花の名も恋の呼び名も知らぬ狐よ

 いつの時代だか、場所はどこだったか。  その山には、岩ほどもあろう大きな狐が住んでいた。山の主ともいえる狐は、戯れに麓の村へ下りては人を食べていた。人以外を食べないこともないのだが、人の味を覚えてからは、人を食べねば満足できないようになっていた。  あるとき、村の代表者と名乗る者が、山から下りてきた狐に簀巻きにした仲間を差し出した。簀巻きにされた仲間は目隠しをされ猿轡を噛まされ、耳すらもおがくずだか何だかわからないもので塞がれていた。簀巻きにした仲間を狐へ押しやりながら、村の代表者どもは拝むように狐に頼んだ。

「こいつを差し上げます。年に一度、あなた様のお口に合うような者を捧げます。だからどうか、村の皆を食い尽くすのはご勘弁を」

 ふうむ、と狐は考えるふりをした。前足では、簀巻きにされた者をしっかりと押さえておいた。  狐に、村の者の頼みを聞き入れてやる義理はない。何せ狐は大きく強い。今ここで両手をすりあわせ拝む餌どもを、その大きな口に放り込んでやってもいいのだ。  しかし。近頃、餌である〝人〟が持つ道具が、やたらと狐を傷つけた。竹やら木やら、そんなものを削った道具はすぐに痛みも引く。だがどうも、この頃は様子が違う。血のようなにおいがしながらちっともうまくない、硬くて冷たい道具が毛皮の下の柔らかい部分に届くと、やたらと痛くてたまらない。傷が治るまで、何度も夜を越さなくてはならない。  あれは嫌だなぁ、と狐は声に出さず呟く。あんな深手を負わされる前に、こちらがまだ上の立場でいられるうちに、こいつらの頼みにうなずいてやるか、と獣なりに頭を働かせて扱えもしない算盤を弾いた。  裂けた口を耳まで届かせ、狐は「よかろう」とうなずいた。

「しかし年に一度では足らぬ。月に一度、わしの山へ餌を持って参れ」 「ひっ、一月に一度⁉」

 村の者が、驚いた声を上げる。途端に狐は目を吊り上げ、「不服か」と声を上げた者を睨みつけた。

「嫌なら構わん。わし自ら下山し、貴様らを貪り食うまでよ」 「お待ちください!」

 叫ぶように待ったをかけたのは、簀巻きにした仲間を押し出した、代表者の中でも特に立場が上に見える男だった。

「お、お狐様の、仰るとおりにいたします。だから、どうか、今日はこの者だけを食べて、お帰りください」

 受け入れるほかない、と思っている顔だった。狐は満足げにうなずき、簀巻きにされた者を口にくわえ、跳ねるように山へ帰っていった。簀巻きにされた餌は骨や筋ばかりでうまくなかったが、次またうまくない餌を寄越したら、村の老いも若きもすべて食べてやろうと考えることで、狐は溜飲を下げた。  こうして狐は、月に一度しか人間を食べられなくなった。だが狐は満足していた。月に一度のお楽しみと思えば、食べ方にも工夫が出る。何より、村人どもが自分に怯える様を見るのが楽しかった。生贄にされた餌が泣き喚き逃げ惑う様を見るのが楽しかった。散々いたぶり走らせたあとに食べる餌の味は、格別だった。

「うまいなぁ、楽しいなぁ」

 ――このままずっとこうしていられたらいいのになぁ。

 月に向かって笑う狐を、じっと見つめる眼があったことを、狐は知らない。

***

 その娘は、ちょうど百人目となる生贄だった。娘は自らの足で、狐の住まう洞窟にやってきた。険しい道のりでもないが、整えられた道でもない。身にまとう死に装束のような白い着物は、足下がすっかり泥や草で汚れていた。  娘は、夜の木陰よりも深い、艶やかな黒髪を持っていた。月に照らされた新雪よりも白い、傷ひとつない滑らかな肌を持っていた。流れたばかりの血で引いたような、真っ赤な唇を持っていた。冷たいとすら感じる涼しげな目で、娘は狐を見上げた。  人間であれば、ぞくりとするような美しい娘だった。しかし狐に人の美醜は関係ないし、理解もできない。狐にとって人の価値は、うまいかそうでないかだけだ。  狐は前足の上に顎を置き、にたにた笑って娘を見下ろした。

