某県某市の、アメフラシ町での話。 アメフラシ町は、梅雨入りすると毎日雨が降る町として有名だった。ある年のある日。そのアメフラシ町で小さな女の子が一人、母お手製の雨合羽を着て散歩していた。 女の子はリエという名前で、彼女が着る雨合羽は河童を模した雨合羽だった。フードの部分にきちんと皿が載っていて、リエのお気に入りポイントの一つだった。背中には甲羅もついている。着込むだけで河童になれる雨合羽は、リエのお気に入りだった。 お気に入りの雨合羽だからこそ、リエは雨降りの日は、雨合羽を着込んだ上で傘を差した。
「濡れてもいいから雨合羽なのに、傘差しちゃ意味ないでしょ」
と、母が苦笑しても、リエは頑として傘を手放さなかった。だからこの日も、リエは真っ赤な傘を差して在所の中を歩いていた。 アメフラシ町は小さな町で、子供の足でも時間をかけずに一周できる。だからリエの親も、まだ幼稚園にも通っていないリエが一人で散歩に出るのを許していた。 雨粒が傘を叩く音を聞きながら、リエはアメフラシ町をてくてくと歩いた。小さなアメフラシ町唯一の酒屋の前を通りがかったとき、リエは軒先で雨宿りする人に気がついた。 ずぶ濡れの青年が、店にも入らず軒先に佇んでいる。 近づくにつれ、青年の様子がよく見えてきた。 青年の青みがかった黒い髪は、水を吸って頬に貼り付いていた。髪が貼り付いた頬は、血管が透けて見えるほど青白い。着ている薄いシャツも体にぴたりと貼りついて、見るからに寒そうだ。しかし青年は震えることもなく、自分の体を抱くようにうつむいていた。 リエは青年の向こう、酒屋の中へ目をやった。店の中に人影は見えるが、誰も青年に気づいていないのか、声をかける様子もない。リエは傘の柄を強く握ると、青年に近づき、真っ赤な傘を青年に差し出した。
「かしたげるぅ」
うつむいていた青年は、驚いた顔でリエを見た。近寄ると、青年の顔をよく見ることができた。大人であれば、青年の見開いた目が、金色であることに驚くだろう。眩しそうに細められた目が、蛇のように縦長な瞳孔を持つことに驚いただろう。しかしリエは、何か言いたげにリエの顔と差し出された傘とを見比べる目に対し、驚きも違和感も持たなかった。 困惑した顔で傘を受け取ろうとしない青年に、リエは「へーき」と言って自慢の雨合羽を見せつけた。傘を貸すというのはほとんど口実で、リエは知らない誰かにこの雨合羽を見せびらかしたいだけだった。雨が降るたび散歩しているお陰で、今やアメフラシ町でリエの雨合羽を知らぬ者はいない。今や物珍しげにこの雨合羽を見てくれる者はいない。リエはそれが物足りなくて、この見知らぬ青年に近づいたのだった。 河童を模した雨合羽を見せ、リエは「うふふ」と笑った。その得意げな笑顔を見て、青年も静かに微笑んだ。雫を垂らすほど濡れた手が、リエが差し出した傘に伸びる。青年は微笑みと同じくらい静かな声で「ありがとう」と呟き、傘の柄を握った。
「必ず、返しに行くよ」 「んー」
返事とも呼べない返事をすると、リエは青年に「ばいばい」と手を振った。青年も静かな笑みを浮かべたまま、小さく手を振る。雨合羽を濡らし、リエは散歩を再開した。青年から離れつつ、リエは何度か青年を振り返った。何度振り向いても、青年はリエを見つめ、控えめに手を振っていた。 散歩から帰ったリエは、見知らぬ青年に傘を貸したことを、誇らしげに母に聞かせた。母に褒められると思ったが、母はリエを褒めなかった。困ったように眉を下げ、リエと目線を合わせるためしゃがむと、雨合羽を脱がせながら言い聞かせる。
「知らない人に近づいてっちゃだめよ」 「どして?」 「世の中、いい人ばかりじゃないから」
