花と怪物

目次

花と怪物

 森のずっと奥、朝日も差さないほど深いところに洞穴があった。そこに棲むのは名前も持たない、仲間もいない怪物だった。  怪物には、仲間がいない。当然つがいもいない。仲のいいほかの動物もいない。それは怪物が触れたものすべて朽ちさせてしまうような、触れたものすべての命を奪うような、正真正銘の怪物だったからだ。  それが呪いか自身の業か、怪物が生まれて数十年と過ぎた今ではわからない。ただ確かなのは、かつて触れた花も、拾い上げた小鳥も、助けようとした人の子も、すべて二度と動かなくなったことだけだ。  だから怪物は、どんなものにも触れないよう細心の注意を払っている。数十年の果てに選んだそれは、諦めの結果だった。  ある日、ひとり寂しくとぼとぼと森を歩いていた怪物は、ふと立ち止まった。湿った土の上に、ぽつりと白が落ちている。  季節外れの雪ではない。時間を間違えたキノコでもない。それは一輪の花だった。  白い花弁が幾層にも重なり、そよりと吹く風に揺れる。花弁から連なる茎は珍しいことに緑色ではなく、花弁よりも柔らかな白にうっすらと赤みがある。この花はさらに珍しいことに、茎の先に蕾があった。蕾にはいくつかの切れ込みがあって、そろそろ開くのでは、と怪物に期待をさせた。

「やあこれは、珍しい花だなぁ」

 怪物はしげしげと花を眺め、ぐるりと鼻の周囲を回り、そしてそっと、爪の先でつついた。いつもならこんなことはしない。けれどこれは、落ちている花だ。咲いている花ではない。もう命を終える花なのだ。

 ――手折られ、朽ちるままにされている花なら、触れたっていいはずだ。奪う命がもう、ここにないのだから。

 怪物はそっと花を抱き上げた。花にしては重かったが、怪物の体躯からすれば易々と持ち上げられる重さだ。持ち上げた花の香りはほのかに甘く、春のそよ風が吹き抜けていくようだった。

***

 森の奥、自身の住み処である洞穴へ戻った怪物は、花を水の滴る片隅へ横たえさせた。石の間に飾られた花は、暗い洞窟をほんのりと明るくした。  それからというもの、怪物は毎日花に話しかけた。森で見た物事を語り、夜の星の輝きを伝えた。

「今日、森で大きな鳥の影を見たよ」 「夜になると、星が水面に落ちるんだ。花のきみが見たら、きっと驚くだろうね」 「風が冷たくなってきたね。風よけを立ててあげよう」

 花から返事はなかったが、自分のそばにこんなにも美しい花があるだけで、怪物は満足だった。  花は怪物がそばへ寄っても身動ぎもせず、声も上げない。怪物は時々、確かめるように花に爪の先で触れた。爪の先程度なら、すぐに命を奪うことはないだろうと根拠もなく思ってのことだった。その根拠を後押しするように、花の花弁は枯れることなく白さを保っている。蕾は白さを増し青みがかってきたが、怪物は、こちらの蕾からは青い花が咲くのだろうとのんきに考えていた。  しかし、ある夜のこと。  怪物が明かり代わりの青白い光を放つ苔を準備していたとき、花が微かに声を上げた。

「……お……とう……」

 それは小さな声だった。風にかき消され、怪物の耳に届かないような声だった。怪物は驚き花を凝視したが、花がそれ以上何かを言うことはなかった。  洞穴の天井から一滴、冷たい雫が落ちる音が響いた。それが本当に水が滴り落ちる音だったのか、それとも花が流した涙だったのか、怪物には、わからなかった。

***

 ある日の昼下がり。侵入者の気配に、森がざわめいた。  土を踏みしめる音。焚き火の匂い。人間の気配。  鳥たちは空へ飛び、獣たちは木々の根の間へ身を潜めた。  怪物がいるというこの森に踏み入る人間は少ない。それなのにこんな大人数がやってくるなんて、ただ事ではなかった。  やがて火の爆ぜる音に混じって、人間の声が聞こえてきた。 「白き姫はまだ見つからないのか、あの白き衣を着た……」 「……あの夜、毒に……」 「森の奥に落ちたと聞いた……生きてさえいれば……」 「……誰かが、その手を取りさえすれば……」

 怪物は、その場に立ち尽くした。

 ――姫? 毒? 人間?

