いつの時代の、どこの国か。まだ魔法も不思議も当たり前にあった頃の話。 その村には、雪のように白い肌と、腰まで届く艶やかな黒髪を持つ少女がいた。名前はペトラとしよう。少女の隣にはいつも幼馴染みの少年がいた。名前はテオとしよう。 テオは朝早く森へ行き、そこで摘んだ季節の花でペトラの髪を飾る。それは愛の言葉の代わりであり、二人の愛の時間であった。 幼い頃から仲が良く、二人は将来を誓い合っていた。
「大きくなったら夫婦になろうね、ペトラ」 「うんっ。わたし大人になったら、テオのお嫁さんになる!」
そんな約束を交わした日、テオはペトラの髪に花を挿した。その日からずっと、ペトラは髪を伸ばしている。テオに髪を飾ってもらうため、約束を忘れていないと示すため。ペトラにとって長く美しい髪は、テオとの約束を表すものだった。 二人の日々は幸せだった。小さな村で決して裕福な生活ではなかったが、それでも明るい未来が待つと信じて疑わなかった。 幸福に満ちた日々が壊れたのは、ある冬のことだった。 冬の寒さ厳しいある日。二人は揃って薪拾いに森に入った。雪深い森の中、吐く息は白く寒さは指をかじかませたが、それでも二人の心はあたたかかった。 薪に適した枝を拾い、時に枯れた木から拝借した。かごいっぱいに薪を拾った頃だろうか。ペトラが視界の端に赤を捉えた。まるで血のような鮮やかな赤だった。 振り向けば、雪の中に真っ赤な薔薇が咲いていた。
「あれ? ねぇ見て、テオ。冬なのに真っ赤な薔薇!」
ペトラは生命を表す色に惹かれ、花に近づいた。用心深いテオはすぐには近づかず、冬に咲く異様な薔薇について思考を巡らせる。そして気づいた。
「冬なのに真っ赤……? 待ってペトラ! それは〝凍てつく花〟だ!」
〝凍てつく花〟――吐息に触れた者を凍らせ命を奪う、冬の女王の落とし花だ。 テオは叫ぶと同時にペトラに駆け寄り、彼女を突き飛ばした。そのときだった。真っ赤な薔薇――〝凍てつく花〟から冷気が吹き出したのは。これこそが、〝凍てつく花〟の吐息だった。テオは〝凍てつく花〟の吐息を浴び、その心臓を凍らせてしまった。〝凍てつく花〟は満足したのか、開いていた花を閉じ蕾に戻る。残されたのは、雪の上に倒れるテオと、呆然と尻餅をつくペトラだけだ。
「て、テオ……?」
返事はない。ペトラは立ち上がろうとしたが、膝が笑って立ち上がれない。何とか這いながらテオに近寄る。テオの顔からは急速に血の気が失われていく。ペトラはテオの体を何度も揺すった。
「テオ、テオ、ねえ起きて。テオ、テオぉ……!」
泣いて名前を呼んでもテオは起きない。ペトラは力の抜けた体に鞭打ち、テオの体を抱えた。
「も、戻らなきゃ……」
村へ戻れば、大人たちが知恵を貸してくれるはず。そうすればテオも、起きてくれるはず。それだけを希望に、ペトラは何度もテオの体を落としそうになりながら、村へ帰った。 しかし、大人たちはペトラに貸す知恵を持ち得ていなかった。
「〝凍てつく花〟の吐息を浴びた? そりゃあ、もうだめだろう……気の毒だけど」 「〝凍てつく花〟で心臓が凍っちまうんだ、そいつを溶かす方法はないよ」 「暖炉の前で暖めたって、生き返った奴はいないって聞くぜ」
今やテオの体は氷像のように冷たい。暖炉の前であたためたって、肌をこすったって、テオの体にぬくもりは戻らない。 何もできることはないと言われ、ペトラは今度こそ泣き崩れた。 テオの両親も、ペトラの両親も、最初こそペトラを慰めた。しかしペトラが泣き止まないため、そっとしておくことにしたらしい。ペトラは一人、家の暖炉の前でテオの亡骸を前にいつまでも泣き続けた。 その姿を見かねてやってきたのは、村に一人で住まう老婆だった。彼女はとても物知りで、ペトラとテオは老婆を実の祖母のように慕っていた。 老婆が言う。
「西へ西へと進めば、茨の海と呼ばれる場所がある。そこを越えれば、死者の国にたどり着く」
ペトラは顔を上げた。涙で濡れる顔を見ながら、老婆はゆっくりと続けた。
「茨の海は、後悔と苦痛の茨がみっしりと絡み合う、亡者たちの牢獄……。進めば進むほど、無数の棘がその身を苛む、まさに地獄と呼ぶべきところ。テオはまだ死んだばかり。今すぐ追えば、死者の国の手前で魂を引き留められるかもしれない。でも……」
老婆はそこで言葉を句切り、光の宿りつつあるペトラの目を見据えた。
「茨の海を越えた者の話は、聞いたことがないがね……」
ペトラは涙を拭い、立ち上がった。
「行く。私、テオを呼び戻しに行ってくる!」