「お前はどんな命乞いをする? わしにどんな悲鳴を聞かせてくれる? 月に一度の楽しみじゃ。あまり呆気なく死んでくれるなよ、小娘」

 娘はにこりと微笑み、「あやめと申します」と狐に名乗った。そして白い腕を伸ばし、「外へ出ましょう」と洞窟の外を指で示した。

「この洞窟はあなた様の毛並みを拝見するには暗すぎます。一度、外へ」 「そう言って逃げるつもりか? この図体とわしを侮っておるな? 舐めるなよ、小娘。わしは獲物を追いかけるのは大の得意じゃ」

 逃げる獲物をいたぶることも得意だが、狐は耳まで裂けた口を閉ざし、秘密にした。あやめは涼しい顔で「逃げても無駄でございましょう」と言った。

「逃げたところですぐ捕まるだけ。そんなつまらぬことはいたしません。さあ、外へ」

 そう言うと、あやめは狐に背を向け歩き出した。結い上げず下ろしたままの黒髪が、歩くたびに揺れる。狐は不満に思いながらも、あやめの後ろをとことことついて歩いた。  洞窟の外は晴れていた。山にほかの村人が入りこんでいる気配もない。あやめは静かに山の中を歩く。狐は一定の距離を開け、あやめの後を歩いた。あやめはその距離を気にせず、目に入った植物を指で差し、その名を口にしては狐に話しかけた。

「すっかり秋でございますね。菊の花が見事に咲いております」 「キク? 何のことじゃ、何を言うておる」 「この花の名でございます。万物には名があり、名によって区別されています」

 あやめが指さす黄色い花に近づき、狐はふんふんと鼻先を寄せた。岩より大きな狐がそばに来ても、あやめは怯えず、平気な顔で狐を見下ろした。

「あなた様の毛皮のように、|黄金《こがね》に輝いているこの花が〝菊〟でございます」 「何じゃ、コガネとは」 「お狐様の毛皮のように輝く石でございます」 「ふん。うまくもないものなぞ知らん」

 狐は興味がなさそうな声で、ふん、と鼻を鳴らした。あやめは構わず、歩きながら草花や木の名を言い続ける。

「あれは桔梗。あれは竜胆。これは芒。これは通草。よく熟しておりますね。お狐様は、通草の甘さはお好きでございますか?」

 あやめがあれこれ名を言って歩くから、狐はほかのものにも名があるのか気になりだした。あやめが指で差さなかったものを見つけては「おい小娘」と呼び止め、その名を尋ねる。

「これにも名はあるのか」

 狐がどれを鼻先で差しても、あやめはすぐ答えた。いつも踏みつけるだけだった草木や花に名前があると知り、狐は大層驚いた。そして、次第に名を知るのが面白くなってきた。

「ほう、これにも名が! ではこれはどうじゃ。これにも? 何にでも名があるんじゃな。面白い、面白いのう」

 狐はあやめのそばを跳ね回り、名を聞いては覚えていく。

 ――キキョウ、アケビ、ススキ、リンドウ、キク!

 見るものすべての名前を聞いて、狐はふうむと考え込んだ。そして耳まで裂けた大きな口を意地悪く歪ませると、頭上に広がる天に鼻を突き上げ、「あれは」とあやめに尋ねた。

「あの白いものは何という? 飛んでも跳ねても届かん、小憎たらしいあいつじゃ」 「ああ、あれは」

 狐が示すものを見上げ、あやめはあっさりと答えた。

「雲でございますね」 「クモ!」

 狐は声を上げ驚いた。何せ狐にとってクモとは、粘ついた鬱陶しい巣を張る生き物ひとつしかなかったのだ。

「あれは、巣を張るあやつの眷属だったのか!」 「眷属、ではございませんが……」

 狐の驚きようを見て控えめに笑いながら、あやめは「音は同じでございますね」とうなずいた。空を見上げたまま、狐は「ふしぎじゃのう、ふしぎじゃのう!」と愉快そうに跳ねる。

