男にはHeartがなかった

目次

男には記憶がなかった

 男には記憶がなかった。目を覚ました――あるいは自我を得た男の頭の中は、新雪のように真っ白だった。覚醒した男は川の中にいた。泳ぎ方を知らない男はたらふく水を飲み、流されていった。男を見つけたのは老人だった。流される男を見て、最初は敗残兵かと警戒した。しかし男があまりに無抵抗に流されるので心配になり、板きれを持って助けてしまった。それがすべての始まりだった。  老人は男を村に連れて帰った。川と森に挟まれた、小さな村だった。戦争に駆り出されたせいで、村には若い男がいなかった。老人たちはなけなしの食料や酒を振る舞い男を新たな労働力として歓迎したが、すぐに落胆した。男が口をきかず、物を知らず、白痴同然だったからだ。だが村の若い女たちは気にしなかった。男は美しかった。それだけで価値があると思わせるほど、男の見目は麗しかった。  巻き髪は|陽《ひ》の光を溶かし込んだように輝き、鼻筋は高く通り、青空を閉じ込めた瞳は憂うように伏せられ、肌は象牙で作られたと錯覚するほど滑らか、肉体は彫刻のように整っている。村の女たちは、たちまち男の虜となった。村の老人たちは男を追い出そうとしたが、女たちに押し切られ、村に住まわせることになった。老人たちは男が断るだろうと思ってぼろ屋を与えたが、男は拒まず、ぼろ屋に住み着いた。翌日から、村の女が代わる代わる男の世話をしにぼろ屋に通うようになった。  男は女たちに養われ、言葉を覚えた。〝常識〟と呼ばれる知識を得た。言葉を理解し、知識を有しても、男は女たちと言葉を交わそうとしなかった。村の老人たちとも関わろうとしなかった。男の胸は空っぽだった。物憂げに虚空を見つめ、男は毎日、つまらなさを抱えて過ごした。  その日も、いつものように男の世話をしに一人の女が来た。粗末な寝台に寝そべる男に果物を剥いてやりながら、女は言った。

「あなたには|心《ハート》がないのよ。だから口をきかず感謝の気持ちも見せてくれないんだわ」

 包丁を動かす手元を見ながらの、冗談めかした口調だった。男にとってその言葉がどれほど意味を持つか、女は知らなかったのだ。女の言葉は男の空っぽな胸に響いた。男は自身の抱えるつまらなさ、空虚さの原因は、心臓がないせいだと納得した。男は女に尋ねた。

「じゃあお前には、|心臓《ハート》があるってのか?」 「当たり前じゃない」

 それが女の発した最後の言葉だった。男は普段の無気力さから想像もつかないほど素早く、女の手から包丁を奪った。女が顔を上げる暇も与えず、男は女の胸に奪ったばかりの包丁を突き立てた。女は悲鳴も上げられなかった。心臓ではなく肺を貫通した包丁が引き抜かれる。あふれた血は喉までせり上げ、女は自らの血で溺れ死んだ。男は女が苦しむのを気にもとめず、無表情に包丁を振り上げ、女の胸を切り開いた。  心臓はまだ緩やかに脈を刻んでいた。男は女の心臓が動いているのを確かめると、己の胸も切り開いた。血と呼ぶにはあまりにどす黒い血が流れた。男は痛みに眉をひそめる素振りすら見せない。開かれた胸のあるべき位置に、脈打たない心臓が存在した。男は躊躇なく自分の心臓を包丁で切り取り、女の心臓と取り替えた。  男は女の言葉を信じ込んでいた。自分には心臓がない。胸にある心臓は本物ではない。そう思い込んでしまった。  取り出した女の心臓は動きを止めていたが、男は構わず心臓を胸に納めた。女の心臓ははじめから男の心臓であったかのように馴染んだが、再び脈打つことはなかった。男は己の心臓を探すため、包丁を携えたままぼろ屋を出た。  男は村にあるだけの心臓をすべて自分に宛がってみた。だがどれも脈打ちはしなかった。宛がう心臓がなくなった男は、最後に入った家を物色して荷造りをすると、心臓を探す旅に出た。長い長い旅の始まりだった。  旅の道中、男の美しさ、無防備さに惹かれ近寄る人間は少なくなかった。男は彼らから心臓を奪うごとに手慣れてゆき、学習した。  心臓を奪いたければ一対一の場合のみ行動に起こす。  甲冑をまとった相手は刃物ではなく鈍器を持つ。  二人以上で旅をしている人間は相手にしない。  動物の心臓は脈打つどころか馴染みもしない。  輝く平らな石は心臓を奪うため人間をおびき寄せるになる。  男は最初の村で手に入れた衣服が|襤褸《ぼろ》になるほど歩き続けた。手入れもされず振るわれた包丁は錆びて、すでに男の手にはない。村から持ってきた荷物も、旅の最中になくしてしまった。けれど男に馴染む心臓は見つからない。男は歩き続けた。  旅を続けるうちに、男は森の中に迷い込んだ。溺れかかった川のそばにあったような、深い森だった。真上にある太陽の光も、奥へ進めば進むほど弱くなり、今が昼なのか夕方なのか、時間の進みもわからないほどだった。男が通りかかっただけで、木々に止まる鳥たちは飛んでいく。顔を覗かせた鹿は|踵《きびす》を返して駆けだす。狼たちすら遠巻きに男の動向を探るのみ。野生生物たちに恐れられながら、男は生い茂る雑草を踏みしめ、当てもなく森の中をさまよい歩いた。  どれほど歩いたか、急に開けた場所に出た。そこには今にも崩れそうな古い建物があった。かつて教会と呼ばれた建物だが、男の頭に宗教という概念はなく、その古さも相まって、奇妙な建物にしか見えなかった。  その奇妙な建物から、弾けるような子供たちの笑い声が響いた。さらに若い娘の鈴を転がすような声、年老いた男の低く重い声が続く。男は耳を澄ませ、人数を確かめる。男は年老いた老人ただ一人、女は娘の声しか聞こえない。子供は少なくとも男が四人に女が二人。無意識に得物を求め、男は手を宙にさまよわせた。手が空を掻いたことで自分が身一つであることを思いだし、男は足りない頭で思案した。男が動きを止めている間に教会の中で子供たちが声をそろえて挨拶し、扉が開いた。先頭にいたのは娘だった。あの鈴を転がす声の持ち主だ。娘を見た瞬間、男は雷に打たれたような衝撃を覚えた。  娘は足下まで覆う長い服を着ていた。艶やかな黒髪を肩の上で揺らし、栗色の瞳を細め笑っている。娘の背後から子供たちがわらわらと出てきた。少年が四人、少女は三人だ。男にはどれも性別の区別すらつかなかった。男の目には娘しか見えていなかった。  立ちつくす男に気づき、少女たちが娘の後ろに隠れ、少年たちが娘たちを庇うように前へ出る。子供たちに前後を挟まれながら、娘は男に笑顔を向けた。

「どうかされましたか、旅人さん」

 男は声が出なかった。娘は首を傾げて男を見る。娘の背に隠れた少女が娘の服を掴んだ。年長らしきそばかすの少年が、男に向かって精一杯威嚇しながら問いかけた。

「お前、本当に旅人か?」 「あ?」

 男が声を発したことで、後ろにいた少女が教会の裏に走った。すぐに戻ってきたかと思うと、少女は手に斧を持っていた。少女から斧を受け取り、そばかすの少年は斧を構え男に向かって吠える。

「ぼろ切れなんか着て……おれたちに同情させて食いものを奪おうってつもりだな!?」

 男は横に首を振った。荷物を失ってから男は何も口にしなかったが、困ることはなかった。彼らが守ろうとする食料も、男には必要のないものだ。首を振る男を、そばかすの少年は信じなかった。だがそばかすの少年が次の言葉を発する前に、男はすっと腕を上げ、娘を指さした。

「なぁ、お前」

 やや困惑が混じったが、指でさされてもなお、娘は笑顔を絶やさない。「何でしょう」と問う娘に、男は質問を重ねた。

「お前、その変な建物に住んでんのか?」 「はい。住んでいます」 「そこ、おれも住めるか?」

 男の質問に少年たちは髪を逆立てんばかりに反対する。少女たちも加勢し、その騒がしさは教会の中にいた老人までも何事かと出てくるほどだ。だが男は騒ぐ子供たちに目もくれず、まっすぐ娘だけを見ていた。娘は少し考える|素振《そぶ》りを見せたが、老人を振り返り困ったように眉を下げ、また男を向き直った。

「見ての通り、ここは人手が足りません。あなたが働き手として加わってくださるなら、歓迎します」

 子供たちはまた口をそろえて反対したが、老人が一言賛成の意を示すと黙り込んだ。老人が握手のため男に手を差し出す。汚れたシャツから覗く腕は、枯れ枝のようだ。老人の手を握った男は、見た目と|違《たが》わない感触に驚いた。  無事に教会暮らしの仲間入りを果たした男は、老人に連れられ、教会の中と外を案内されることになった。斧を持ったそばかすの少年が男を見張るためと言って残るが、あとの子供たちは娘と一緒に森へ行くようだ。よく見れば、少女たちが篭を持っている。木の実や果実を探しに行くのだろう。「行ってきます」と言って、娘を先頭にぞろぞろと森に入っていった。老人は見送らず、教会に向かって歩いて行く。ぼうと娘の後ろ姿を見送る男の背を少年が強く押した。そばかすの散る鼻筋にしわが寄る。少年は青い目で男を睨んだ。

「早く行けよ。先生が案内するって言っただろ」

 少年の物言いは生意気だったが、男は気にせず、心底興味がないと言いたげな顔で、先生と呼ばれた老人の後をついて歩いた。

「ここはいつも人が足りてない。正直言って、あんたは怪しい。ニコラが警戒するのも仕方ない」

 振り向きもせず、老人がしわがれた声を発した。ニコラとは二人の後ろをついてくる少年のことだろう。老人は一つに縛った白髪をふわふわと揺らしながら、ゆったりと前を歩き、言葉を続ける。

「だが、俺たちには余裕がない。何せここには、老いぼれに娘っ子、それとちびたちしかいないからな。あんたみたいな怪しい奴の手も借りたいのさ」

 くっくと低い声で笑い、老人は教会の裏手に回った。  最初に案内された先は裏庭だ。小さな畑がある。そばにある切り株は子供が腰掛けにできそうだ。薪割りに使われているのだろう。切り口には振り下ろし損ねてできた溝がいくつもあった。老人は畑に植えている植物の説明を済ませると、次は井戸に案内した。井戸は教会からやや離れた場所にある。井戸の使い方なんて言わなくてもわかるだろう、と老人はさっさと踵を返した。外の説明はこれで終わりのようだ。表に回ると、黙って後ろを歩いていたニコラがサッと前に出て老人の代わりに扉を開けた。老人が中に入り、男も続く。ニコラは男をキツく睨んだが、男はまるで気にしなかった。  扉を開ければそこは礼拝堂だった。礼拝に来た信者が座る長椅子は二つずつぴったりと向かい合わせにされ、簡易な寝台となっている。老人は唇を歪め、また低く笑った。