母の理屈を、リエは理解できなかった。しかし、リエはあの青年を〝いい人〟だと認識していた。リエにとって、母お手製の雨合羽を見てくれた人は皆〝いい人〟だ。翌朝、家の前にそっと置かれていた赤い傘がその認識を確固たるものにした。 それからだ。 雨が降るたび、リエはあの青年を見かけるようになった。青年はいつも、リエの視界の端に立っている。傘も差さず、雨に濡れながらリエを見つめているのだ。 水を吸ってしっとりした黒髪が、首筋に貼り付いている。うつむき気味になって、濡れた黒い前髪が、目にかかっている。その前髪の向こうに、瞳孔が立てに細長い、金色の目が見える。 リエが幼稚園に入園しても、小学校に入学しても、高校を卒業しても、青年は青年のままだった。雨が降るたび青年はリエの視界の端に現れた。振り向いても、そこに青年の姿はない。しかし前を向けばまた、視界の端に現れる。視界の端でじっと、じぃっと、リエを見つめている。 普通ならば幽霊だ何だと騒ぎ立てるだろうが、不思議に思うことはあれど、リエは青年を怖いとは思わなかった。中学を卒業しても、高校を卒業してもまだ見かける青年のことを、リエは誰かに話すこともしなかった。成人した翌日、近所のおばさんに指摘されるまで。
「見えるんじゃろぉ、リエちゃん」
声をかけられたのは、バイトのない休日、課題の資料集めに図書館へ行った帰りだった。門扉にかけた手を下ろしたリエが、ずっしりと重いトートバッグを肩に掛け直しながら振り向く。立っていたのは、垂れ目が特徴な狸顔の中年女性だ。中年女性はもう一度「見えるじゃろ」と、間延びした声で、どこかの訛りの混ざった口調で、確信を持って尋ねた。 リエはこの中年女性の名前を知らなかった。アメフラシ町のどこかに住む〝近所のおばさん〟とだけ認識している。それだけ覚えていれば、狭いアメフラシ町では十分だった。狸顔のおばさんは、ぽっこりと丸いお腹を揺すりながら笑う。
「蛇は執念深いでなぁ。見初められたかねぇ」
蛇と聞いて、リエは雨の日の青年と初めて出会った日を思い出した。青年の目が金色だったこと。縦に長い瞳孔だったこと。それらを思い出し、妙に納得した。中年女性も、リエの表情から察して「ほぅらやっぱり」と笑った。
「まぁ、でも、男ができりゃあ諦めるじゃろうて」 「そうですか」
リエの気のない返事に、中年女性は垂れた目をきらりと光らせた。
「あんた、男はおるかいね」
〝男〟という耳慣れない直接的表現にたじろぎつつ、リエは首を振った。中年女性は「そらちょうどいい」と破顔した。何がちょうどいいのか。リエが疑問を感じる前に、中年女性が動き出した。 それからあれよあれよという間に話が進み、中年女性の親類だという青年とお見合いのような場を設けられた。リエは両親に連れられ、青年は中年女性に連れられ、アメフラシ町公会堂に集った。
「|狸森《むじなもり》マミヤです」
座敷に座るなりそう名乗った親類の青年こと狸森マミヤは、あの中年女性の子供と言われてもうなずけるほどよく似ていた。背が高くがっしりした体つきは気圧されそうだが、人の良さそうな丸顔が雰囲気を和らげる。縁の太い眼鏡と、笑うと垂れる目が人なつっこさを感じさせた。 狸顔だなと思いつつ、リエもマミヤに倣って名乗った。マミヤはにこにこしながらリエの自己紹介を聞き、リエの緊張を解すように世間話を振った。マミヤの優しさを感じ、いい人そうで良かったと、リエは肩から力を抜いた。意識せず、緊張していたようだ。安堵しながら、リエは自分がマミヤと付き合うことを思い描いていることに気づいた。 その日、リエは初めて恋人ができた。