「不思議じゃのう、面白いのう! 本当に、何にでも名があるんじゃのう!」

 空へ鼻先を向けたまま、ふすんふすんと鼻息を荒くして跳ね回っていたかと思うと、狐はぐるんと勢いよくあやめに向き直った。

「特別に、お前は《《まだ》》食わんでいてやろう。その代わり、わしに教えろ。お前が知っているすべてを、わしに教えるんじゃ!」 「《《まだ》》ですか。少々でも待っていただけるなら、これほどありがたいことはなし。あなた様の胃の腑へ収まるまでの間、私が知る〝名〟をすべてお教えいたしましょう」

 血で引いたような唇で緩やかな弧を描き、あやめはうなずいた。狐はあやめがうなずいたことを喜び、「さあ帰るぞ」「道すがらほかの名を教えろ!」と尻尾を揺らして跳ねた。  大きな体を毬のように軽やかに跳ねさせる狐の隣を、あやめはゆっくりと歩いた。  こうして、狐とあやめの洞窟暮らしが始まった。毎日、毎日、狐はあやめを外へ連れ出した。あやめが知る名が尽きればすぐにでも食べてやろうと考えていた狐だが、あやめは何でもすぐ答え、そして狐が思いつくより早く、狐が知らないものを指してその名を言う。狐は飽きるということを知らず、あやめからあらゆるものの名を教わる日々を送った。

***

 狐があやめと暮らし始めて、いくつの夕日を見送った頃か。  ある夜、山の向こうへ沈む夕日を見送って洞窟に戻った狐は、さほど満たされていない腹を抱えて眠りについた。あやめは狐より少し離れたところで、たくさんの落ち葉を敷いた寝床で眠っていた。  小さく寝息を立てていた狐は、寝ぼけたまま何かを口にした。そんな気がした。しかし《《それ》》が喉元を通り過ぎても腹に溜まる気がしなかったので、気のせいだと思った。それよりも、夢の続きを見るほうが大事だ。生贄に差し出された村人を追いかけ、いたぶっている最中だったのだ。狐が見る夢には、あやめもいた。あやめは狐の隣で、狐にいたぶられた村人の|腸《はらわた》を指さし、何という臓腑かを狐に説明していたのだ。  重ねた前足に顎を載せさぁ続きを見ようと目を閉じた狐は、徐々に自分の腹が痛み出すのに気づいた、痛みは増し、耐えられないほどになっていく。七転八倒の苦しみを味わい、狐はのたうち回って「痛い、痛い」と泣きだした。  暴れ出した狐から離れ、あやめは涼しい顔で狐を見つめた。

「食べ過ぎでございましょう。お狐様は、日頃から悪食でいらっしゃいますから」

 あやめの言葉を、狐は苦しみながら「違う、違う」と否定した。|悪食《アクジキ》が何かはわからなかったが、あやめはこの腹の痛みを、勘違いしているとわかった。悶え苦しみ、狐は痛みを訴える。

「痛い、痛い。刺されるようじゃ、斬られるようじゃ、噛まれるようじゃ」

 あやめの寝床である落ち葉をまき散らし、岩肌に体をぶつけながら、狐は痛みに転げ回る。暴れ回る狐に潰されないよう、あやめは狐から離れたところに逃げていた。いつでも外へ逃げ出せるよう入り口そばに座したあやめは、口元を隠し「お可哀想に」と狐を哀れんだ。その目が弓なりに細められていたことを、狐は知らない。

「痛い、痛いよう」

 子供のようにおんおん泣いて苦しむ狐を見ているうちに、あやめの表情は段々と渋いものになっていった。眉間に縦皺が刻まれたかと思うと、そっと立ち上がり、潰されることを恐れない足取りで、暴れる狐に近づいた。狐のそばに膝をついたあやめは、細腕を狐に伸ばした。

「痛むのは、この辺りでございますか」

 ほっそりした指が、狐の金色の毛並みに埋もれる。ひんやりした指が、金色の毛に覆われた熱い地肌を撫でる。狐が痛みを覚えるのは、あやめが触れたよりも下だった。

「もう少し下じゃ」

 狐が答えると、あやめも素直に手を下げ、痛いと訴える箇所を撫でた。

「痛いの痛いの、飛んでいけ」

 呪文のように繰り返し、何度も何度も狐の腹を撫でてやる。あやめの冷たい手が触れ、撫で、呪文を唱えるうちに、わずかだが狐の腹痛は鎮まった。狐が暴れなくなると、あやめは「少しは楽になられましたか」と手を離した。するとまた腹が痛んだような気がして、狐は火のついたように怒りだした。