「神父だか牧師だかが住む離れもあるんだがね。俺たちみたいな大所帯じゃあ住めたもんじゃない。あっちは食事の準備なんかに使って、こっちは寝起きに使ってんだ」

 ふと、老人は男を振り返りまじまじと見つめた。男も老人を見下ろす。老人は男の気怠げな目を見ながら、唇の端を持ち上げた。

「名乗ってなかったな。俺はクレマン。クレマンでも先生でも、好きなように呼んでくれ」

 男は黙ってうなずいた。「返事くらいしろよ」と扉を閉めて入ってきたニコラがまた男の背を突く。それでも男は口を開かない。クレマンは肩を揺らして笑い「まぁいいさ」と案内を再開した。  次に通されたのは聖具室だ。本来なら教会内の行事で使う道具が置かれる部屋だが、ここにあるのは生薬や治療道具ばかりだ。クレマンが口を開く前に、ニコラが目を輝かせ誇らしげに説明した。

「ここはな、先生が薬を作ったりする部屋なんだ。お前、薬の扱いがわかるか? わかんないだろ? おれは先生に教わってるから、傷に当てる湿布くらいなら作れるんだ。すごいだろ!」

 ニコラが自慢していることはわかったが、何がすごいのか、男にはわからなかった。男の顔を見てそれを察したニコラは、不満そうに唇を尖らせる。クレマンは「わからなきゃいいさ」と二人よりもさらに進み、閉じられた戸棚をいくつか叩いて示した。

「ニコラが言った通り、ここは俺が薬を作るために使ってる。あんたは薬の心得がなさそうだ。できるなら怪我や病気のとき以外、ここには入らないでくれ。わかったな?」

 男が黙って首を縦に振ると、クレマンは「よし」とうなずき部屋を出て行った。ニコラがそれを追いかける。男も二人の後に続き、のんびりと部屋を出た。  次は離れに連れて行かれ、台所の説明を受けた。台所以外にも部屋はあるようだったが、そこは食料庫にでもなっているのか、信用のない男を二人が案内する気配はなかった。男も、あえて触れることはしなかった。

子供たちは男に興味があった

 すべてを案内し終え、クレマンは男に質問はないか尋ねる。男は首を横に振った。ならばと、クレマンは男に早速仕事を与えた。

「早速だが、薪割りをしてきちゃあもらえないかね。ニコラ、この兄ちゃんと一緒に裏へ行ってくれ」 「わかった。ついてこいよ、新入り」

 先輩風を吹かし、ニコラは手にしていた斧を肩に担いで男の前を行く。男は黙ってニコラの後に続いた。クレマンは部屋に残るようだ。背後からごりごりと重い音が聞こえてくる。その音を背に聞きながら、ニコラと男は聖具室の扉を閉めた。  教会を出て裏に回り、積み上げられた薪を持って切り株のそばへ行く。切り株の真ん中に薪を一つ置き、ニコラは「ん」と男に斧を渡した。男は斧を受け取り、薪と斧を交互に眺め、「なぁ」とニコラに声をかけた。

「これ、どうやるんだ?」

 男の質問にニコラは「はぁ?」と眉を上げた。質問が通じていないと思ったのか、男は「これだよ、これ」と薪と斧を指さす。ニコラは訝しげに眉をひそめながら「割ればいいんだよ」と答える。

「それ使って割るんだよ。それくらいわかるだろ?」 「これで切るのか? めんどくせえな」 「は? お前まさか薪割りしたことねえの?」 「ねえよ。でなきゃ聞かないだろ?」 「嘘だろ!?」

 ニコラが大きな声を出す。化け物でも見るような目で男を見ながら、ニコラは渋々男に身振りで薪割りを教える。

「薪割りって……その斧をこう持って、こう下ろすんだよ」 「こうか?」 「あっぶねえな人に向けるなよバカかよお前!」

 カラスのように喚くニコラに教わりながら、男は薪割りを始めた。初めは薪に当てることすらできなかったが、数をこなすにつれ、男は少なくともニコラほどには斧を扱えるようになった。『今日の分』と言われた薪をすべて割り終えた頃、森へ行っていた娘と子供たちが夕日を背負いながら帰ってきた。薪割りの音を聞きつけ、いっぱいになった篭を携えた子供たちが教会の裏に顔を覗かせる。子供たちはどす黒い血で汚れた男の手を見て目を丸くした。

「にーちゃん、何でそんな手ぇ真っ黒になってんの?」

 真っ先に男に駆け寄ったのは、同じ顔をした二人の少年だ。首を傾げたことで柔らかそうな赤毛が揺れる。片割れの言葉を継いで、もう一人も緑の瞳を好奇心に輝かせながら男の手を取った。

「|竈《かまど》の掃除でもしたのか? にしては|煤《すす》っぽくないな?」

 手に取った男の手を眺め、ひっくり返し、持ち上げ、双子は男の手の汚れが何か解明しようとする。一番年少の少年も近寄ってきたので、男は斧を切り株に立てかけた。少年は男の手をまじまじと眺め、それから「いじめたの?」とニコラを見上げる。あらぬ疑いをかけられ、ニコラは「いじめてねえよ!」と否定する。その台詞を拾い上げたのは、近寄らずに様子を見ていた少女たちだ。男が斧を手放したことで警戒が薄れたらしい。一番年嵩らしい褐色の肌の少女が金色の目をキュッと吊り上げる。

「それじゃあどうしてこんな手なのよ?」 男に近寄り、少女はニコラに向かって真っ黒になった男の手を突き出す。後ろにいた藁色の髪の少女も一緒になって男の手を覗き込む。首を傾げると、藁色の縮れ毛がゆらゆら揺れた。

「真っ黒じゃない。変なの」 「薪割りしたことないから、それで変な汚れ方したんじゃねーの?」

 子供たちは男を取り囲むと、ボロボロになった手を取り、眺め、ひっくり返しながら、口々に問いかける。

「ほんとに薪割りしたことないの?」 「ねえよ」 「ほんとに? ぼくでもしたことあるよ?」 「おれはしたことねえんだよ」 「薪割りしたことない男なんているわけないじゃない」 「だから、おれはねえんだって」

 子供たちがわいわいと騒ぐ声を聞き、離れに行こうとしていた娘も顔を出す。そして子供たちがおもちゃにしている男の手を見て驚き、絶句して篭を落とした。子供たちが今度は娘に群がっていく。

「ねーちゃん、聞いて聞いて!」 「このにーちゃんね、薪割りしたことないんだって」 「今日はじめてやったんだって! 信じらんないよな!」 「絶対うそよ、薪割りしないでどうやって生活するの?」 「え、えぇと……その手、痛くありませんか? ずいぶん真っ黒ですけど、怪我をしてるように、見えます」

 男は自分の手に目をやる。子供たちが散々おもちゃにしても痛みは感じなかったが、娘が言うならそうなっている気がした。実際、男の手の状態はひどい。慣れない作業でできたマメが潰れ、木肌のささくれが刺さり、もし男の血が赤ければ目を背けてしまう有様だ。自分の手をまじまじ見つめる男に近づき、娘は男の腕をそっと引いた。

「手を洗って、手当てをしましょう? 先生がいい薬をくれますから」

 心配そうに眉を下げ、娘は男を教会の中へ促した。男がうなずくと、まとわりついていた双子の少年が率先して井戸から水を汲んだ。娘の言うとおりに洗った男の手を見ると、子供たちは甲高い悲鳴をあげた。特に騒いだのは少女たちだ。黒髪の少女が、「やだ!」と口元を覆う。

「ひどい怪我じゃない! そんな風になるまでしちゃだめよ、どうして痛いって言わないの?」 「ニコラが無茶を言ったんでしょ、絶対そうだわ。ニコラは頑固だもの!」 「おにーちゃん、いたそうじゃないねぇ」

 年長の少女に続き、縮れ毛の少女がニコラに非難の矛先を向け、最も幼い少女が不思議そうに男の手と顔を見比べる。きゃんきゃんと子犬のように吠えケンカを始める少女二人とニコラをなだめながら、娘は男を教会内へ促した。男は素直にうなずき、娘と連れ立って裏庭を出ていく。少女二人に責め立てられていたニコラが、後ろから「薬もらったら薪を運べよ!」と大声で呼びかける。男は振り向かず手を振るだけで返事とした。  軋む扉を娘が押し開け、礼拝堂を進み、聖具室の扉を叩く。「入りな」と了承を得て、二人は中に入った。クレマンは机に広げた紙に何かを書きつけていた。いったいどんな調合をしていたのか、薄汚れていたシャツに新たな緑色の汚れが付着している。目を手元にやったまま、クレマンが「どうした」と問いかける。娘は男の腕を取り、クレマンに男の手のひらを見せた。

「ひどい怪我なので、薬を塗ってもらえませんか」 「怪我? 何だ、斧で手をやっちまったか」

 娘の説明に顔をあげたクレマンは、男の手を見ると眉間にしわを寄せた。男はその顔を見てクレマンが言いたいことを察し、先に口を開いた。

「薪割りなんてしたことねーんだよ。言われた分を終わらせたらそれでいいだろ?」 「ははぁ、ずいぶんいい暮らしをしてたみたいだな。羨ましいこった」

 皮肉を言って口角を上げたクレマンは、重たげに腰を上げて棚の戸を開けた。棚の中には、ラベルを貼った瓶が几帳面に並べてある。クレマンはその中の一つを手に取り、中に詰められた葉を二枚ほど取り出した。瓶を戻しながら葉を揉み、戸を閉めると、それを男に差し出した。

「悪いが、薬が切れててな。夕食後には塗り薬を作っといてやるから、それまではこれを貼っときな。包帯も渡してやるから、ずれないよう巻くんだぞ」 「悪いな、じーさん」 「ここに住む気なら、俺のことは〝じーさん〟じゃなく、〝先生〟か〝クレマン〟と呼べ」 「ああ、わかった。じゃあな、クレマン」 「生意気な若造め」

 にやっと笑い、クレマンは「用が済んだらさっさと出てけ」と二人を追い出した。部屋の外へ放り出され、二人は静かな礼拝堂に佇む。くす、と娘が笑った。

「先生を相手にあんな風に話せるなんて、すごいですね」

 男が「そうか?」と首を傾げる。娘は「そうですよ」と手で口元を覆うとおかしそうに笑った。何がすごいのか男にはわからなかったが、娘が楽しそうならばいいかとそれ以上は何も返さなかった。娘はひとしきり笑うと、「あ」と声を上げ両手をぽんと合わせた。