マミヤも同様だった。 そしてその日から、雨の日の青年は晴れであろうが曇りであろうが関係なく、リエの視界に姿を現すようになった。 昼日中を歩いていても、ずぶ濡れの青年が視界の端に映る。黄昏時を歩いていても、雨に濡れた青年がじっとりと見つめている。濡れた前髪の間から、金色の目が、非難を浮かべてリエを見つめる。その距離は、段々近づいているようだった。 夜には、家の外で何かが這い回る音が聞こえるようになった。二階にある自室の窓の向こうで、「どうして」と囁く声が聞こえるようになった。この声も、青年の姿と同様、段々と窓のそばまで近づいているようだった。 いくら鈍いリエでも、この明らかな怪現象には悩まされた。何せ父母にもこの物音や声が聞こえているのだ。自分の気のせいでは済まされない。 リエは夜もろくに眠れず、昼間外を歩くときもびくつくようになった。寝不足で隈の浮かぶ顔でデートにやってきたリエを見て、マミヤは人の良さそうな狸顔を気遣わしげに歪めた。
「大丈夫?」 「大丈夫では、ないかも」
素直な返答に苦笑し、マミヤはなおも原因を尋ねた。そう尋ねるマミヤの遙か後方に、リエを見つめる青年の姿があった。雲一つない青空が広がっているのに、やはりずぶ濡れだ。リエはそちらを見ないようにしつつ、幼い頃からの怪奇現象を、マミヤに打ち明けた。信じてもらえるとは思っていなかったが、意外にも、マミヤはリエが言うことを信じた。
「それは怖いね。俺も眠れなくなる自信があるよ。なのに今晩、お父さん家にいないんだっけ?」
リエの父の出張は、急に決まったことだった。三日前から、リエの家はリエと母の二人きりだ。しかし、マミヤに話した覚えはない。またあの中年女性がどこかから聞いてマミヤに伝えたのだろうかと思いつつ、リエはうなずいた。マミヤは「そうかぁ」と悩むように腕を組んで考え込むと、狸顔を人懐っこく緩ませ、「俺が泊まろうか」と言い出した。
「もちろん、リエとリエんちのお母さんが嫌じゃなかったら」
数秒、リエは悩んだ。しかし怪奇現象が起こる家で女二人というのは不安だった。その場で携帯端末を取り出し母に電話すると、リエの母は一も二もなくうなずいた。
「不安だから、マミヤ君がいいならぜひ泊まって――だって」
通話を終えたリエがそう伝えると、マミヤは大きな手をリエの頭に置いた。
「じゃあリエんちに持ってくお土産とか見に行くついでに、デートしようか」
手から伝わるぬくもりに安心したのか、リエは強烈な眠気を感じたかと思うと、次の瞬間にはもう不安が消えていた。「人肌ってすごいね」と呟くリエに、マミヤは照れくさそうに笑いかけた。 デートという名目でお土産やお泊まりセットといった買い物を済ませ、二人は夕方頃、リエの家に戻った。待っていた母は大喜びでマミヤを迎え入れ、いつもより豪勢な夕飯を振る舞った。その後マミヤが通されたのは、庭に面した客間だ。押し入れから布団を出すのはマミヤが担当し、畳の上に敷くのはリエが担当した。久々に用意した来客用の寝具一式は、防虫剤特有のどこか懐かしい匂いがした。
「布団、もう一式あるね」 「親戚が来たとき用にね」 「そっか」 「……まあ、せっかくだし」
そう言ってリエはもう一揃い寝具を出すと、客間ではなく、襖一枚で隔てられた仏間に敷いた。マミヤは困り顔で何か言いたげに口をもごもごさせたが、結局、何も言わなかった。 夜も更け、二人はそれぞれの部屋の電気を消し、「おやすみ」と声を掛け合い布団に入った。しかし瞼が閉じることはなく、二人は襖越しに会話を続けた。