「まだじゃ、まだ痛い! 手を離すでない!」 「楽になったなら必要ありませんよ」 「だめじゃ! 今のをもっとやれ。でないとお前を食い殺してやる!」 「|腹痛《はらいた》じゃあ、食べる元気もないでしょうに」

 呆れた顔をしつつ、あやめは狐が言うまま、腹を撫でてやった。あやめに撫でられている間は、狐の腹痛は紛れた。優しい声が「痛いの痛いの、飛んでいけ」と唱えるたび、痛みの原因が空中に飛び出していく気がした。  痛みが和らぎ、狐はまどろみだした。狐が瞼を閉じては持ち上げ、また閉じては持ち上げと繰り返していても、あやめは辛抱強く、狐を撫で続けた。  狐がほとんど眠りかけた頃、あやめの手が、狐からゆっくり離れていった。静かに立ち上がる衣擦れの音を、狐は耳をそばだてて聞いた。洞窟から出ていこうとするあやめに、狐は目を閉じたまま「どこへ行く」と声をかけた。  立ち上がる元気のない狐は、尻尾を伸ばし、行く手を塞いだ。巻きつく元気もない尻尾を押しやり、あやめは苦笑した。

「お狐様の|腹痛《はらいた》を消す薬を、用意しようかと思いまして」 「いらん」

 狐は苛立った声で、薬なんかいらないとごねた。

「お前がいれば良い。さっきのように、その手をわしに当てていろ。ここにいて、ずっとわしを撫でていろ。わしから離れようとするな、あやめ」 「でも、苦しいのはお嫌でしょう」

 たしかに、苦しかった。痛かった。あやめが離れた今、また痛みだしたのは事実だし、先ほどより苦しい気がしないこともない。狐は嫌そうに、ゆっくり尻尾を自分のそばへ寄せた。

「……本当に、戻ってくるか」 「必ず」 「本当に、わしの痛みが消えるのか」 「約束はできませんが、半分ほどにはなりましょう」

 あやめの言葉を信じ、狐は渋々、洞窟から出るのを許した。

「戻ってこなければ、お前もお前の村の奴らも、一人として残さず食ってやるからな」 「まあ怖い。では急いで行って戻らねばなりませんね」

 そう言って、あやめは洞窟を出て行った。戻ってきたのは日が昇ってからだ。  あやめの片手には、丸々太った、という言葉では足りないほどに丸々した蛙、そしてもう片手には、やたら鼻を打つ匂いの篭があった。あやめが「まずはこちらを」と差し出したのは蛙だった。人を食べないとき、狐は蛙も食べた。しかしここまで丸い蛙――まるで何かを無理矢理詰め込まれたような――は、見るのも食べるのも初めてだ。嫌がる狐に、あやめが「また痛みますよ」と脅す。渋々開いた狐の口に、あやめは鞠のような蛙を放り込んだ。狐は渋い顔で、あやめが持ち帰った蛙を食べた。  蛙はどろりとして、ねちょりとして、ねばねばして、狐の好みからはほど遠い味だった。吐き出したかったが、あやめが睨んでいるため吐き出せない。ほとんど飲むようにして、狐は蛙を胃の腑へ納めた。すると中で何やら軽く快い感覚がしゅわしゅわと広がった。同時に、何かが胃の腑の中でじたばた藻掻く感触も覚えた。はてこれは一体、と狐が首を傾げる間に、不思議な感覚は二つとも消え去り、痛みもなくなった。  目を見張り喜ぶ狐に、あやめは「こちらも」と刺激臭のする篭を差し出した。そこには草や汁や何やらが混ぜられた塊がいくつも転がっていた。狐が鼻を背け「嫌じゃ」と言うと、あやめは狐の鼻先へ手を伸ばし、むんずと掴んだ。