「包帯を巻かなくちゃいけませんね。そこの長椅子を使いましょう。あれはまだ寝台に使ってませんから、気兼ねせず座ってください」

 娘に手を引かれ、端に避けられた長椅子に向かい合わせで腰掛ける。男に手を差し出させ、クレマンに渡された葉を包帯で固定しだした。

「こんなになって……痛かったでしょう」

 男は首を振る。強がりではない。男はちっとも痛みを感じていなかった。だが娘は男が強がりを言っていると思ったようで、眉を下げたまま「そうですか」と微笑んだ。子供たちのはしゃぐ声が礼拝堂に微かに響く。二人しかいない礼拝堂だ。包帯を巻き終え、娘は「夕飯の支度を」と礼拝堂を出て行こうとする。男はとっさに手を掴んで引き止めた。包帯を巻いたばかりの手で引き止められ、娘は目を見開く。男は娘の手を掴んだまま、「なあ」と呼びかけた。

「お前も、あいつらも、何でこんな森の中に住んでんだ?」 「何で、と聞かれても……ここが、私たちの家だからですよ」 「こんな森のど真ん中がか? あんな小せえ畑だけで冬が越せるかよ。おれでもわかるぞ」 「答えないと、手を離してもらえませんか?」 「お前が答えるまで離す気はねえな」

 娘は助けを求めて聖具室に目をやり、それから外を見たが、すぐに諦めた。ため息をつき、ふふっと笑うと男の隣に座り直した。

「私たちが全員、あの戦争で住む場所を失ったからです」 「せんそう?」男はきょとんと目を|瞬《しばたた》かせる。「戦争って何だ?」

 男の問いに娘はますます困り果てたが、すぐに納得したようだ。眉を下げたまま、娘は穏やかに笑みを作る。

「薪割りがわからないって言ってましたね。それはわからないんじゃなくて、忘れてるだけなのかもしれませんよ。あなたも私たちと同じ、戦争の被害者なんです、きっと」

 そう言うと、娘は先の戦争について簡単に説明をした。  娘曰く。戦争は突然始まった。隣国の兵士たちが煙を上げて攻めてきた。国境近くの村と小さな町を焼き、隣国は自国の国旗を揚げて宣戦した。この国を奪い領地とし、その周辺国とさらに戦争をするのだと宣言した。すぐに各村や町から徴兵されたが、隣国との戦力差は大きく、娘が住まう町も隣国に占領されてしまった。兵士たちによる略奪から、娘は家族と逃げた。あちこちで混乱が起きていて、誰かにぶつかったと思えば、前を走っていた父と母の姿が消えていた。追いすがるように響く悲鳴を背に走り、気づけば握っていた妹の手が離れていた。引き返すことはできなかった。娘は涙も拭えぬまま逃げ続けた。  娘は両の手を広げ、手のひらをじっと見つめる。

「どうして、自分の持つ分で満足できないんでしょう。小さな幸せも、積み重ねていけば大きな幸せなのに」

 男は娘の言っていることが理解できなかった。黙り込む娘を前に言葉を探すが、かける言葉は見つからない。憂う娘と悩む男の間に流れる空気を壊したのは、外にいる子供たちの声だった。

「お姉ちゃん、ご飯の用意しなきゃ!」 「男の子たちがお腹すいたってうるさいの!」

 礼拝堂の扉が勢いよく開かれる。扉の取っ手を掴み娘を呼ぶ少女たちを見て、娘はすぐに表情を明るくした。「今行くね」と言って立ち上がった娘は、男に目を向け、優しく微笑んだ。

「満足いく答えになっていましたか?」

 男がうなずく。娘は「よかった」と目を細め、今度こそ男に背を向け歩き出した。

「ごめんね、準備しようか」 「早く早く! ニコラまで一緒になって騒いでるのよ。早くお姉ちゃんとご飯作れって!」 「お姉ちゃんがあのお兄ちゃんと一緒にいるから、ヤキモチ妬いてるんだわ!」 「ヤキモチやいちゃダメって、いわれてるのにねぇ」 「ニコラは神様の言うことだって聞きやしないわ!」 「ニコラってばほんっとに頑固だもの!」

 少女たちに囲まれ手を取られ、娘は隣にある離れに行ってしまった。入れ替わるように少年たちが礼拝堂に入ってきた。「にーちゃん!」と最も年少らしい少年が、娘と同じ色の瞳をキラキラ輝かせながら男を呼ぶ。

「ニコラが、まきはこぶのてつだえって!」

 双子が後に続き、太陽のように眩しい笑顔で男を誘う。

「一緒に運ぼうぜ、薪!」 「それ終わったら水汲みに行くぞ!」 「あー……わかったわかった」

 気怠げに返事をして立ち上がる。少年たちは男にまとわりつきながら、夕飯までにするべき仕事をあれこれと並べ立てた。男はげんなりしながら聞いていたが、文句は言わず、言われたとおり仕事をこなした。  労働の後は、娘と少女たちが作った食事を楽しむ時間だった。少年たちに連れられて離れに行く。クレマンの案内では通されなかった部屋の一つに通された。台所と繋がった食堂だ。クレマンは先に席についていた。大きな机の上座がクレマンの席のようだ。少年たちは次々自分の定位置らしい席に着いていく。少年たちが座りきった頃、娘が料理の皿を持って、少女たちが食器を持って食堂に入ってきた。褐色の肌の少女が突っ立ったままの男に気づき、「あなたはルノの横!」と年少の少年を指さした。男は素直にルノと呼ばれた少年の隣に座る。ルノはくりくりした大きな目に男を映し、無邪気な笑みを向けた。

「にーちゃん、ぼくのとなりだね」 「ああ、そうだな」 「たべられないものある?」 「さあ。食えねえものは食ったことねえな」 「そっかぁ」

 少女たちが食器を配り、娘がそこに料理を盛り付けていく。すべての皿に料理を盛り付け終え、全員が席に着いたことを確認し、クレマンが両手を組み、口を開いた。

「さぁ、食事の時間だ。祈ってから食べるなり、食べ終わってから祈るなり、祈らず食べるなり、好きにしな」

 クレマンの言葉に、各々自由に祈りや感謝の言葉を口にして食事に手をつけた。宗教を知らない男は、隣のルノが両手を合わせ熱心に何か祈っているのを横目で見て、それを真似てから食事を口にした。豪勢な食事ではない。調味料が手に入らないせいで味も薄い。それでも男は、かつて村で女たちに世話され出された料理よりも、今日この場で食べる料理のほうが美味しいと感じた。  静かな食事の時間が終わり、娘と少女たちが食器を片付けに台所へ戻る。それを手伝うようにルノが立ち上がったが、台所へ行く前にクレマンに襟首を掴まれた。ルノを引き寄せ、クレマンは唇だけで笑う。

「さあルノ、薬の時間だ」

 クレマンの意地悪な言葉にルノは「やだぁ」と拒み逃げ出そうとする。だがクレマンはルノを逃がさない。「あのなぁルノ」と鼻先がくっつくほど顔を寄せた。

「お前の風邪がほかに|伝染《うつ》ったら、ここにいるみんなが死ぬぞ。それでもいいのか?」

 じっと目を見ながら諭され、ルノは下唇を噛んだ。しばらく唇を震わせていたが、やがて、観念したようにうなずいた。クレマンはルノの襟を掴んだ手を離すと、その手で男を指さした。

「あんたも、手の怪我に薬を塗ってやるからついてきな」

 断ることはできたが、男は自分を見るニコラの顔を見て断るのをやめた。ニコラの隣に座る二人の少年が「先生の薬は痛いぞぉ」「すっげー沁みるぞぉ」と怯えた顔で男を心配する。男は二人に「痛くねーよ」とだけ言うと、クレマンとルノに続いて食堂を出た。  離れを出て、礼拝堂へ行く。外はすでに夜だ。月が昇っている。ルノはキョロキョロと周りを見渡し、前を行くクレマンに小走りで追いつくと、枯れ枝のような手をぎゅっと握った。

「せんせい、こわいねぇ」 「んん? 暗いのが怖いか?」 「くらいところから、わぁって、でてきそう」

 怖がるルノを見下ろし、クレマン「そうだなぁ」と自分の顎を撫でた。

「狼が出るかもしれないし、熊が出るかもしれないし、敗残兵……いや、隣の国の兵隊が来るかもしれないなぁ」 「やだなぁ」

 ますますくっつくルノの頭を撫でてやり、クレマンはくくくと低く笑った。

「そう怖がりなさんな。こんな深い森にまで入って来やしないさ。あいつらがしたいのはこの国を盗ってからの余所様との戦争だからな」 「へーたいがきたら、にーちゃん、やっつけてくれる?」

 突然話を振られ、男は返事ができなかった。ルノは期待を込めた目で男を見ている。男は気まずさを感じながら、長旅でも輝きを失わなかった己の金髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。

「そうだな……。一人で来るようなマヌケだったら、やっつけてやるよ」 「ぜったいだよ。にーちゃん、ぼくらをまもってね」

 そんな話をしてる間に、礼拝堂の前まで来ていた。クレマンが扉を押し開け、三人は月明かりを頼りに聖具室へ向かう。聖具室ではすでに男の塗り薬が用意してあり、男はそれを自分で手に塗りながら、クレマンがルノの飲み薬を作るのを眺めた。クレマンの鮮やかな手際で作られた深緑色の薬を、ルノは心底嫌そうな顔で受け取った。飲み干したルノの目には涙がにじんでいた。「にがいぃ」と言って、ルノは聖具室を飛び出した。『追わなくていいのか』と言いたげな男の顔を見て、クレマンは「水を飲みに戻っただけだ」と笑った。「それより」とクレマンはいささか深刻そうな顔で男を見る。

「あんたの服、ボロボロだな。ここにあった服で良けりゃあ着ればいいが、あんたの背丈じゃあ合わないかもな」 「別にこのままでいいぜ、おれは」 「そういうわけにゃあいかんだろ。まぁ、丈が合わなかったらその辺のカーテンでも巻いときな」

 クレマンはそう言うと、並ぶ棚の一つから黒い長衣を一枚出した。「明日から着るなり好きにしな」とクレマンは男に長衣を押しつける。男は受け取った長衣を脇に抱え、短く礼を言った。クレマンはにやりと笑うだけで、返事はしなかった。  礼拝堂に出ると、子供たちと娘がそろっていた。全員、すでに寝る支度をしている。娘が男を手招いた。招かれるままそばによると、娘は「どうぞ」と長椅子で作った寝台を男に示した。今夜から、男はこの寝台で寝るのだ。

「ルノがどうしても、あなたの隣で寝たいそうです」

 娘の言葉に、隣の寝台にいたルノがうんうんと何度もうなずく。ニコラがじろりと男を睨んだが、男はニコラの視線も気にせず、「わかった」と宛がわれた寝台に寝そべった。娘の寝台は男とは反対の位置にあるようだ。「おやすみなさい」と優しい声が遠ざかっていく。隣のルノが「あのねあのね」と話しかける。聖具室から出てきたクレマンが「早く寝な」とそれぞれを諫めて自分の寝台に入る。人の声に囲まれ、気配に囲まれ、微かな寝息を子守歌に、男は意識を得て初めての安眠を体験した。