テオは自分を救うため、心臓を凍らされた。そのテオを救うためならば、我が身が茨の棘に苛まれるくらいどうってことない――。ペトラは本気でそう思っていた。それがどれほどの苦痛かも知らず。 暖炉に火をくべ、動かぬ体に毛布をかけ、ペトラは家を出た。外では風が吹き荒び、雪が舞い上がる。それでもペトラは怯まず歩き出した。すべてはテオを呼び戻すため。愛しい人の魂を、今一度生者の国へ蘇らせるため。 西へ西へと、ペトラは進んだ。 途中に困難がなかったわけではない。 いたずら好きの妖精にからかわれた。 ペトラの若さに嫉妬した魔女に騙されそうになった。 冬の女王にテオを諦めるよう諭された。 けれどどれも、ペトラの足を止める理由にはならなかった。 ペトラは西の果てにたどり着いた。そこでは確かに、茨が海のように広がっていた。
「待っててね、テオ」
ペトラは躊躇なく、茨の海に足を踏み入れた。 靴はすでにぼろぼろだ。棘は容赦なくペトラの肌を傷つける。
「こんな痛み、テオの痛みに比べれば」
ペトラは歩いた。歩き続けた。血が流れようと、痛みに涙が滲もうと、足を止めなかった。 亡者たちが、生けるペトラを羨みその髪を掴んで引き留める。
「置いていけ、置いていけ」 「その美しさに満ちた髪を置いていけ」 「懐かしや、ああ懐かしやこの絹の如き手触り」 「邪魔をしないで!」
持っていたナイフで、ペトラは腰まであった髪を背中まで切り落とした。亡者たちは生命力溢れるその髪に群がる。 ペトラはまた進んだ。 亡者たちは再び彼女の髪を掴み、その足を止めさせた。
「連れていけ、連れていけ」 「俺たちも連れていけ」 「もう茨は懲り懲りだ、死ぬのを受け入れるから死者の国へ入れてくれ」 「邪魔をしないで!」
ペトラは再び髪を切り落とした。背中まであった髪は、肩までの短さになった。亡者たちは掴むものを失い、再び茨の海に沈んでいく。 ペトラは再び歩き出した。 しばらく歩いて、亡者たちが再び彼女の邪魔をする。
「憎らしい、憎らしい」 「生きてるお前が憎らしい」 「生きてるのになぜ死者の国へ行く」
ペトラの髪を掴み、彼らはペトラを茨の海へ引きずり込もうとする。ペトラはナイフを取り出し、肩まであった髪を耳の下まで切り落とした。
「邪魔を、しないで!」
亡者たちはもう、ペトラの歩みを邪魔できなかった。 あれほど美しかった髪は見る影もなく、今やうなじが見えるほど短くなってしまった。ペトラはもはや美しい少女ではない。茨の海に苛まれてなお愛しい人を求める、巡礼者だ。 死者の国の入り口はもう目の前となった、そのときだ。ペトラは見た。あたたかな光を。テオの瞳と同じ色をした光の球を。
「テオ」
呼びかけると、光の球はふるりと震え、テオの姿になった。多少の青白さはあるが、確かにテオだ。ペトラは足の痛みも忘れテオに駆け寄った。「テオ!」と弾んだ声で呼びかけるが、返ってきたのは沈んだ声だった。
「俺なんかのために、こんなに傷ついて……」
テオの手が、ペトラの髪に伸びる。
「きれいだったのに、俺のせいでこんなに短くなった」 「髪くらい、伸ばせばいいの」
テオの手に頬を寄せながら、ペトラは首を振った。
「これはテオのせいじゃない。それを言うなら、テオがこんなことになったのは私のせい。だから迎えに来たの。帰ろう、テオ。今ならまだ間に合うよ。まだ死者の国に入ってないんだもの」
テオは悲しそうに首を振る。
「だめだ。もう遅いんだ。俺の魂は冷え切ってる。もう生きてる者のあたたかさを持ってな」 「帰れるよ」
ペトラはテオを抱きしめた。その体は確かにひやりとしたけれど、そんなこと、ペトラには何の障害にもならない。
「冷たいなら、私が一生かけてあたためてあげる」
ごぉん、と鐘をつくような音がした。テオとペトラが顔を上げると、そこは死者の国のさみしい入り口ではなく、厳かな空気の謁見の間となっていた。ろうそくの火が明かりを放っているというのに、薄暗い。そして息が白くなるほど寒い。
「その者の魂を生者の国へ持ち帰ると言うのか、生ける娘よ」
静かな声が、地鳴りのように低く響いた。しかし声の主の姿は見えない。いや、巨大すぎてわからなかっただけだ。王座の間は山のように大きく、そこに腰掛ける死者の国の王はそれよりも巨大だった。 ペトラは臆さず、声の方向へ顔を向ける。
「連れて帰ります。だってまだ、テオは死者の国に入ってなかったもの」 「ためらっていただけだ。その者はすでに死んでいる」 「連れて帰ります。私はそのために、茨の海を越えてきました」
ふむ、と王は考える。その仕草は遙か上空にあり二人には見えなかったが、感じることはできた。 テオが言う。