 どれも、自分には関係のないことだと思った。人間たちが探しているのは、きっと別のもの。例えば金色の髪をした、きらびやかな衣を着た人間の子。あるいは花の冠を被った、明るく笑う娘。  自分の手元にあるのは〝花〟だ。拾ったときには手折られ、落ちていた。誰からも見捨てられ、地に伏していた白い花。だからこそ、怪物は拾い上げてそばに置いている。  怪物は耳に入る声から目を逸らすように、自分の住み処のある森の奥へ戻った。

***

 洞穴に戻ると、花は静かにそこにいた。わずかに蕾を開き、花らしからぬ吐息をこぼしていた。

「……まだ、夢を見ているの?」

 怪物はそう呟いて、そっと蕾を覗き込んだ。まるで生き物の目のような切れ込みから、雫が一粒こぼれ落ちる。怪物は何も見なかったふりをして、花がこぼした雫を拭った。

 ――人間たちが探しているものは、きっともっと美しく、もっとちゃんと生きているものだ。こんなに冷たく、何も言わない花を、探すはずがない。

 だから大丈夫。これは、落ちていたもの。手折られ、忘れられた、ただの花。  もう、誰のものでもない。  自分だけの、静かな宝物。  怪物はそう信じていた。信じることでしか、そばにいる理由を持てなかった。  その夜、森にまたひとつ、雫の音が響いた。それが雨だったのか、涙だったのかは、誰にも、わからなかった。

***

 春の終わりのことだった。森の空気が湿り、草木の香りが濃くなるころ、花は渇き始めた。まるで最初からそうであったかのように、静かに、音もなく。  蕾が開くことはなかった。白い花弁は洞穴の土埃で汚れ、石の間を輝かせた姿はどこにもない。  怪物は長いこと、花の前に座っていた。声をかけることもなく、ただ、そばにいた。  森の奥に風が吹き込む。人の足音はとうに遠ざかり、気配すらない。鳥や獣たちは巣に戻っている。  外の様子は変わっていく。けれど、怪物の住み処の中だけは変わらない。  怪物はそっと呟いた。風に紛れて聞こえないような、ため息のような小ささで。

「……触れてみれば、よかったな」

 ――ただ一度、温もりを伝えてやれたなら。ただ一度、あの声に気づいてやれたなら。

 悔やんだところで、もう遅かった。  花の――姫の毒は解けなかった。姫は誰にも手を取られぬまま、春の終わりにその灯火を失った。  怪物は、姫のそばにひざまずき、手を伸ばしかけて――やめた。命の火が消えた姫だ、触れても何も問題はない。けれど――けれど。

「きみは、ぼくの花だった。けれど……だけど……」

 そこから先の言葉は、かすれて風に消えた。森の奥にはもう人の声もせず、ただ、朝がやって来ようとしていた。青い光苔がわずかに瞬き、その明かりもやがて消えた。  それからというもの、怪物はどんな落とし物をも拾わなくなった。鳥がちぎって落とした花であろうと、触れようとすることすらなくなった。  ただ一度の春に咲いた、白い幻の記憶だけを抱いて、森の奥で、誰にも何にも触れぬまま、ひとり眠り続けた。