男と少年たちと森の中

 男は柔らかなものが頬をぺちぺちと叩く感触で目を覚ました。自分がどこにいるのか、なぜ寝ているのか、すぐには理解できなかった。眠たげに天井を見上げたまま、自分の頬を叩く〝何か〟を掴む。途端に甲高い子供の笑い声が耳元で弾け、男の意識は覚醒した。森の中で教会を見つけ、そこに住まうことになったことを思い出した。柔らかなものは、昨夜から妙に懐きだしたルノの手だ。小さな手を掴んだまま体を起こすと、寝台に半身を乗せたルノが「おはよう」と笑った。男は「んー」と短い返事をし、ぐるりと辺りを見回した。未だ寝台の上にいるのは男だけだ。目を覚ました男のそばに娘が来た。昨夜クレマンから受け取った長衣を胸に抱いている。「おはようございます」と微笑み、男に長衣を差し出した。

「あとで洗濯しますから、これに着替えてくださいね」

 服を受け取りながら男がうなずくと、娘はもう一度にこりと笑ってルノを連れ男から離れた。男が着替える|傍《かたわ》ら、クレマンが娘と子供たちを集め、正面にある祭壇を向かせた。クレマンはしゃがれた声で、昨夜同様、全員に祈りを促す。

「さすがにこればかりは感謝しなくちゃならない。懐の広い神に、信者でもない俺たちがこの場にいることを許し、生活を見守り、天罰を下さないことを感謝しよう。さあ、祈りの時間だ」

 クレマンはそう言うと、両手を組み、両膝をついた。ニコラは両手を組み、目を閉じうつむく。双子の少年たちは手を組まず、目を閉じてただうつむく。ルノは娘の隣で両手を組み、膝をついて一心に何か呟いている。少女たちは|皆《みな》クレマンの真似をし、目を閉じている。娘だけは手を組まず、膝をつかず、目を閉じず、祭壇の向こうにある十字架を見つめ続けていた。  彼らの祈りは男が着替え終わるまでの短い時間だった。立ち上がったクレマンは男が着替え終えたことに気づき、手招きながら出口に向かう。少年たちもぞろぞろとクレマンの後に続く。何の用向きかと男は内心構えたが、何のことはない、顔を洗うだけのことだった。井戸の前に立ち、クレマンは「悪いな」と自分の枯れ枝のような腕をさすりながら男に桶を渡した。

「俺もせめて五歳若けりゃ、水を汲むくらい平気なもんなんだが」 「その腕じゃ若くたって桶を持ち上げらんねーだろ」 「馬鹿にしてくれるな。これでも昔は村一番の偉丈夫だったんだ」

 軽口を叩き合いながら、男は水でいっぱいになった桶を井戸から持ち上げた。そこからまずクレマンが顔を洗う分の水をすくった。男から桶を受け取り、ニコラがルノたちの手のひらに水を注いでいく。ニコラが男にずいぶん軽くなった桶を返し、自分も手のひらを男に差し出す。男はニコラの真似をし、どうにかこぼさずニコラの手にも顔を洗う水を注いだ。男が顔を洗う分の水は、残らなかった。渋い顔をする男を見て双子の少年がケラケラ笑う。「おれがやる!」と片割れが手を挙げ、空になった桶を井戸に放り込んだ。水を汲む片割れに代わって、もう片割れが今更の自己紹介をした。

「おれダニエル。こっちはアラン。おれら双子なんだ! にーちゃん双子って知ってる?」 「知らねえ」 「すげえ! にーちゃんほんとに何も知らないんだな!」

 興奮するのは水を汲むアランだ。得意げに胸を張るダニエルの向こうで、ニコラが胡乱げに男を見ている。ルノが何か男に問いかけたそうにしていたが、ニコラに背を押され、先に教会へ戻ろうとするクレマンの後を追いかけていった。残ったアランとダニエルは、男に『双子とは』と説明を続ける。

「双子ってのはな、普通はかーちゃんのお腹の中で一人しか育たないのに、何でか二人育っちまった子のことを言うんだ!」 「不思議だよな。何でそんなんになるかわかんねーけど、おれたちはそうやって生まれたんだ!」 「ふーん」

 素っ気ない返事をする男の手に、アランが水を注ぐ。顔を洗う男を双子はキラキラ輝く目で見ている。二人の視線に気づき、水をしたたらせる男は「何だよ」と二人を見下ろした。二人は声をそろえ、男に尋ねる。

「にーちゃん、どっから来たんだ?」 「どっから?」 「にーちゃんの服、ボロボロだったろ? 敗残兵だってあんなボロ服着てねーもん」 「ってことは、にーちゃんはどっか遠いところから来たんだろ? そうだよな? なっ?」

 男は最初の村を思い出す。この森に着くまで、ずいぶん長く歩いた。だが男は距離を測ってはいなかったし、歩いていた期間を記憶することもしなかった。男は「さぁな」とあっさりした返事を返した。双子は気にせず、また問いかける。

「にーちゃんが来た遠くでは、戦争って終わってた?」 「それとも、終わりそうになってた?」

 双子の質問に、男は今度こそ何の答えも返せなかった。男が自我を得たあの村では、戦争に駆り出されたせいで若い男がいなかった。だがそれ以前は。男が男であると意識する前は、いったいどこにいて、そこではどんな暮らしをしていたのか。  黙り込む男を見て、双子はそろって唇を尖らせる。男が意地悪をして返事をしないと思ったようだ。男にまとわりつき、「なあなあ」「どうなんだよ」と答えをねだる。だが、男はそれに応じることができなかった。  じゃれつく双子と男のところに、娘と少女たちがやってきた。浅黒い肌の少女が双子に「こら!」と怒鳴る。

「顔を洗ったんならさっさと|退《ど》いてよ、後がつかえてんだからね!」 「げ。うるせーマリーだ」 「にーちゃん、あのうるさいのはマリーな。髪も肌も黒いの。んで、中くらいにうるさいのがジョゼ、声も体もちっさいのはエマ」 「何よ中くらいって!」 「あーうるさいうるさい、マリーもジョゼも将来はガミガミばあさんだなぁ」 「何ですって!?」 「げぇ、マリーが怒った!」 「逃げるぞダニエル!」 「走れアラン!」

 年長の少女ことマリーと、ジョゼと呼ばれた少女は拳を振り上げ、走りだした双子を追いかけていく。残ったのは娘と男、そしてエマと呼ばれた年少の少女だけだ。娘は走り去る四人の背中を見て、次に男の顔を見て、はにかむように笑った。

「ケンカばかりでもないんですけど……あの四人は特に、元気いっぱいで」 「マリーとジョゼね、すぐおこるの。だけど、アランとダニエルもすぐちょっかいだすの。いけないねぇ」

 エマは内緒話をするような小さな声でそう言うと、訳知り顔で腕を組みうんうんとうなずく。大人を真似ているその仕草に娘はくすっと笑い、相づちを打った。男は双子が放り出した桶を手に取り、二人のために水を汲んだ。小さな手で水をすくったエマは、男の耳に辛うじて届くか細い声で礼を言った。娘も礼を言う。二人に礼を言われ、男はむずむずと背中がこそばゆくなるのを感じた。  それから離れで朝食を取り、男は少年たちと森に入ることになった。娘は少女たちと、昨日採った木の実や果実を保存食にするのだ。クレマンは聖具室に引きこもり、薬や湿布を作る。では少年たちはというと。教会を出て森の手前で一列になり、先頭に立ったニコラが薪割り用とはまた別の斧を担いで、並ぶ少年たちと男の顔を見回した。

「いいか、今日は罠にかかってる動物を狩りに行くぞ」 「肉だ!」 「今日こそ肉だ!」

 双子が前列ではしゃぐのを見ながら、男は「ワナって何だ」と目の前にいるルノに尋ねる。ルノの答えを聞く前にニコラが出発の号令をかけたので、男は森に入ってその答えを知ることになった。  男が一人で踏み入ったとき、森はまるで侵入者を拒むように暗く鬱蒼としていた。しかし今、朝ということを差し引いても森の中は明るい。木々の葉や背の高い草が茂っているが、視界が悪くなるほどではない。自分が迷い込んだときと様相が違っているが、男はそれに気づくことなく、やはり森は朝のうちに入るべきかと考えながら少年たちのあとをついて歩いた。  ニコラが無言で手を挙げる。ぴたりと全員が足を止めたので、男も足を止めた。振り向き、ニコラは人差し指を唇の前に立てる。後ろに立っているアランが振り向きながら同じ動作をし、ダニエルもまた同じ動作でルノを振り向き、ルノは男を見上げ繰り返す。男は首を傾げた。

「何やってんだ?」 「静かにしろって意味だバカ!」 「ニコラ声がでかい!」 「肉に逃げられる!」 「みんなおっきいこえだしちゃだめだよぉ」

 前を向いたニコラが姿勢を低くして歩き出し、双子、ルノもそれに続く。男も真似をして、静かに前へ進んだ。そして彼らが仕掛けた罠が何かを知った。落とし穴だ。子供が掘ったにしては深い穴の底に、ウサギが這い上がれずにぐったりしていた。双子が「やった!」と互いの手を合わせ喜ぶ。ルノも嬉しそうにニコニコし、ニコラも誇らしげだ。持っていた斧で細い枝を一本折ると、目印として地面に突き刺した。

「こいつは帰りに持って帰ろう。次は向こうだ」

 また列を組み、歩き出す。丸く開けた場所に出ると、篭が三つ、伏せた状態で落ちている。ニコラと双子がそれぞれ近寄り、篭を持ち上げないよう位置をずらし――落胆した。篭を持ち上げる。中に糸で結わえた虫がいた。もう動いていない。糸をほどきながら、ダニエルが「やっぱ無理だってぇ」と情けない声をあげる。

「風で篭が落ちるしさぁ、虫もすぐ弱っちまうよ」 「これなら何かの種ばらまいておれらが待ち伏せしてるほうがいいってぇ」

 ダニエルの泣き言にアランも続く。むむ、とニコラは唇を曲げた。訳がわからないといった顔をしてる男に、ルノがつたなくも懸命に説明した。彼らはウズラを狙って罠を作ったのだが、篭を支える木の枝が細いのと餌にしている虫が弱ってしまうこと、この二つが問題でうまくいかなかったらしい。男は「へぇ」と呟くと、ダニエルに近寄り一緒になって屈み込んだ。倒れた小枝をつまみ上げ、どうやって仕掛けたのか尋ねる。

「これとこれでどうやるんだ?」 「えぇ? この篭をさぁ、枝で支えるだろ? んで、獲物が虫を見つけて食べようとしたら……枝が倒れて、篭ン中に閉じ込められんの」 「こんなちっちぇー枝で篭支えてられるのかぁ?」

 胡散臭げに枝を見る男に、ダニエルは「だよなぁ!」と同意した。アランも隣にやってきて「そうだよなぁ」とうなずく。一人離れた場所にいるニコラが「何だよお前ら」と不満そうに頬を膨らませた。