「俺は……死んでしまったけれど、魂も凍てついてしまったけれど、許されるなら帰りたい。ペトラがこんなに傷ついてまで迎えに来てくれたから、それに報いてあげたい」
二人の愛に感じ入ったのか、それとも気まぐれか。王は「よかろう」と低い声で了承した。「ただし」と、条件をつけて。
「その魂を連れて行くがよい。ただし、茨の海を抜けきるまで、決して後ろを振り返ってはならぬ。一度でも振り返れば、その魂は千の棘となって砕け散り、永遠にこの海の一部となるであろう」 「そんなことさせない」
ペトラは力強く首を振る。
「絶対に振り返らない。私はテオを、村へ連れ帰るの」
ごぉん、と鐘をつくような低い音。それが響くと同時に周囲は蜃気楼のように揺れ、二人は死者の国の入り口に立っていた。テオの姿は、光の球に戻っている。
「帰ろう、テオ」
テオはふるりと震え、ペトラに寄り添うようにその肩に乗った。 ペトラは再び、傷だらけの足を茨の海へ踏み出した。 茨の海を歩くペトラに、亡者たちが再び妨害を仕掛ける。 テオの声を真似て、ペトラを振り向かせようとする。
「ねえ、こっちを見て。寒いんだ。あたためてよ」
老婆の声を真似て、ペトラを振り向かせようとする。
「本当に、彼はそこにいるのかい?」
王の声を真似て、ペトラを振り向かせようとする。
「死者を生き返らせるなぞ、罷り成らん。その魂は死者の国へ連れ戻す」
それでも振り向かないペトラを、亡者たちは髪を掴んで振り向かせようとした。けれどペトラの髪はもはやうなじが見えるほど短くなっている。亡者たちの手は空を切るばかりで、ペトラに届かない。 足を掴もうとも、振り払われるだけ。茨の棘に苛まれる彼らに、それ以上ペトラを邪魔する力はない。 ペトラは一度も振り向かず、歯を食いしばり、茨の海を歩き続けた。 やがて、茨の海に終わりが見えた。ペトラは倒れそうになる自分を叱咤し、生者の国の大地を踏んだ。肩からテオの魂が下りてきて、気遣わしげにペトラの手に寄り添う。ペトラはその魂を抱きしめ、再び――今度は冬の大地を歩き始めた。 一刻も早く、テオの魂を体へ戻さなくてはならない。ペトラは故郷の村へ急いだ。これ以上ないほどにぼろぼろになった足を引きずるようにして、道を急いだ。 途中に妨害がなかったわけではない。 魂に惹かれ、死神がやってきた。 血のにおいに惹かれ、熊がやってきた。 死者が蘇ることを防ぐため、天使がやってきた。 しかしそのどれも、ペトラの足を止めるに足る理由にはならなかった。ペトラは足を止めなかった。テオの魂の輝きを抱きしめ、ペトラは村へ歩いた。 足がもうだめになるという寸前、ペトラは村へ帰り着いた。村の者たちが驚き、とにかく休めとペトラを労る。けれどペトラは首を振り、自分の家に安置していたテオの体の元へ急いだ。早く、魂を戻さなくては。 家ではペトラに気を遣ってか、まだテオの体が安置されていた。暖炉の前で、あたたかな毛布をかけられて。
「テオ、戻れる?」
抱きしめていた魂を、そっとテオの体に重ねる。すると魂は体に吸い込まれ、青ざめていた体にほんのわずかに血の気が差した。 ペトラは待った。テオの手を握り、その手が握り替えされるのを待った。 やがて、固く閉ざされていたテオの瞼が微かに震え、その瞳が再びペトラの姿を映した。まだ冷たい手が、ペトラの手を握り返す。
「ペトラ……ありがとう」
テオの唇が、愛おしげにペトラの名を紡ぐ。ペトラの目から、大粒の涙が溢れた。ペトラは何も言えず、覆い被さるようにしてテオを抱きしめた。テオもまだうまく動かない腕で、ペトラを抱きしめ返す。家の外では、二人の様子を窺っていた村人たちが涙をこらえて見守っていた。
***
テオは生き返った。しかし、死者の国の冷気は彼の魂に深く刻まれ、その体をも冷気に包んだ。彼は、永遠に癒えない寒さから逃れられなくなった。 触れればひやりと冷たい。けれどペトラはそんな彼の手をぎゅっと握り、ためらいもなく彼の腕に自分の腕を絡ませる。
「寒いなら、私がずっとそばにいてあげるからね」
そう言って、自らの体温を彼に分かつ。ペトラがそうして彼にくっついている間だけは、癒えないはずの寒さが消えた。いや、それだけではない。胸の奥から燃えるような、魂ごとあたためられるような、そんな熱が彼の体を包み込んだ。
「そうだね。ペトラがこうしてくれるから、寒くない。こうしてくっついていられるんだから、死んだのも悪くなかったかな」 「もう、テオったら!」
テオはこれから、ペトラの愛と体温で生きていく。それは不都合もあるだろうが、愛と希望に満ちた二人にとっては、これ以上ない幸せなことだった。