、気安すぎる言葉です。けれどイレーヌの目には、王様が普通のカラスの雛にしか見えないので仕方ありません。王様は大人しくイレーヌに運ばれ、森のそばにある村で手当てを受けました。  イレーヌの家は小さく、人でいっぱいです。両親はカラスを不吉だと言ってすぐ森へ返すよう言いましたが、イレーヌは頑として聞き入れません。

「だめよ。こんな怪我をしてるのよ? 人がこんな怪我をさせたんだから、治るまで人がお世話するべきだわ!」

 言い出したら聞かないイレーヌに、面白がった兄弟が「そうだそうだ」と乗っかります。祖父母までもが「自分の取り分から世話をするのなら」と許す様子を見せました。お陰でイレーヌの両親は、小さな仔カラスが滞在するのを許すしかありませんでした。

「あなたって、こんなに小さいのにたくさん食べるのねぇ」

 イレーヌはにこにこ笑って、王様にご飯を食べさせます。感心する声が自分を褒めてくれるのが嬉しくて、王様はますます旺盛な食欲を見せました。  幼い王様は、イレーヌが差し出すふやけた穀物をたくさん食べました。イレーヌの兄弟が差し出す匙には見向きもしませんでしたが、イレーヌが差し出せば、それがたとえ未熟で酸っぱい果実であろうと喜んで食べました。もちろん、イレーヌがそんな意地悪をすることはありませんが。

「あなたって、とっても聞き分けがいいのねぇ」

 王様の怪我を見てあげながら、イレーヌは優しい声で言いました。聞き分けがいいのは当然です。王様は人間の言葉だってしっかりわかります。けれどイレーヌはそれを知りません。傷に当てた布を取り替えてあげながら、イレーヌは王様の小さな頭をよしよしと撫でてあげます。それが嬉しくて、王様は殊更イレーヌの言うことを聞くようになりました。  ほかの兄弟が面白がってあれこれ言っても、つんと顔を背けるだけです。膨れっ面をする兄弟たちと澄まし顔をして見せる王様とを見比べ、イレーヌはころころと笑っていました。

「あなたって、大きくなるのが早いのねぇ」

 外で羽ばたきの練習をさせながら、イレーヌは感心した声で言いました。ほかの雛より成長が早いのは当然です。王様は森の王ですから、普通のカラスの姿からもう一つ成長する必要があるのです。ほかのカラスより早く大きくならないと、いつまでたっても森の王になれません。  そうとは知らないイレーヌは、黒い羽の生えそろった王様が空を旋回する様を、楽しそうに見上げていました。イレーヌが自分だけを見てくれるのが嬉しくて、王様はイレーヌが「飛んで!」と言えば、何度だって空へ舞い上がりました。  やがて王様はすっかり怪我が良くなって、イレーヌの家を出ていく日がやってきました。  イレーヌのお陰で、王様は傷一つなく、まっすぐな翼で森へ帰ることができました。

「さようなら、カラスちゃん。あなたと会えないのは寂しいわ。あなたもそう思ってくれたなら、いつでも会いに来てね」

 イレーヌの手によって空に放たれた王様は、名残惜しさを感じつつ、真っ直ぐ森へ帰りました。心配していた森の動物たちに出迎えられても、王様の頭の中はイレーヌでいっぱいです。

「優しいイレーヌ」

 塒である古木に止まり、王様はイレーヌの名前を呟きました。  優しいイレーヌ。雛である王様を見る目は、いつだって優しく、慈しみに満ちていました。  美しいイレーヌ。白金色の髪は豊かに波打ち、緑の瞳はいつだってきらめいていました。  いつだって、王様の目にはイレーヌだけが輝いて見えました。

