夏は犬雨、冬は猫雪。季語に制定されるほど有名な自然現象だけど、実際に犬雨や猫雪が降るのは季節に一回程度。その貴重な一回が、夏休み中盤の今日、降るらしい。 その日、仔犬のピカタが朝からそわそわしていた。 ピカタは毛足の短い雄の小型犬だ。小学三年の夏、つまり去年、近場の自然公園で発生した犬雨で出会った。毛並みが鶏肉料理のピカタを連想させるから、ピカタと名付けた。一緒にいた父さんは、微妙な顔をしていた。 そんなわけで、僕とピカタの付き合いはまだ短い。だから僕にはピカタがそわそわする理由がわからなかった。散歩し足りなかったのかなとのんきに構えて、ソファに座って本を読んでいた。 けれどリードを持ってきたピカタの台詞で、ようやくわかった。
「今日は犬雨です。ソータ君、見に行きましょう!」
ちょうど読んでいた本に、犬雨出身の犬は犬雨を正確に予想するとあった。なるほどと理解した僕は、「いいよ」とソファから立ち上がった。
「どこに行く?」 「ソータ君と出会った場所です!」 「公園だね、わかった。財布とか持ってくる」
犬は好きだ。犬雨を見に行くと聞いたら、ピカタと出会う前の僕は大はしゃぎで用意しただろう。だけど今の僕はピカタと出会った。もう犬雨にそれほど魅力を感じない。 でも、ピカタが喜ぶなら炎天下の中を何キロだって歩いてみせる。財布のほかに帽子と水筒を用意して、僕はピカタと外へ出た。
「不思議だよね、犬雨って」
靴を履いて歩きにくそうなピカタに話しかける。素足で歩かせてあげたいけれど、下は灼熱の日差しで熱したアスファルトだ。ピカタに火傷させるわけにはいかない。 ピカタは僕を見上げ「そうですか?」と首を傾げた。
「何も不思議じゃないです。お空にいるたくさんの犬が降ってくるだけです!」 「それが不思議なんだよ。空って、何もないじゃん」 「あります! お空には犬も猫もたくさんいます。お世話してくれる人もいますよ!」 「ふーん」
犬雨や猫雪がどういった原理で降るのか、未だ誰も解明できていない。犬や猫を降らせる雲がいつどうやって発生するか、発生の瞬間も観測できていない。 わかっているのは、雲の上にいる〝何か〟が降らせているという点だけ。雲の上にいる何かは、じょうろのようなもので犬や猫を地上へ注いでいるらしい。 これは全部、ピカタから聞いたこと。
「楽しみですねぇ、ソータ君。早く犬雨見たいですね!」 「そうだね。あ、ピカタ。ここからバスに乗るよ」 「はい! バス好きです! いっぱい人がいます!」 「そうだね。静かにしてようね」 「はい!」
犬雨と猫雪のお陰で、犬や猫と生活を共にする人が増えた。言葉を理解する犬猫に限りキャリーケースなしで交通機関を使えるのは、僕みたいな子供にはありがたい。きっと大人でも、キャリーケースを持ち運ばなくて楽になったと喜んでる人は多いはずだ。 バスを乗り継いで、公園前で下車する。自然公園というだけあって、木々が生い茂っている。木陰を歩くと、家を出たときの日差しが嘘のように涼しかった。 空を見上げ、雲を見る。ピカタが興奮し、ぴょんぴょんと跳ねた。
「もうすぐです、もう降ってきます! 急ぎましょう、ソータ君!」 「そうだね。どっちに行けばいい?」 「こっちです!」
普段はお利口なピカタが、リードを引っ張り僕より先を行く。珍しい姿に頬を緩めながら、僕はピカタの後ろを走った。 公園の高台は四季折々の花が見られるよう手入れされていて、お弁当を広げる家族も多い。ドッグランも併設されているのは、この一帯で一番犬雨の降る確率が高いからだ。 ピカタを追いかけ高台に登ると、もうすでに犬雨が降っていた。雨雲とは違う、金色の雲からふよふよと犬が降ってくる。ピカタは雲を見上げ、仔犬らしくきゃんきゃん鳴いた。僕も雲を見上げ、雲の向こうにいる何かを探す。だけど、見つからなかった。
「日向ぼっこしたピカタみたいなにおいがするね」
降ってきた犬たちは、どの仔もみんな日向の匂いがした。ピカタはちぎれそうな勢いで尻尾を振りながら、「はい!」と嬉しそうに笑った。
「雲の上はいつでもお天気ですからねえ!」
ピカタはいつもこうやって、嬉しそうに、誇らしそうに、犬雨について語る。内心、僕はいつももやもやしていた。顔に出すとピカタが不安そうになるから、なるべく出さないようにしてるけど。 だって、そうじゃないか。ピカタの言い方は、表情は、まるで僕らと過ごす地上より、雲の上のほうがいいみたいだ。 高台には、犬雨を観察しに来た子供が何人もいた。その中には同級生もいて、同じクラスの子もいた。僕に気づいた一人が「ソータ!」と声を上げた。