「お前らだってこれでいいって言ってただろ」 「言ったけどさぁ」 「やっぱ枝細いし」 「虫動かねーし」 「ウズラ食えねーし」 「あーもう、じゃあ太い枝探して来いよ! あとツタ!」

 ニコラが要求したツタを何に使うのか、双子が尋ねるとニコラは「紐の代わり」とだけ言って篭を二つ重ねるとルノに持たせた。これ以上答える気がないとその後ろ姿が言っていたので、双子は男を立たせると、その場にルノとニコラを残してツタと枝を探しに森に戻った。  太い枝もツタも、思ったより簡単に見つかった。要求された分とは別に、双子は自分が持つための長い枝を探しだした。男はその様子を横目に、何を探すでもなく地面に視線をさまよわせた。そこでふと、男の手でも余るほどの石が目に入った。男は無意識にその石を拾い上げると、「使えそうだな」と声に出さず呟き、片手でお手玉のようにもてあそんだ。  長い枝を見つけ満足した双子と一緒にニコラたちの元へ戻る。待っている間、ニコラはニコラでルノと一緒にウズラが食べそうなものを探していたようだ。双子が長い枝を持っているのを見ると呆れたように長い息を吐いたが、何も言わず、探させた枝とツタを結び罠を作る。枝が倒れないよう気をつけながら、ニコラの合図で全員がその場から離れた。  幸運なことに、ウズラを捕まえる機会は何度もあった。だが気配を察するのか、ウズラは罠に入る直前にぴたりと足を止め、羽をばたつかせて元来た方向へ逃げていった。次第にニコラはイライラしだし、ウズラが逃げる回数が指の数を超えると、男を振り向きキツく睨んだ。

「お前がガサツだから逃げるんだ。あっち行ってろ」

 ニコラが言い分は八つ当たりとも言い切れない。ニコラたちが息を殺している後ろで、男はさっき拾った石を片手で投げ上げもてあそんでいた。それがウズラに伝わったという証拠はないが、ニコラがそう思うのも無理はない。ニコラに睨まれるのにももう慣れたもので、男は「ガサツって何だ?」と知らない言葉に興味を示す。それがまたニコラをさらに苛立たせた。

「うるっさいな、とにかくあっちでルノと遊んでろ!」

 名指しにされたルノは「えぇ」と残念そうな声をあげたが、男と遊ぶのは嬉しいようで「いこ」と男を立たせ森に入った。  ルノは機嫌良く鼻歌を歌いながら、拾った枝を振り回して歩く。その後ろを男はついて歩いた。ルノは時折立ち止まり、足下に咲く花や頭上の幹に止まる鳥を指で差しては男にその名前を教えた。男はそのたびに「へぇ」「ふぅん」とうなずく。ルノはさらに機嫌を良くし、枝を振り回す勢いを強くしながら、男と森の中を歩いた。ふんふんと鼻息荒く歩いていたルノが、ふと立ち止まる。「あ」と声を上げしゃがみ込むと、野草を引き抜き男に突き出した。その瞳は得意げに輝いている。

「これ、これね、せんせいがおくすりにするんだよ。ニコラがね、まえにおしえてくれたんだ。ぼくおぼえてるよ。すごい?」 「ああ、すごいな」

 ルノが男に見せたのは薬草だった。男は立ったままルノが差し出す薬草を見下ろし、うなずいた。ルノは男に褒められたと思い顔いっぱいに笑みを浮かべると、「もっととる!」としゃがんだ姿勢のまま同じ薬草を探し始めた。男は這いつくばるルノを眺めながら、手放さなかった石を退屈そうに宙に投げては掴んだ。

男は約束を忘れなかった

 男の耳に、何かが地面を踏みしめる男が飛び込んだ。獣が立てる足音ではない。靴を履き、甲冑に身を包んだ人間が立てる足音だ。男は短くルノを呼んだ。ルノは名前を呼ばれ、無邪気に「なぁに」と男を見上げる。足音はルノの正面へ近づいている。男は手を伸ばし、ルノの襟首を掴むと自分の後ろへ投げるように押しやった。それにやや遅れて、男の頭を強い衝撃が襲う。くゎんくゎんと頭が揺れ、足下がふらついた。男は踏みとどまり、握っていた石を正面に向かって振り下ろした。硬い音が響く。くぐもった呻き声も聞こえた。ルノがかすれた悲鳴を上げる。男はまだ揺れる目でルノを探し、自分から離れるよう促した。

「こいつやっつけてやるから、お前はあっち行ってろ」

 何で殴られたのか、男はわかっていなかった。だがそれにより頭部のどこかが裂けて血――と呼ぶにはあまりに黒い液体――がだらだらと流れ視界を塞ごうとしているのはわかった。乱暴に袖で拭う。未だ視界は揺れているが、相手が甲冑を着込んだ青年であることはわかった。男は再び腕を振り上げ、呻く青年の頭に石を叩きつけた。男が持っていたのが刃物であれば、青年はこんな痛みを味わうことはなかっただろう。生憎、男が持っているのは石だ。それも、人を殴るにはちょうどいい大きさの。甲冑越しに殴られる痛みに青年が叫ぶ。青年が喚いても男は怯まない。石を振り上げ、何度も兜を殴りつける。次第に兜はへこみを増やし、青年は呻き声をあげるだけになり、赤い血が地面に滴った。

「にーちゃん」震える声で、ルノが男を呼んだ。男は手を止めず、青年を殴り続ける。いつのまにか男は青年に馬乗りになっていた。青年はぐったりして動かない。男はそれでも石で殴るのをやめない。ルノが大粒の涙を落とし、今度は強く男を呼んだ。「にーちゃん!」

 ようやく、男は手を止めた。頭から流れる黒い血が男の顔を染めている。青年が散らした赤い血が男の手を染めている。ルノは震えた。震えながら首を振った。

「もういいよ、もうやめて。もうやっつけなくていいよぅ」

 しくしくと泣きだした。男の手から石が落ちる。また足音が近づいてきた。今度はニコラたちの足音だ。悲鳴を聞きつけ、急いで探しに来たのだろう。乱れきった呼吸音が足音に混じっている。  やってきた三人は、あまりの光景に言葉を失った。男を見て、青年を見て、ルノを見て、ダニエルは無意識にアランの服の裾を掴んだ。アランは顔を蒼白にしている。ニコラは一瞬アラン同様に顔色を悪くしたが、すぐに表情を引き締めた。

「お前がやったんだな?」

 ニコラの問いに、男は「ああ」と認めた。ニコラはさらに「守るためか?」と重ねる。男はまた「ああ」とうなずいた。正しくはルノとの約束を守るためだったが、男は説明が面倒で、うなずくだけにした。男の返事に腕を組み、数秒考え込んだニコラは川へ行くよう男に言った。

「川で、その血とか洗ってこい。アランとダニエルはルノを連れて教会に帰れ」

 この場から離れられることを双子は喜んだが、すぐに表情を暗くした。

「ニコラは?」

 問われ、ニコラは隠さず答えた。

「この死体を隠す」

 ぎょっとして目を見開く双子の横で、怯えたルノが「しんでるの?」と青年を指さした。青年はぴくりとも動かない。甲冑の下では、もしかしたら呼吸をしているかもしれない。ニコラは青年を見て、重々しく首を横に振った。

「死んでなくても、どうせもう死ぬ」

 ルノが青年から目を逸らした。双子も、青年を見ないよう視線をさまよわせる。男だけが青年からもニコラたちからも目を逸らさなかった。

「お前一人で隠せるのか? そんなほっせー体で運べるのか? 無理だろ」

 ニコラは目を吊り上げ「お前が」と口を開きかけた。開きかけただけで、結局は口にしなかったが。

「隠せるさ」ニコラは苦いものを噛んだ顔で呟く。「隠さなきゃ、面倒になる」 「手伝ってやるから待っとけ」

 そう言うと、男はさっさと血を洗いに行ってしまった。初めて入った森で川の場所など知らないにもかかわらず、一人でだ。ニコラは男の後ろ姿をじっと見つめ、舌打ちをすると男を追いかけた。小走りになりながら、立ちつくす双子とルノに指示を出す。

「お前たちは早く戻れ。先生には『敗残兵が出た』って言うんだぞ」

 三人の返事は、ニコラの耳には届かなかった。男に追いついたニコラは服を掴むと、引きずるように川へ連れて行った。連れて行かれたせせらぎで、男はざぶざぶと水を浴び血を流す。ただの水浴びにしか見えない様子の男に、ニコラはぽつりと話しかける。

「人を殺して、何でそんな平気な顔してられるんだ?」

 男はニコラを振り向かず、当然のように答える。

「おれには|心臓《ハート》がないんだってよ」

 ニコラの眉がまた跳ねた。

「|心《ハート》?」

苛立った様子でニコラは首を振った。

「心がない奴なんかいるもんか」 「おれにはねーんだよ。そう言われた」 「ふぅん。まぁ確かに、ないのかもな。でなきゃそんな平気な面してられないよ」

 拗ねたようなニコラの物言いに、男は振り向いた。男は顔に笑みを浮かべていた。男を毛嫌いしているニコラでも思わず息を呑み見蕩れる美しい笑みだ。芸術品のように美しい笑みは、すぐに消えた。

「やっぱそうだよな」

 またニコラに背を向け、男は頭から水を被った。ニコラは男の背中に哀愁を感じたが、胸の中にわだかまる意固地な何かが、男に慰めの言葉をかけさせなかった。  赤と黒に塗れた手を洗い終えると、二人は先ほどの青年の元へ戻った。青年は事切れていた。青年の死体を見下ろし、ニコラは男の後ろで顔を青くして硬直する。男は平気な顔で亡骸を足先でつつき「どうすんだ?」とからかう笑みを浮かべニコラを振り向く。ニコラは大きく息を吸い、吐き出した。喉元までせり上げる不快感を飲み下し、「決まってるだろ」と男の後ろから一歩出た。

「隠すんだ。マリーたちが見つけたら、怖がって森に入れなくなる」

 ニコラは青年の足を掴み、男には腕を掴ませた。二人で持ち上げ、ニコラは運ぶ方向を顎で示す。その方向には低木が多く生える茂みがあった。ここでは果実も木の実も採れないので、娘たちが近づかくことはないらしい。ニコラは男にそう説明すると、低木の陰に青年を隠した。青年を隠すとまた引き返し、青年が持っていた石斧を運んだ。拾った石と棒で作った粗末なものだった。先端に男の血がついている。死んだ青年は農村から徴兵されたのだろう。貴族ならば石斧なんて持たない、とニコラは尋ねてもいない男に説明した。ニコラの顔色はまだ青い。男は「ふぅん」とだけ返した。  石斧も隠し終え、ニコラはまた大きな息を吐くとがくりと膝をついた。ニコラが力尽きたのかと思った男は、細い体を支えようと咄嗟に膝を折った。だが、違った。ニコラは力尽きたわけではなかった。地面に膝をつき両手を硬く組み、目を瞑って何かを呟いていた。ささやくような呟きはほとんど聞き取れなかったが、男の耳でもたった一つの単語を拾うことができた。