「ああ、リエって一人っ子なんだ?」 「そう。一人っ子で一人娘」 「結婚の挨拶は大変そうだ」 「マミヤは兄弟とかいたっけ」 「上に四人。全員男」 「へえ。全員マミヤみたいにごついの?」 「俺以外みんな格闘技やってるからね」 「マミヤはやってないんだ」 「俺は文系だから」 「ラグビーとか似合いそうなのに」 「俺お淑やかだから」 「何それ」
談笑しているうちに、睡魔がやってきた。重い瞼を懸命に持ち上げ話し続けようとするリエの様子に気づいているのか、マミヤは襖の向こうから、優しく声をかける。
「もう遅いよ。寝なよ、リエ」 「……うん」
記憶にもないような幼い頃、母の腕に抱かれ眠る安心感にも似た睡魔がリエを包む。リエは襖の向こうへ顔を向けたまま、溶けるように眠り込んだ。
優しいあたたかさと、柔らかさに包まれ眠る夢を見た。母の腕とも違う柔らかさはふわふわしていて、上等な毛皮はこんな感触かな、とリエは思った。 優しい声と撫でられる心地よさに安心する夢を見た。マミヤの声に似ているなと思いながら、リエはもっと撫でてほしいと思っていた。 心地よい夢からの目覚めは、朝日や鳥の声によるものではなかった。這いずる物音と、未練がましくリエの名を呼ぶ声で、リエは目を覚ました。
ずるずると這いずる音が近づいてくる。音が近づくにつれ、ゆっくり、ゆっくりと襖が開いていく。リエを呼ぶ声が、リエを求めて哀れっぽくなる。
「リエ、リエ」
這いずる音の合間に聞こえる声は、雨の日、傘を渡した青年の声だった。静かな声は怨みや未練に満ちていて、今や不快な声と変わり果てていた。
「あの日声をかけてくれたのは、お前じゃないか」
そう言って、ずりずりと、這いずり近づいてくる。
「傘を貸してくれたじゃないか」
さりさりと、壁を引っ掻くような音が聞こえてくる。
「おれを見つめてくれたじゃないか」
からからと、雨戸が開いていく音がする。
「おれに笑いかけてくれたじゃないか」
ぱん、と音を立てて襖が開き、庭に面した客間がよく見えるようになった。しかし客間の向こう――庭の様子は、リエから見えない。リエの視界を塞ぐように、外にいる何かからリエが見えなくなるように、布団から抜け出たマミヤが、縁側にどっかりと座り込んでいた。閉めていたはずの雨戸は、やはり開け放たれていた。マミヤの背中の向こう、ガラス戸の向こうには、長く大きな影があった。 影が「どうして」とリエに問う。
「どうしてなんだ」 「どうしてそんな奴をそばに置く」 「どうして――獣なんざそばに置く?」
長い胴体を引きずった蛇が、満月を背負って庭にいた。布団の中で、リエはひっと息を呑んだ。それが合図だったかのように、マミヤが立ち上がった。 風船のように、マミヤの体が膨らんでいく。それを見て、蛇がシャアッと声を上げ威嚇する。応じるようにカァッと吼えるのは、マミヤと同じ服を着た、しかしマミヤより二回りは大きい狸だ。 音もなく、ガラス戸が全開になる。同時に狸が飛び出していく。狸に蛇が飛びかかる。雌雄は一瞬で決した。満月に、血しぶきが影を作る。呆然として目が離せなくなっているリエの前で、四つん這いになった大狸は、がりごりと音を立てて蛇の息の根を止めた。 ようやく起き上がった狸の口には、普通の蛇と同じ大きさにまで縮んだあの蛇がくわえられていた。
「いくら長ぉ生きた|蛇《くちなわ》とて、|化け狸《わしら》にゃあ勝てまいて」
鋭い歯で蛇の体を貫き、口から蛇の血をぼたぼたと落としながら、大きな大きな化け狸は、耳まで裂けた口を歪ませ笑った。リエは、はあ、と気の抜けた息を吐く。蛇の次は狸か、と他人事のように感じながら、そういえばおばさん、やたらとお腹をぽんぽん叩く人だったなぁ――と考えていた。