大学に進学し、一人暮らしを始めた。生活費を賄うためいくつかのバイトを経て、今はバーで働いている。 明かりは極限まで絞った古めかしいランプのみの、一見してアングラ感漂うバーだ。けれど実体は全く違う。静かで落ち着いていて、なのにいつも楽しげな空気の店だ。 真っ暗に等しいこの店は、私が働き出した頃からいつも満席だった。そして客は、誰も彼もが風変わりなひとばかりだった。 牛ほどもありそうな巨体の客は、来店の度ボックス席を申し訳なさそうに占拠している。 親指ほどの大きさしかない客は、カウンターの真ん中を陣取り、小指の先ほどのグラスを誇らしげに揺らしている。 氷のように冷たい手の客は、度数の高いカクテルで喉を焼いては「これが熱いというものか」と楽しげだ。 背中に棘を生やした客もいる。顔まで毛皮で覆われた客もいる。猫撫で声の上手な、三日月のような目を持つ客もいる。 ほかにもたくさん、いろんな客がバーを訪れた。人間らしい客なんて一人も来ない。客は皆、例外なく人ではない怪しい客ばかりだ。 私はそれを、気にしなかった。 人じゃないものを相手にしているほうが気楽でいいからだ。接客業なのにバイトができているのは、客層のお陰。ああもちろん、店長の優しさも忘れちゃいけない。 ボックス席で盛り上がる客たちへ給仕する私に、カウンターから優しい声がかけられる。
「深見さん、休憩行っておいで」 「ありがとうございます」
カウンター越しの優しいテノールは、店長の声だ。給仕以外のすべてはカウンターの向こうで行われる。 この店の暗さは、どこもかしこも平等だ。カウンターの向こうも例外ではない。 手元も怪しい暗さで、店長は客の注文を聞き望むとおりのカクテルを提供する。 そういえば面接で通された休憩室兼倉庫も暗かったな――と思い出す。 暗がりのせいで、店長の顔はよく見えなかった。働き出した今も、店長の顔をはっきり見たことはない。それでも佇まいから、物憂げな空気は感じ取れた。穏やかな言葉遣いと言葉選びから、ちょっとネガティブな性格なのもわかった。根暗な私には、そのくらいの|上司《ひと》がちょうどいい。 そんな店長相手でも、面接のときは緊張した。人付き合いが苦手で、少しでも変わりたくて、目立たない場所に貼られたこのバーのチラシを見つけた。けれど店までの道のりを歩いて、自分の場違いさに震え上がった。 落ちるつもりで面接を受ける私に、店長は思いがけず優しい言葉をかけてくれた。
「苦手なものを克服しようとするきみを、笑うひとはうちに来ないよ」
打ちひしがれうつむいていた私は、店長の言葉に顔を上げた。顔を上げても、明かりがほとんどない倉庫では顔が見えない。それでも、店長が微笑んでいるのはわかった。
「うちの客相手に練習してごらん。顔を見なくていいから、昼間に人と話すよりは緊張しないはずだから」
客相手に練習していいだなんて、そんなこと言える経営者がどれほどいるだろう。粗相のないようにと脅す人が多い中、こんな優しい言葉を書けてくれる人がいるのかと驚いた。 あのときの嬉しさは、店長が言ってくれた言葉とともに、大事に胸の奥へ仕舞っている。 こんな優しい言葉、ほかの誰もかけてくれなかった。だから、私は店長が人でなくても構わない。 店長も、きっと人じゃない。店が暗い理由を聞いたときの様子を思い出す限り、それは間違いない。
「何でこの店はこんなに暗いんですか?」
私の質問に、店長は微かに緊張した。時給やシフト調整のことは詰まることなく話せてたのに、この質問へは返事に数秒かかった。けれどその返事も、答える声も、どちらも優しかった。
「自分の手元すらおぼろげな場所でないと生きられないひとがいるからさ」
店長は、人じゃない。だけどそんなの、些細な問題だ。 ここはいい店だ。客は変に絡んでこないし、店長は穏やかで優しい。明日の来ない夜のような優しい時間を過ごせる場所だ。この優しさに包まれていられるなら、私まで人じゃなくなったって構わない。この時間がいつまでも続けばいい。せめて私が、卒業するまで。 そう思っていたのに、幸せな時間はあっさりと消え去った。 ある日のことだった。ドアベルががらんと音を立てて、ドアが大きく開け放たれた。
「あれえ、何で営業中なんだ?」
男の声だ。よく響く声だった。店長とは真逆の、明るい声だった。店長からグラスを受け取った私は、男の声が響いた瞬間、店長が諦めたように呟くのを聞いた。
「ああ、もう帰ってきたのか」
ぱちん、と電気をつける音がした。途端に、掃除機で吸い込まれるような勢いで、店長は男の方へ引っ張られた。 店内に明かりがつく。瞬きの間に、店の客たちは一斉に姿を消した。店に残った微かな影へ、我先にと飛び込んでいった。 残ったのは私と、明かりをつけた男だけ。
「ええと……今、結構な人数のお客さんがいたと思ったんだけど」
幽霊でも見たような顔で、声で、男は言った。 私は黙っていた。 返事ができなかった。理解してしまったからだ。
「店長は、影だったんですね」 「え、ええ? 俺ぇ?」
私が慕った店長は、この男の影だった。この男が、このバーの店長だった。 本物が現れれば、影は影に戻るしかない。
「私もう、店長に会えないんですね」 「いや、そもそも、俺はきみを雇った覚えはないんだけど……え、泣いてる? きみ、泣いてる? ちょ、ちょっと! 困ったなぁ」
再会の叶わぬ別離を体験し、私はほろりと涙を流した。