「神様」

 そういえば朝も〝神〟に祈ってたな、と男は朝の様子を思い出した。一心に祈るニコラの手は、強く組みすぎて白くなっていた。  ニコラの祈りは長かった。男は待った。待つのは苦痛ではなかった。ニコラの様子を眺めているだけで十分暇は潰せた。長く長く、一心不乱に祈り、ようやく気が済んだニコラは立ち上がった。「帰るぞ」と呟き、ルノたちが走った方向とは反対に歩き出した。

「どこ行くんだ?」 「ウサギ。食料は無駄にできないだろ」

 それもそうだと低く笑い、男はニコラの後ろをゆっくり歩いた。  ウサギは男が運んだ。ニコラは自分が運ぶと言ったが、その目は生き物に触れることへの怯えをにじませていた。男はニコラの怯えを敏感に察したが、からかわず、黙ってウサギを運んだ。教会に戻ると、礼拝堂前でそわそわと落ち着かない様子で娘が立っており、その横でクレマンが険しい顔で待っており、薄く開いた扉の向こうで子供たちが目だけを覗かせていた。ニコラが軽く手を挙げると、娘が駆けてきた。ニコラを抱きしめ安堵の声を漏らした。

「無事でよかった」 「ああ、二人とも無事で何よりだ」

 クレマンもゆっくりとした足取りでやってきて、ニコラの頭を撫でた。途端、ニコラの青い目に涙が浮かび上がった。涙はすぐにあふれ、ニコラの頬を伝った。拭っても流れる涙にニコラは戸惑う。娘はニコラを抱きしめたまま、「もう大丈夫」と何度も背中を撫でる。ニコラがしゃくり上げた。もう止まらなかった。娘にしがみつき泣きだしたニコラを、娘はいつまでも抱きしめ、慰めた。  ニコラが泣く一方、クレマンは男に裏庭を示し歩き出した。クレマンの意図を察し、男も裏庭へ移動する。切り株に腰掛け、「さて」とクレマンは男を見上げた。

「どの辺りで出た?」 「川から少し遠いくらいだな」 「一人か?」 「一人で来る間抜けだ」 「殺したのか」 「低い木の中に隠した」 「そうか……」

 長いため息が吐き出される。クレマンはうつむき、痛みに耐えるように硬く目を閉じた。実際に痛むのだろうか、節くれ立った指でこめかみを押さえた。やがて瞼は持ち上げられ、灰色の瞳に疲れをにじませながら、クレマンは男を再び見上げた。

「それで」 「それで?」 「本当に、あんたもニコラも、怪我はしなかったのか?」 「ああ」痛みを伴いだらだらと血を流すことを怪我というのなら、男は怪我を負ってはいない。「おれもあいつも、怪我はしてない」 「そうか。……そうか」

 また吐き出されたため息には、安堵だけが混じっていた。クレマンは立ち上がると男の肩を軽く叩き、「ありがとうな」と礼を言って裏庭を出て行った。残された男は叩かれた肩を押さえ、礼の意味を考え、結局わからず、ただ一人首を傾げ佇んでいた。  やがて夜になった。子供たちが寝静まる中、男は寝台に腰掛け十字架を見上げていた。十字架は古びており、夜の闇の中でなくともそこに彫られた意匠は見えない。ぼんやりした十字架をぼんやりした頭で見上げる男に、まだ起きていた娘がそっと声をかけた。

「眠れませんか?」 「寝る気がしねえだけだ」 「そうですか」

 暗闇の中、衣擦れの音とともに娘がやってきた。男の視線を追い、十字架に目をやる。男は十字架を見つめたまま娘に問いかけた。

「あれが神様ってやつか?」 「いいえ。あれは神様そのものではありません」

 男は眠る子供たちを一人ひとり指で差した。

「こいつらは、〝神〟を信じてるのか?」 「ええ」娘はうなずく。「空の上で、私たちを見ていると信じています」

 空色をした男の瞳が、まっすぐ娘を映す。

「お前は信じてないんだろ?」

 男の言葉に、娘は虚を突かれ目を丸くした。男は娘の目を見ながら返事を待った。娘は目を細め、眉を下げ、無理に笑顔を作った。

「信じていますよ」 「嘘だな」

 間髪入れない男の返事に、娘は苦笑した。「本当です」と、今度は作り物ではない笑みを浮かべる。

「神様はいます。私はそう信じてます。ただ、あの子たちやこの教会の神様とは違う神様を、信じてるんです」

 男にはその意味がわからなかった。それがわかっている娘は、自分が信じる〝神〟を説明した。

「私が信じる神様は、私たちを助けてくれません。じっと空高く遠いところから、この世で生きる私たちを見てるだけなんです」

 ふぅん、と男が相づちを打つ。興味の薄い返事でも、娘は気を悪くせず続きを話した。

「だからといって拗ねてはいけません。いつか神様の元へ行ったとき、胸を張って精一杯生きましたと言えるよう、私たちは正しく生きなくちゃいけない。……そう、教えられて育ちました」

 話し終え、娘は家族のことを思い出したのか、目を伏せうつむいた。元気のない娘を見て、男は自然と娘に手を伸ばしていた。額を覆う髪を払い、露わになった額を指で弾いた。「いたっ!?」と娘が声をあげる。驚き見開かれた目が男を映した。男は娘の反応を見て、喉で低く笑う。娘は男の考えがわからず必死に考えたが、男が楽しそうなので考えるのをやめた。考えてないのだとわかったのだ。

「ば、ばかって何ですか、ばかって」 「お前、そんなこと考えながら生きてんのか? 明日死ぬかもしんねーのに」 「だって、そう言われて今まで生きてきてたんです」 「嫌でも死ぬくせに、死んだ後のこと考えて生きてんじゃねーよ」

 男はまた「ばーか」と娘の額を弾いた。「痛い!」と抗議の声をあげ、娘も仕返しと男の鼻先を弾いた。

「お、何だやるか?」 「そっちからしてきたんじゃないですか」

 二人とも笑いながら、声を潜めじゃれ合う。しかしどれだけ抑えても楽しげな声は礼拝堂に響き、子供たちも起き出した。「何してるの?」とエマが寝ぼけ眼で布団から抜け出した。そのエマを捕まえ、娘がくすぐる。笑い声が弾けたことで子供たちもじゃれ合いの輪に混ざり、礼拝堂は昼間のように賑やかになった。あまりの騒がしさに起きたクレマンに叱られるまでの数分間、娘も子供たちも、戦争や敗残兵への恐怖を忘れた。  だがその翌日、彼らは忘れた恐怖を早朝から蘇らせることになる。

男にないものは心か心臓か

 初めに気づいたのはアランとダニエルだ。井戸のそばで揺れた茂みが、動物にしては大きな揺れだと感じたのだ。二人が声をあげる前に、それは咆哮をあげて茂みから飛び出した。甲冑をまとい兜で顔を覆った大男だった。手には凶悪な輝きを放つ長剣を握っている。切っ先は子供たちに向いていた。すぐさま娘が前に出る。子供たちを背後へ押しやり、「何のご用です」と険のある声で尋ねた。大男は吠える。

「ここに我が部下が来たはずだ! どこへ隠した、言え!」

 娘が「知りません」と否定しても大男は聞く耳を持たない。部下を出せと大声でまくし立て、子供たちを縮み上がらせる。エマが泣いてマリーにしがみついた。エマを抱きしめるマリーの手は震えていた。ジョゼがニコラの服を掴む。小刻みに震えるジョゼの手をニコラはしっかと握り返した。アランとダニエルは互いに互いの手を握りあう。ルノは泣き、「にーちゃん!」と男を呼んだ。

「にーちゃん、あいつやっつけて!」

 男は返事もしなかった。すでに斧を振り上げ大男に躍りかかっていた。響いたのは硬い音。大男は、男の斧を甲冑の腕で防いだ。跳ね上げるように振り払われ、男の体勢が崩れる。その隙をつき、大男は男の脳天目がけて長剣を振り下ろした。  肉の裂ける音、硬いものがぶつかり合う音。|刃《やいば》が食い込んだ頭から黒い血が噴きだす。しかし男は倒れなかった。斧を握る手を開かなかった。流れる血を拭いもせず、青い瞳に不気味な光を宿らせ大男を睨む。怯んだ大男が一歩、後ろへ下がった。男はじりじり大男に近づきながら、後ろで動けなくなっている娘たちに「行け」と告げる。

「やっつけといてやるからよ、お前ら、あっち行っとけ」 「いや、行く必要などない。そこに残れ子供たちよ! 私はお前たちに用がある!」 「あいつらはお前に用はねえんだよ」

 男は口の端で笑い、また大男に斧を向けた。大男はすぐに反応し、腕ではなく長剣で受け止める。「走って!」と娘が叫ぶ。子供たちが教会に向かって駆けだした。転びそうになったルノを支えながら、娘は振り向き叫ぶ。

「この子たちを隠したら、必ず手助けに来ますから!」 「邪魔にしかなんねえよ、ばーか」

 低く笑う男の声は、娘に届かない。男は一層力を込めて大男に向かった。薙ぎ払うように斧を振る。長剣で受け流す。鋭い切っ先が男に向かう。逃げもしない男に刃は抵抗もなく吸い込まれた。大男は思わず長剣から手を離す。男は体に刃を飲み込みながら、大男を思いきり蹴飛ばした。甲冑をまとった巨体が地面を転がる。男は深々と突き刺さった長剣を乱暴に引き抜き、後方へ放り投げる。大男は動けなかった。男は大男を見下ろし、口を開いた。

「お前の部下、どこにいるか教えてやろうか?」 「なっ……何だと!? やはり知っていたか、ならばなぜ素直に教えぬ! これだから礼儀を知らぬ田舎者は、」 「知りたきゃその口閉じとけよ。お前をこのまま殴り殺してもいいんだからな」

 大男が口を噤むと、男は森の入り口を指で指し示した。先を歩けと大男に言い、立ち上がるのを見下ろしながら待つ。大男は男が斧で襲いかかってはこないかと警戒しながら、言われた通り立ち上がると森へ進んだ。男が「そのまままっすぐ」「そこは右」「まっすぐ」「左」「とろとろ歩くな」と指示し、時に大男の尻を蹴り上げながら、大男を先へ先へと歩かせた。そして、青年の亡骸を隠した場所まで来た。大男が膝をつく。