「ソータも自由研究、犬雨にしてんの?」 「ううん。ピカタが見たがるから」 「はじめまして、ピカタです!」 「おぉ、はじめまして。ピカタ元気だな」 「はい、元気いっぱいです! 毎日ソータ君とお散歩してますから!」 「わはは、めちゃくちゃ懐かれてんなー」
そうだ、僕が一番ピカタに懐かれてるんだ。胸を張ってそう言いたくなるのを我慢する。父さんや母さんにいつも言われてるんだ、僕はピカタに《《こだわりすぎ》》だって。そんなことないって言い返しても、二人は首を振る。 そんなことないのに。ただ僕は、ピカタの一番でありたいだけだ。ピカタは僕の、一番だから。
「あ、やべっ。犬雨止みそう。ごめんソータ、写真撮ってくる!」 「うん、頑張って」
自由研究。僕は違う課題を選んだけど、犬雨と猫雪は人気が高い。当たり前だよね、大好きな犬や猫と好きなだけ触れ合って、観察して、それで宿題が一つ終わるんだから。 さらに写真を添えれば、評価も上がる。写真を撮りたがるのは子供だけじゃない。大人も歴史的瞬間を狙って、ここみたいなスポットに泊まり込んでいる。だけど今のところ、泊まり込んでも、犬雨出身の犬に教えられても、犬雨を降らせる雲が発生する瞬間を捉えた人はいない。 自由研究に猫雪を選ぶ子は、夏に向けて冬のうちに準備をしている。猫雪の観察は犬雨よりもさらに難しいからだ。だって猫は、寒いのが嫌いだ。こっちが頼み込んだって、外に出るのが厭だから、猫雪が発生する場所も日も教えてくれない。 僕は犬派で、ピカタがいるから犬雨も猫雪も興味がない。クラスに一人、僕と同じような子がいる。名前はハヤト君だったか。ハヤト君は、僕とは少し違う理由で犬雨に興味を持たない子だった。
「知ってるからさ」
犬雨も猫雪も興味を持たないハヤト君に、誰かがしつこく聞いたときの答えだ。切れ長の目で僕らを見ながら、ハヤト君は冷たくこう言った。
「降ってきた犬も猫も、寿命で死なない。その代わり、星になるんだ」
これは比喩なんかじゃない。犬雨の犬も、猫雪の猫も、天寿を持たない。彼らはあるとき、何の前触れもなくふわりと浮いて、星となって空に還る。 目つきの悪いハヤト君は、吐き捨てるように言った。
「骨も残してもらえないんだ。僕は絶対、犬雨の犬も猫雪の猫も飼わない」
ハヤト君は僕を見ようとしなかった。僕の家に犬雨で出会ったピカタがいることを知っているからだ。僕もハヤト君をあまり見ないようにしていた。 ハヤト君は小さい頃、犬雨で降ってきた犬を飼っていた。入学式の日、ハヤト君ちの犬は、緊張した面持ちで帰ってきたハヤト君を見ると、満足げに微笑んで宙に浮いた。追い縋る彼を置いて宙に浮かび、ちかっと瞬いたかと思うと、星になって消えたそうだ。 涙を滲ませるハヤト君を、その場にいる誰もからかったりしなかった。からかうなんて、できなかった。同じ悲しみを味わう予定があるのに、からかえるわけない。 犬雨を見てひとしきりはしゃいだピカタに「楽しかったです!」と言われ、微笑んだ夏の日。僕はハヤト君のことを思い出しながら、どうしたらピカタと一緒にいられるかを考えていた。 そんな方法、あるはずもないのに。 別れは突然で、前触れなんかない。ピカタが浮いたのは、その秋のことだった。夕飯を終えて、夜の散歩に出たときだった。赤いリードが宙に浮く。僕は必死にリードを手繰り寄せ、ピカタをこっちへ戻そうとした。
「待って、行かないで、ピカタ」 「ごめんなさい、待てないです」
ピカタはにこっと笑った。いつも僕を見る、あの太陽みたいなあったかい笑みだ。
「お空に行く時間なんです!」
浮いたままちかっと光ったピカタは、そのまま夜空を彩る星になった。僕は空を見上げたまま、くたりと落ちたリードをほったらかして、止まることのない涙を流していた。
それから僕は、ひたすらに待った。夏になったら自然公園に行って、あの高台で犬雨を待った。 中学生になっても、高校生になっても、大学生になっても、高台に通った。だけどピカタは降ってこなかった。 大学を出て働き始めても、僕は高台に通った。犬雨が降るたびピカタが降ってこないかと、期待して空を見上げた。 社会人になって、何度目の夏だっただろう。犬雨を降らせる雲の下、僕は腕を広げた。見慣れた黄色がかった毛並みを、僕はこの腕で受け止めた。 僕の腕の中で、仔犬が「おや?」と目を瞬かせた。僕を見上げ、嬉しそうに笑った。
「あなたのにおい、何だか知ってます!」 「そうだろうね。僕も、きみの顔をよく知ってるよ」
自然と口が微笑んでいた。目からは涙が落ちていた。
「おかえり、ピカタ」
抱きしめたピカタは、日向の匂いがした。