 その眠りは今もなお、続いているという。


改稿前

 森のずっと奥、朝日も差さぬほど深いところに、ひとつの洞穴があった。そこに棲むのは、名前も持たない怪物だった。  怪物は、何も持たない。何も食べず、何もしない。己の手が、すべてを壊してしまうからだ。  触れたものは朽ちる。触れたものは枯れる。それが呪いだったか、自身の業だったか、今では誰にもわからない。しかしかつて触れた花も、拾い上げた小鳥も、助けようとした人の子も、すべて二度と動かなくなったのは確かだった。  だから怪物は、もうどんなものにも触れないことを選んだ。長い時の中で選んだそれは、諦めだった。

 ある日、一人寂しくとぼとぼと森を歩いていた怪物は、ふと立ち止まった。  湿った土の上に、ぽつりと落ちていた白。雪ではない。キノコでもない。それは、一輪の花のように見えた。  白い布が幾重にも重なり、風にふわりと揺れている。その中央には、柔らかな肌色の、冷たい蕾のようなものが見えた。  怪物は、それを長い間見つめた。それが何であるのか、どうしてもわからなかった。けれど、こう思った。

 ――この花は、手折られ、置き去りにされた花だ。ならば、もう触れてもいいだろう。壊す命なんて、もうないんだから。

 怪物は、そっとそれを抱き上げた。驚くほど軽く、温もりはほとんど感じられなかった。香りはほのかに甘く、そよ風のように手からすり抜けていくようだった。  森の奥へ戻った怪物は、それを自らの住処の一隅に寝かせた。水のしずくがしたたり落ちる石の間に、ひと房の白い花を飾るように。  それからというもの、怪物は毎日、その〝花〟の世話をした。話しかけ、森で見た物事を語り、夜の星の輝きを伝えた。食べ物を傍らに置き、慎重に触れて花弁を整え直し、決して蕾に触れないようにしていた。  触れずに世話をしていれば、このまま輝く白さを保ってくれる。そう、思っていた。  そうして時は、少しずつ過ぎていった。

***

 怪物は、花に語りかけることを日課とした。言葉を話す相手など、素より一人もいなかった。それでも不思議と、白い花を前にすると声がこぼれた。

「今日、森で大きな鳥の影を見たよ」 「夜になると、星が水面に落ちるんだ。花のきみが見たら、きっと驚くだろうね」 「風が冷たくなってきたね。風よけを立ててあげよう」

 答えは返ってこない。だが、それでもよかった。怪物にとってそれは、満ち足りた沈黙だった。  花はずっと眠っていた。白い蕾には微かに赤みが差したようにも見える日があり、その中央のめしべがふるふると震える夜もあった。  けれど怪物は、それを風のせいだと思った。花も夢を見ているだけだろうと思った。  しかし、ある夜のことだ。  怪物が明かりの代わりに青白い光を放つ苔を敷いていた晩、花が微かに音を立てた。

「……お……とう……」

 小さな声だった。とても小さく、風にかき消されそうだった。怪物は身を硬くした。が、それ以上、花は何も言わなかった。  やがて洞穴の天井から一滴、冷たい雫が落ちた。微かに、一滴だけ落ちた音がした。それが本当に水だったのか、それとも花の流した涙だったのか、怪物にはわからない。確かめるのが、怖かった。

「……夢を、見ているのかな」

 そう呟いて、怪物は花に触れなかった。ただそっと、花の枕元に苔の明かりを寄せた。  眠る者が怖がらないように。目を覚ましたとき、真っ暗でないように。  花は目を覚まさなかった。ただ、唇をわずかに震わせ、呼びかけるように音を紡いだ。

「……さむ……い……」

 怪物の手は、そこで止まった。すぐ隣に、白い蕾がある。かすかに震える花弁がある。だが、どうしても触れることができない。

 ――壊してしまう。枯らしてしまう。奪ってしまう。

 怪物は、目を閉じ丸くなった。自分はただ、この白い花のそばにいることしかできない。どう足掻いても枯れゆく花を愛でることしかできないのだと、何度も何度も自分に言い聞かせた。