「おお……おお、おお! 可哀想に、我が部下マクシミリアン! 私が空腹で動けぬと言ったばかりに、こんな姿になって……!!」

 おんおん泣く大男。膝をついた姿勢から、地面に|頭《こうべ》を垂れ、まるで斬首を待つ罪人のようになる。男はそれをまさしくその通りにした。深く深く頭を下げたことで、わずかに首が露わになった。大男が青年の死を哀れみ泣いているのを待ってやる優しさなど、男は持っていない。何せ男には|心臓《心》がないのだ。わずかにできた隙間目がけ、男は斧を振り下ろした。  男が大男を屠る一方で、娘はクレマンたちの制止を振り切り、森に入っていた。男が大男に殺されていやしないかと、さらに怪我を負っていないかと、不安と心配で涙をこぼしそうになりながら走った。以前、森に入ったニコラたちが日が沈んでも戻らなかったことがある。あの日はクレマンも娘と一緒にニコラたちを探し森へ入った。二人で手分けして、ニコラ、アラン、ダニエルの名を呼んだ。だが今は、名を呼べない。娘は男の名前を知らない。何度も口を開いてはもどかしそうに閉じ、娘は息を切らせ走った。  遠くから、カツン、カツンと音が聞こえた。娘は立ち止まり、耳を澄ませた。自分の荒い呼吸と、木のささやく音と、硬い音。娘は男が発する音だと確信し、音の方角へ走った。木々の間を抜け、茂みを越え、やがて黒い血にまみれながらも輝く男の金髪が見えた。娘は安堵し、足を緩めた。男が娘に気づく。娘はもう一息と自分を励まし、男の無事を喜びながら、最後の距離を走った。

「あなたの名前を、知らなくて」

 娘は荒い息を整えながら、男に向かって微笑んだ。

「名前を呼べないから、このままあなたを探し出せなかったら、どうしようって、思ってました。でも、見つけられて……本当に」

 良かった。そう続くはずが、娘の微笑みは凍りついた。  血だらけの男。開かれた胸。倒れ伏す大男は甲冑を剥がされ、裸の胸には大きな穴が空いている。娘は男と大男を交互に見て、顔を青くした。男は娘に一歩近づく。

「おれには|心臓《ハート》がないんだとよ」

 ぶらん、と斧を持つ手が下がる。斧から赤い血が滴り落ちる。

「こいつはおれが殺した男のために泣いた。心臓があるからだ。だからおれはこいつの心臓を奪った。これがあればおれだってお前らみたいにできるんだろ? なのに胸を開いて取り出して入れ替えたって、動きゃしねえ。なあ、お前の心臓だったら動くのか? おまえの心臓を入れれば、おれの空っぽの胸は埋まるのか?」

 血の滴る斧を手に、男はじりじりと娘に近づく。娘は動かない。男を見上げる顔は、今にも泣きそうだった。

「可哀想に」

 娘は腕を広げ、抱きつくように男の頭をかき抱いた。男は何をされているかわからなかった。その理由もわからない。娘はまた「可哀想に」と、男を抱く腕に力を入れた。

「|心《ハート》がないなんて、誰が言ったんです。あなたにもちゃんと心があります。悩んで苦しむ心があります。泣いているルノを助けようとする思いやりの心があります。心は見えないものですよ。そうやって切り開いたって、見えはしません。でも、ちゃんとあります。だからもう、他人も自分も傷つけないでください」

 抱かれた男の頭は、娘の胸に押し当てられている。男の耳に響く娘の鼓動は優しく、体温は心地よく、男はこのまま目を閉じてしまいたい衝動に駆られた。何度も「大丈夫」と囁かれ、髪を梳くように撫でられ、男は自分の心臓が動いていなくても良いのだと思えた。  娘はいつまでも男を抱きしめるつもりだったのか、離れたのは男の血が娘の服にずいぶんと染み込んでしまってからだった。娘は自分の服がずしりと重くなったことに気づき、それから男の頭と腹の傷を思い出し、慌てて離れた。

「だ、だだ大丈夫ですか? 真っ黒ですけどこれは血ですか? 血なんですか?」 「そうなんじゃねーの?」 「大変! 早く先生に、いえその前に止血を! ああこんなときにどうして私は包帯の一つも持ってないの!」

 先ほどとは打って変わって、慌てふためき騒がしくなる娘。その変わりように男はぽかんと口を開け、そしてのけぞるように笑い出した。なぜ笑われているかわからない娘は、男が血を失いすぎたことで気がふれたと思いさらに慌てる。慌てる娘がまたおかしくて、男は娘が小走りで手を引き始めても、教会が近づいても、なかなか笑いを引っ込めることができなかった。

「まぁしかし、こんな傷でよく生きてるなぁ」

 教会に戻った男は、クレマンに聖具室まで引っ張られ、傷の具合を診られていた。男を台の上に寝かせ、クレマンは立った状態で男の傷に触れていく。触れられて痛みはないものの、不快感はあった。だが男はされるがままに黙っていた。台の隣で娘がハラハラしながら見守っているからだ。クレマンが男の傷に触れるたび、娘は自分が痛みを感るかのように目を瞑ったり、唇を引き結んだりと表情を変えていく。娘がころころと表情を変える様を視界の端で見ながら、男は喉の奥で笑った。傷をいじられ笑う男を、クレマンは気味悪げに見下ろした。

「普通なら死ぬか痛みでのたうち回るかのどっちかなんだが、あんた、えらく平気な顔してるなぁ」 「痛くねーからな、こんなの」 「やせ我慢じゃないことを祈るよ。あいにくここには縫ってやる道具がなくてな。せめて早く塞がるよう、包帯で固定ておいてやるよ」

 包帯を巻き終えると、クレマンは男と娘を聖具室の外へ追い出した。傷が広がらないよう大人しくしていろと付け加えるのも忘れない。男はぐるぐると巻かれた包帯に違和を感じ早速ほどいてしまおうとしたが、自分を心配そうに見上げる娘に気づき、やめた。

「痛くねえって言ってんだろ?」 「そうですけど……」 「それよりあれ、あいつら見ててやんなくていいのか?」 「え? あっ」

 外で待つよう言われた子供たちが、窓の外からこっそりと中を窺っていた。男に気づかれたことに気づき、子供たちは窓から消えたかと思うと扉から礼拝堂になだれ込んできた。それぞれが口々に男に心配の言葉をかける。男はそれをいなしながら、娘を子供たちの前に押し出した。子供たちの前に立たされ、娘は苦笑する。

「心配なのはわかるけど、今は怪我をしてらっしゃるから、静かにしてようね」 「でも全然痛そうじゃないわ!」 「うーん。痛くはないそうだけど、本当に大変な怪我をされてるの。先生にもね、安静にしてなさいって言われるくらい」 「にーちゃん、ほんとにいたくない?」 「痛くねえって何回言わせんだよ。おれは寝るから、お前らあっち行ってろ」 「ねちゃうの?」 「おう、寝るぞおれは」 「そっかぁ。じゃあまた、あとでね」

 娘に連れられ、子供たちがぞろぞろ礼拝堂を出て行く。静かになった礼拝堂を寝台まで歩くと、男は横になるなりすぐ目を閉じた。双子が夕飯ができたと呼びに来るまで、一度も目を覚ますことはなかった。  その夜。安静にしろと言われた男は食事を終えるとまた礼拝堂の寝台に横になっていた。子供たちは娘と一緒に食事の後片付けをしているため、礼拝堂は耳鳴りがするほど静かだ。だがそれもほんの数分のこと。片付けを終えた子供たちが礼拝堂にやってくると、あっという間に静けさは吹き飛んだ。マリーたちがエマの着替えを手伝ってやったり、アランとダニエルがニコラにちょっかいを出す中、ルノが幼い足取りで横になっている男のそばにやってくる。

「にーちゃん、ありがとう」 「おう」 「ねえ、ねえねえ、にーちゃん」 「何だよ」

 寝台によじ登ろうとするルノを引っ張り上げながら、男はぶっきらぼうに返事をする。ルノは男のぶっきらぼうな返事を気にもせず、あどけない目で男を見上げた。

「どうしてにーちゃんのなまえ、きいちゃいけないの?」

 どうして、と尋ねられ男は困った。男は何も禁止していない。禁止しているのはニコラかクレマンか、もしくは今ぎくりと身を強ばらせたマリーだろう。男は起き上がると寝台の上で胡座をかき、膝に肘を乗せ自分の顎を支えた。

「おれがお前らにとって、余所者だからじゃねーの」 「でも、にーちゃんいいひとだよ」 「いい人じゃねーよ。油断させてそのうちお前らの心臓取っちまう予定だからな」 「うっそだぁ」

 男は「嘘じゃねーよ」と無防備なルノの脇腹をくすぐった。ルノはけたけたと笑い転げ、「こうさん!」と手足をばたつかせる。くすぐりから解放されたルノは寝台に転がったまま、男を呼んだ。

「にーちゃん、にーちゃん」 「んー」 「にーちゃんのなまえ、いつかおしえてね。ぼくもね、みんなもね、まってるよ」

 そんな日は来やしない。わかっていたが、男はルノに薄い笑みを見せるだけにとどめた。ルノをルノ自身の寝台に放り込み、自分も宛がわれた寝台に再び横たわる。昼も寝たというのに、男は死んだような深い眠りに落ちていった。

男は東へ向かった

 男は夢を見た。マリーのようにうねった黒髪と浅黒い肌を持つ若い男が、東へ行けと訴えかけてくる夢だ。白目がちの目に焦りの色を浮かばせながら、声なき声で男に訴える。夢の中の黒髪の男が必死になる理由はわからなかったが、東に何があるのか、男はそちらのほうが気になった。  目を覚まし、すでに起きて子供たちに着替えをさせていた娘に「なぁ」と尋ねる。

「東って何があるんだ?」 「東ですか?」

 エマに服を着せてやりながら、娘は首を捻る。

「東にはいくつも国がありますよ。あ、でも」

 娘は手を止め、両手をぽんと打ち合わせた。

「東の果てには、神様の国があるっていわれてます。そこにたどり着くには、人が生まれて死んでいくほどの時間がかかるそうですよ」

 娘の説明に、男は「ふぅん」とうなずく。それからエマを着替えさせる娘をぼーっと眺めていると、マリーの大きな声が男の鼓膜を震わせた。

「ちょっと、何ぼーっとしてるの? 起きたんならさっさと着替えて、顔洗って、手伝ってちょうだい!」

 ガミガミと怒鳴り散らすマリーの声に形の良い眉をひそめ、男は「めんどくせえなぁ」とぼやきながら寝台から起き上がった。  その日から、男の夢には毎夜あの黒髪の男が出るようになった。黒髪の男の声は聞こえない。だが言っていることはわかった。