「イレーヌ。イレーヌ。きみこそがこの森の王妃にふさわしい!」

 ええ、そうです。王様はすっかり、イレーヌに恋をしていたのです。  今はまだどこからどう見てもただのカラスですが、ほかのカラスたちが巣立つ頃には森の王にふさわしい姿に成長します。  王たる姿に成長した暁には、イレーヌをお嫁にもらおう。  王様はそう決めました。  人間にとってのたった一年は、鳥たちにとって長い長い一年です。兄弟たちの羽が生えそろう頃、王様の額や頬には、六つの目が新たに現れました。兄弟たちが巣立つ頃には、王様の背中には、四対の翼が新たに生えました。  姿までも立派な森の王になった王様は、もうイレーヌを迎えに行けるはずです。けれどいざ成長しても、王様はイレーヌの家へ行ったりしませんでした。森の決まり事をよく知っている王様は、人間たちの決まり事もよく知ってたのです。  イレーヌはまだ一三歳。森へお嫁入りしてもらうには、あと二年待たなくてはなりません。  人間が結婚するには本人同士の気持ちも、ご両親の気持ちも大事です。人間の決まり事を知っている王様ですが、この二つについては、すっかり抜け落ちていました。王様の頭の中は、イレーヌと、イレーヌを森へお嫁入りさせること。この二つでいっぱいになっていました。  あと二年。王様は、自分がイレーヌに求婚する前に取られたりしないよう、いつでもこっそりとイレーヌを見守っていました。しかし王様は森の王であるため、ずっとイレーヌに貼り付いているわけにもいきません。けれども森も村も平和であったため、王様が森にいる間も、イレーヌには何の危険も及びませんでした。  いつもは自分でイレーヌを見守っていた王様が、ある日、ほかのカラスにイレーヌの見守りを任せました。そして数日、森を離れると言い残して町へ飛び立ちました。イレーヌに求婚するため、そのとき彼女に素敵な贈り物をするため、王様は森を離れる必要があったのです。  森の外で八つの目や四対の翼を晒しては、人間たちに大騒ぎされてしまいます。それを避けるため、王様は普通のカラスの姿で、イレーヌに贈る品を探して飛び回りました。

「イレーヌに求婚しよう。だってもうすぐ、あの子は十五になる! どんな贈り物をしようか。人間は、きらきら光るものが好きと聞いたけれど」

 イレーヌ思いの可愛い王様。恋で盲目になってしまった愚かな王様。森にだって素敵なものはたくさんあるのに、イレーヌが喜ぶものをと、遠くへ出掛けてしまった可哀想な王様!  王様が出掛けた翌日、王様がいなかったばっかりに、イレーヌは悪漢に襲われてしまいました。  イレーヌを見守っていたカラスが、王様を呼び戻しに慌てて森を飛び立ちます。カラスたちがようやく王様を連れ戻したときにはもう、イレーヌは変わり果てた姿で森の片隅に転がされていました。

「イレーヌ」

 カラスの姿のまま、王様はイレーヌに近づきました。  可哀想なイレーヌ。白金色の豊かな髪は、血でべっとりと汚れて、見るも無惨に切り刻まれています。  可哀想なイレーヌ。優しい眼差しのきらめく瞳は、恐怖を浮かべたまま濁っています。  可哀想なイレーヌ! いったい誰が、イレーヌをこんな目に遭わせたのでしょう!  王様の胸は、悲しみに張り裂けてしまいそうでした。張り裂けそうな胸の底では、煮えたぎる怒りが今にも溢れそうでした。

「流レ者ヨ」

 控えめに告げたのはコマドリの一羽です。彼女らは、カラスたちが王様を呼び戻しに行った後も一部始終を見ていました。振り向かない王様に、コマドリたちは続けます。

「いれーぬニ叱ラレタノヨ」 「女ノ子ニチョッカイ出シテ、嫌ガラセバカリシテタノヨ」 「いれーぬガミンナノ前デ叱ッタカラ、流レ者、怒ッテコンナコトシタノヨ」 「モウ、村を出テッチャッタノヨ」

 王様の体がぶるぶる震えだしたのは、亡骸の惨たらしさに恐怖したせいではありません。王様の体が震えるのは、大好きな大好きなイレーヌを、こんな無残な姿にされたからです。  王様の体は膨れ上がり、森の王たる八つの目と四対の翼を持つ姿に戻りました。しゃがれて割れた王様の声が、森中の動物を呼び出します。