***

 ある日の昼下がりだ。侵入者の気配に、森がざわめいた。土を踏みしめる音。焚き火の匂い。人間の気配。鳥たちは空へ飛び、獣たちは根の間へ身を潜めた。  呪われた怪物がいるというこの森に踏み入る者など、久しくいなかった。だが今、その数は一人ではない。声がする。火のはぜる音に混じって、言葉が届いてくる。

「……まだ見つからないのか」 「姫は……あの夜、毒に……」 「……森の奥に落ちたと聞いた……生きてさえいれば……」 「……誰かが、手を取ってやれば……」

 怪物は、その場に立ち尽くした。

 ――姫? 毒? 人間?

 どれも、自分には関係のないことだと思った。人間が探しているのは、きっと別の何か。たとえば、金色の髪をした、きらびやかな衣を着た人の子かもしれない。あるいは、花の冠をつけた、明るく笑う娘かもしれない。  自分の手元に置くあれは〝花〟だ。拾ったときには手折られ、落ちていた。誰からも見捨てられ、地に伏していた白い花。だからこそ、壊れないようにそばに置いた。  怪物は、耳に入る声から目を逸らすように、自分の巣のある森奥へ走った。

***

 洞に戻ると、花は静かにそこにいた。わずかにめしべを開き、花らしからぬ吐息をこぼしていた。

「……まだ夢を見ているの?」

 怪物はそう呟いて、そっと蕾を覗き込んだ。まるで生き物の目のような切れ込みから、雫が一粒こぼれ落ちる。怪物は何も見なかったふりをして、花がこぼした雫を拭った。

 ――人間たちが探しているものは、きっともっと美しく、もっと生きているものだ。こんなに冷たく、何も言わない花を、探すはずがない。

 だから大丈夫だ。これは、落ちていたもの。手折られ、忘れられた、ただの花。  もう、誰のものでもない。  自分だけの、静かな宝物。  怪物はそう信じていた。信じることでしか、そばにいる理由を保てなかった。  その夜、森にまたひとつ、雫の音が響いた。それが雨だったのか、涙だったのかは、誰にも、わからなかった。

***

 春の終わりのことだった。森の空気が湿り、草木の香りが濃くなるころ、花は沈黙した。まるで最初からそうであったかのように、静かに、音もなく。  唇はもう震えず、胸の上下する様子も途絶えていた。まつげには夜露が降り、それが乾くこともない。  怪物は長いこと、そこに座っていた。声をかけることもなく、滴る夜露を拭うこともせず、ただ、隣にいた。  森の奥には風が吹き込んでいた。人の足音は遠ざかり、鳥たちはもう戻っていた。外の様子は変わっていく。けれど、ここだけは変わらなかった。  怪物はそっと呟いた。風に紛れて聞こえないような、ため息のような小ささで。

「……触れてみれば、よかったな」

 ――ただ一度、温もりを伝えてやれたなら。ただ一度、その声に気づいてやれたなら。

 けれど、もう遅かった。  花の――姫の毒は解けなかった。それは、誰にも触れられぬまま、春の終わりに消えていった。  怪物は、姫のそばにひざまずき、手を伸ばしかけて――やめた。その指先が何も壊さぬようにと、最後まで恐れていた。

「きみは、ぼくの花だった。けれど……だけど……」

 そこから先の言葉は、かすれて風に消えた。森の奥にはもう人の声もせず、ただ、朝がやって来ようとしていた。青い光苔がわずかに瞬き、その灯もやがて消えた。  それからというもの、怪物はどんな落とし物をも拾わなくなった。鳥がちぎって落とした花であろうと、触れようとすることすらなくなった。  ただ一度の春に咲いた、白い幻の記憶だけを抱いて、森の奥で、誰にも触れぬまま、ひとり、眠り続けた。

 その眠りは今もなお、続いているという。