 ――東へ。  ――東の果てへ。  ――間に合わなくなる前に。

 いったい何が間に合わなくなるのか。目覚めるたび男は首を傾げるが、男の疑問に答えてくれる者はいなかった。  ある日、教会に老人がやってきた。いや、子供たちに運び込まれた。|襤褸《ぼろ》と化した服を着ていたのは同じだが、男と違って老人は疲労と空腹で森の中で倒れていたのだ。森に入っていた少年たちは老人を運び込むと、彼の手当てをと娘とクレマンを呼んだ。男もその場にいたが、少女たちに「先生みたいに手当ても何もできないでしょ!」「怒らせて余計な体力使わせちゃ可哀想じゃない」「せんせいのじゃましちゃだめだよ」と口々に離れるよう言われ、遠くから眺めるだけだった。怪我をしている老人に、クレマンは薬を与えた。空腹の老人に、娘はスープを与えた。服が貼り付いた布きれ同然の老人に、子供たちは聖具室から余っていた服を運び与えた。男は老人と関わるのを止められ、ただ眺めていた。  老人は語った。森のそばの小さな村で、妻の忘れ形見である娘と二人細々と暮らしていたと。しかし戦争でその小さな村が焼かれ、逃げるうちに娘とはぐれてしまったと。娘を探し続けた結果、この森に迷い込んでしまったと。最後には泣きだしてしまった老人に、クレマンが優しく寄り添った。

「ここには、あんたと似たような境遇の人間ばかりだ。娘を探しに行くんなら、せめてここで、ゆっくり養生してから行くといい」

 何度も何度も、老人は礼を言った。少し休んで元気になれば、ここを出て行くからと言った。決して迷惑はかけないと、かさついた手でクレマンの手を握り、額を押しつけ感謝した。  彼らは甲斐甲斐しく老人の世話を焼いた。筆頭は娘だったが、子供たちもよく働いた。世話の甲斐あり、老人は数日で歩けるほどに回復した。まだ寝ていていいと言うクレマンたちの制止を振り切り、老人は教会で恩に報いるため働いた。男と一緒に斧を持ち、薪を割った。男と一緒に鍬を持ち、小さな畑を耕した。子供たちにせがまれ、釣り竿を作り魚を釣るコツを教えた。少女たちに採取に使う篭の編み方を教えもした。老人は教会に馴染んだ。子供たちも娘も、老人を喜んで迎え入れていた。このまま一緒にいてほしいと望んだ。老人が時折険しい目で男を見ていることに気づいているのは、睨まれている本人と、クレマンだけだった。  ある夜、クレマンは男を聖具室に呼んだ。老人は子供たちに寝物語を聞かせている。老人が聖具室に意識を向けていないことを確認すると、クレマンは椅子に腰掛け、男に尋ねた。

「お前さん、あのじいさんに何をした?」 「何もしちゃいねーよ。おれが聞きてえくらいだな」 「敵意のある目だ。あんたを殺すことすら考えているだろうよ」 「そいつはすげえ。心臓があれば心も読めちまうようになるのか?」 「何をわけのわからないことを言ってんだ、まったく」

 ため息をつき、クレマンは「揉め事は勘弁してくれ」と眉間を押さえた。

「ただでさえあの子たちはつらい思いをしてるんだ。あんたのトラブルで、あの子たちの心にこれ以上傷を作らないでやってくれ」 「薬で治しゃいいんじゃねーの?」 「本気で言ってるなら、お前さんの頭を疑うよ」

 疲れた様子のクレマンは「もういい」と言うと、男に聖具室を出るよう手を振った。男は口の端に笑みを浮かべると、「じゃあな」と手を振り出て行った。  礼拝堂では、子供たちは寝入り、娘と老人が話をしていた。子供たちを起こさないよう声を潜め話す二人を見て、男はわずかに眉根を寄せた。男が聖具室から戻ってきたことに気づき、娘が「あら」と笑みを向ける。

「一緒におじいさんの話を聞きませんか。今、冬に向けて作る保存食の話をしていたんです」 「おれは飯なんて作れねえからなぁ」 「そうかい。きみは、ここでも他人から世話ばかりされているようだな」 「ここでも?」 「ああ、いや。知り合いに似ていたから、ついそう言ってしまっただけだ。昔、わしの村に働かない男がいてね」 「そうですか。でも彼は、よく働いてくださいますよ。ここに来たばかりの日なんて、手に怪我をするほど薪を割ってくださいました」 「そうかい。そりゃあ、いい兄さんだ」

 娘から逸らし男に向けられた老人の目には、冷たい炎が揺らいでいた。  老人が教会に運び込まれ、|一月《ひとつき》が過ぎようとした頃。その日は天気が良く、子供たちが教会前の広場で駆け回って遊んでいた。珍しいことに、クレマンも外に出て日光を浴びていた。老人は畑の切り株に腰掛け、拾った枝でエマのために人形を削り出していた。娘は洗い終えた洗濯物を乾かすため、裏庭に一人だった。いや、男もそこにいた。手伝いはせず、ぼんやりと娘を眺めていた。しゃがみ込み、片膝に肘をつく男の視線を受けながら、娘は洗濯物を干した。そこへ老人がやってきた。男の隣に立ち、同じく娘を眺める。「いい子じゃないか」と老人は男にしか聞こえない声で呟いた。

「優しく、素直ないい子だ。料理も上手に作るし、子供たちと遊ぶのも好きときた。いい嫁、いい母になれる」 「そうか」 「あんないい子も、戦争で焼け出され、こんな場所にいる」 「そうだな」 「気の毒だ。本当に……本当に、気の毒だ」

 首を振り、老人はうなだれた。手にはできあがった人形と、削り出すのに使った小刀を持っている。ぷらん、ぷらん、と手が揺れた。その揺れはしばらく続き、娘がすべて干し終えるとぴたり止まった。

「なぁ、お嬢さん」 「はい、どうしました?」

 娘が振り向く。老人は眩しいものを目にしたがごとく目を細め、それから無理に笑顔を浮かべた。

「今日はいい天気だ。寝具も干したいと思わないか。僕一人じゃあ、全員分を運ぶのは大変なんだ」 「本当ですね。こんなにいい天気ですから、全部干してしまいましょうか」 「そうしよう。きみも、来てくれるだろう?」 「ああ? めんどくせえな」 「まあそう言わずに」 「ふふ。じゃあ行きましょう」

 娘が歩き出す。渋々立ち上がる男の前を通り、笑顔を向け、通り過ぎる。老人は動かない。男は老人のそばをすり抜け、娘と一緒に礼拝堂へ入るべく歩き出した。その後を老人もついて歩く。

「きみはあの娘さんの心臓もえぐり出す気か?」

 老人の質問は娘の耳には届いていない。男は「いいや」と返す。

「あの娘とわしの娘は、何が違う?」

 ぽとりと人形が落ちた。男が振り向けば、老人は小刀を両手で握りしめていた。鈍く光る切っ先は男に向いている。

「なぜわしの娘の心臓を、えぐり出したんだ?」

 老人が両手を突き出した。男は避けるわけにはいかなかった。避けてしまえば娘が怪我をする。そう思い老人の刃を受け入れようとした男の体を、ぐいと誰かが引いた。  地面に赤い水玉模様が浮き上がる。ぱた、ぱた、と赤い雫が落ち、できた水玉を大きくした。老人の目が見開かれる。男は目の前で起きていることが理解できなかった。なぜこうなっているのか、わからなかった。男を庇うように、娘が男の前に立っている。男の胸を狙った小刀は、娘の心臓を、まっすぐに貫いていた。  震える手が開く。娘がよろめく。よろめいた娘を、男は胸板で受け止めた。娘は痛みに呻きながら、老人に微笑んだ。

「お気持ちは、わかります」

 震えは老人の体全体に達した。立つこともままならない娘は、口の端から血を流し、老人に訴える。

「この人を許してなんて、言えません。でも……でも」

 娘が膝をついた。裏庭の様子に気づいた子供たちが駆けてくる。ジョゼが悲鳴をあげた。その悲鳴でクレマンも駆けつけた。娘はもう虫の息だった。

「こうする前に、一度、話を……」

 娘は目を閉じた。男は「おい」と声をかけた。娘は返事をしない。揺すっても、声をかけても、目は開かない。小刀が刺さったままの心臓に耳を当てる。男を安心させたあの音が聞こえない。呆然とする男の横に、クレマンも|跪《ひざまず》いた。「リゼ」と震える声で名前を呼んだ。男は今、彼女の名前をようやく知ることができた。

「リゼ、ああリゼ、どうしてお前はそうやって……」

 クレマンの目から涙が落ちた。それを皮切りに、子供たちも泣きだした。男は涙を流さなかったが、娘の体を離しもしなかった。しばらく娘の亡骸を抱えていたが、娘の膝裏、背中へとしっかり手を回すと、娘を抱きかかえ立ち上がった。「どこ行くんだよ」と、ニコラが怒気を孕んだ声で男を止まらせる。

「どこ行くんだ。姉ちゃんの遺体をどこに持ってくんだ。お前のせいだろ、お前を庇って姉ちゃんは死んだんだろ、なあ、何とか言えよ、なあ!」

 ――東へ行け。東の果てへ。

 夢の中で何度も聞いた台詞を思い出し、男は東へ足を向けた。ニコラが怒鳴る。ルノの泣き声が追いすがる。男は立ち止まらず、娘の亡骸を抱え、東へ向かった。  東の果てを目指し、男は歩いた。森を抜け、町を抜け、焼けた村を抜け、砂漠と化した不毛の地に入った。砂嵐が男の視界を塞ぐ。男は目をこするために立ち止まる時間も惜しんで、東に向かって歩き続けた。  砂漠を抜け、いくつもの国を越え、男は歩いた。男を襲おうとする賊がいた。男を排除しようとする兵がいた。男はそれらから娘の亡骸を守り、退け、また東の果てを目指した。長い長い年月、男は歩いた。娘の亡骸は腐ることなく、男に運ばれ続けた。  やがて、岩だらけの土地に入った。砂漠にすら生き物がいたのに、この土地には、所々に草花が生えている以外、何の生命も見当たらなかった。それでも歩き続けると|靄《もや》に包まれた。乳白色に視界が覆われる。そんな中を男が東へと歩けたのは、光が見えていたからだ。男を導くよう放たれている光を目指せばいいと、男は理解していた。  男は東の果てにたどり着いた。東の果ては世界の果てだった。これ以上先には何もない。靄が立ちこめるその先に男が足を踏み入れられる場所はない。その一歩手前、男の目の前には、祭壇があった。形のそろわない石を積み上げて足とし、切り出した大きく平らな岩を支えている。男は娘を祭壇に寝かせた。

「おれが死んだら」

 物言わぬ娘の頬を撫で、男は微笑んだ。

「お前、泣いてくれるか?」

 男は祭壇の前に座り込み、待った。  幾度も日が昇り、沈み、星が|瞬《またた》き、消え、雨が降り、風が吹き、雪が積もり、幾星霜を重ね、男は娘を見守った。男の体を苔が包んでも、男の体を吹き|荒《すさ》ぶ雹が襲っても、男はその場を動かなかった。  男の待ち望んだ瞬間は朝日とともにやってきた。娘がぱっちりと目を開け、体を起こす。朝焼けに目を細め、娘は自分の体を見て、それから祭壇のそばに目をやる。  そこに男はいなかった。男が座っていた場所には、男の瞳と同じ空色の花が揺れていた。  娘は花びらに触れ、一筋の涙を落とした。