「イレーヌを殺した者を、私の前まで連れてこい」

 怒りに満ちた王様の声といったら、何て恐ろしいんでしょう! 森一番の巨躯を持つクマすらも、王様の声には震え上がって従います。  動物たちは散り散りになって、イレーヌを殺した男を探しに行きました。イレーヌを殺した男は、オオカミに噛みつかれ、クマに引きずられ、王様とカラスたちの前に連れてこられました。  男は動物たちの言葉がわかりません。どうしてオオカミに噛みつかれ、クマに引きずられているのかわかりません。木の上にいる八つの目と四対の翼を持つカラスが、恐ろしい顔で見下ろす理由がわかりません。  王様は、カラスの言葉で言いました。

「こんな男の、申し開きを聞く時間すらもったいない」

 王様が翼を広げると、カラスたちは一斉に男に飛びかかりました。カラスたちの黒く尖った嘴が、叫ぶ男の柔らかい肉に突き立てられます。もちろん王様も、率先して男に嘴を突き立てます。  青い目玉を取り出して、地面に転がし王様は怒ります。

「目を突いてやっても足りない」

 赤らんだ顔から皮膚を剥ぎ取って、地面に投げ捨て王様は怒ります。

「皮を剥いでやっても足りない」

 赤い肉をちぎっては捨て、それでも王様は怒ります。

「肉を食み取ってやっても足りない」

 喚く舌を抜き取って、オオカミに食わせても王様の怒りは続きます。

「こんな痛みじゃ、イレーヌの痛みに届かない」

 生温かい臓物を引きずり出してクマに食わせても、王様の怒りは静まりません。

「そんな痛みじゃ、私の怒りは収まらない」

 天を仰いだ王様は、割れ鐘のような声を森中に響かせました。男が事切れても、王様は、カラスは、男に嘴を突き立てては肉を抉り取りました。男はすっかり骨だけになってようやく、王様は少しだけ――ほんの少しだけ、気が済みました。  後は皆さん、ご存じの通り。  王様は普通のカラスになって、魂だけで墓地に残り続けるイレーヌと心を通わせました。すべてを思い出したイレーヌに、彼女を殺した男の末路を見せ、天に召させてあげました。王様はイレーヌを見送り、優しいカラスから森の王へと戻りました。  それから百年、森と森のそばにある村は、たいそう平和であったそうです。

 ――本当は、本当はね?

 王様はイレーヌの魂を、森に繋ぎ止めておくつもりでした。  イレーヌとおしゃべりをしていたのは、自分が死んだことを思い出させて、憎しみや怒りで魂を塗りつぶすためだったんです。そうなればイレーヌは天へと昇らず、哀れな魂として、森に潜むにふさわしい怪物になるからです。  王様はイレーヌを亡くした悲しみで、イレーヌがイレーヌたる理由を忘れていました。けれど王様は、イレーヌとのおしゃべりで、彼女を好きになった理由を思い出すことができました。  イレーヌは、優しいからイレーヌなのです。清らかで、気高くて、いつもまっすぐな心を持っているからイレーヌたるのです。  憎しみや怒りに囚われた怪物になったイレーヌは、イレーヌではありません。何よりそんなことになったら、イレーヌは悲しむでしょう。苦しむでしょう。ずっとずっと、癒えない傷に苦しむことになるでしょう。  そのことに気づいた王様は、暴漢の変わり果てた姿を見せることで、イレーヌの溜飲を下げました。そしてイレーヌが清らかなまま天に召されるのを見送りました。  カラスから森の王に戻った王様は、次の王が生まれるまで、森が平和であるようよくよく務めを果たしました。そして次の王様が生まれると、眠るように息を引き取り、イレーヌがいる天へと昇っていきました。  元王様のカラスがイレーヌと出会えたかどうか。それはあなたの、想像のまま。