「これも飲まないと、また痛くなりますよ」

 脅されては従うしかあるまい、と狐は情けない気持ちで、あやめが持ち帰った嫌なにおいの塊を一つ、二つ、と口に放り込まれるがまま飲み込んだ。すべて飲み終える頃にはげっそり痩せた気分だったが、あやめが言うとおり、腹の具合はよくなった。  それでも、狐は気分が良くなかった。むすっと拗ねた顔の狐を見上げ、あやめは「どうなさいました」と尋ねる。狐は鼻をひくりと動かし、「どうもせん」と答えた。  狐の不機嫌の理由は、あやめがまとうにおいだった。嫌なにおいがした。あやめが差し出した薬のにおいが、あやめの着物に染み付いていた。かつて狐を痛めつけた、あの金気があやめの肌にまとわりついていた。そして、人間のオスのにおいが、あやめからにおう気がした。  薬のにおいも金気も不快だったが、何よりオスのにおいが狐の機嫌を損ねた。あやめから自分以外のにおいを感じるなんて、それも|異性《オス》のにおいだなんて、不快で仕方ない。  尻尾でぱったぱったと地面を叩く狐を見て、あやめは狐が不機嫌であると悟ったようだ。あやめは宥めるように、優しい手つきで狐を撫でた。狐はたちまち機嫌を直し、地面を叩いていた尻尾はぴんと高く立ち上がった。ふすん、ふすん、と荒い鼻息があやめの手に寄せられる。そこから感じる金気も、薬のにおいも、オスのにおいも、もう狐の機嫌を損ねない。

「あやめ、あやめ」

 甘えた声であやめを呼ぶ狐に、あやめは「何でございましょう」と子供をあやすように、穏やかに答える。狐は「ふふん」と笑った。

「お前がずっとこうしていると約束するならば、お前だけは食わずにいてやってもいいぞ。村人全員食い終えても、お前だけは食わずに残してやる。ずっとずっと、わしを撫でさせてやろう」

 名案だと言いたげな狐の台詞に、あやめはきょとんと目を瞬いた。それでも狐を撫でる手は止まらない。いつも涼やかな目が丸く開く様は、狐に新鮮な気分を抱かせた。やがてあやめは、ふふっと小さく笑った。

「それは、今まで食われた者に不公平でございましょう」 「フコウヘイとな? 何じゃ、それは」

 それは狐が初めて聞く言葉だった。首を傾げ尻尾で床を撫でる狐に、あやめは目を細め、答えになっていない答えを返した。

「そんな約束を迫らずとも、いつでも撫でて差し上げますという意味でございます」 「そうか。ふふん、そうか!」

 狐の尻尾が、ぶんぶんと音を立てて左右に揺れる。上機嫌になった狐はごろりと仰向けに転がり、あやめの手に額を押しつけた。

「あやめ、おい、あやめ」 「何でしょう、お狐様」 「わしにも名をつけろ。お前のように、そろいで花の名をつけろ」

 ずっと狐を撫で続けていたあやめの手が、一瞬、ぴたりと止まった。すぐまた狐を撫でながら、あやめは小さな声で「何の花がようございましょう」と呟いた。

「何でもいい。お前が選んだ花なら、わしは何でも構わんぞ」 「では……菊はいかがでございましょうか」

 あやめが小さな声で選んだ花を、狐は「キクか」と喜んで受け入れた。

「わしの毛並みと同じ色と言うておったな。覚えておるぞ。キク。キクか。よいな。良い名じゃなあ」

 与えられた自分の名に満足した狐は、あやめが浮かない顔をしていることに気づかなかった。  |菊《キク》と名乗るようになった狐は、毎日毎日、あやめを伴って野山を歩くようになった。覚えた植物の名前を言い当て、空を見上げてはそこにあるものの名前を声に出し、得意げな顔をあやめに見せる。あやめが返す笑顔が無理に作ったものだなんて、《《その日》》が来るまで、狐が気づくことはなかった。

***

 あやめに撫でられることを好むようになり、あやめが座れば即座にその膝へ頭を乗せるようになった頃だった。狐はあやめの冷たい手で毛並みを梳くように撫でられながら、ぽつりと呟いた。

「わしの名は、菊じゃ」 「ええ、そうでございます」 「お前の名は、あやめじゃ」 「そうでございますよ」 「わしが今まで食ろうた|餌ども《やつら》にも、名はあったのかのう」

 あやめの手が、ぴくりと跳ねた。狐は気づかず、うつらうつらとまどろみながら、あやめの返事を待つ。再度狐を撫で始めたあやめは、「ございますよ」と平坦な声でうなずいた。

「あなたが食べたどの《《人》》も、名を持っておりました」 「そうか。やつらにも、名はあるのか」

 そうじゃったか、と狐は呟いた。目を閉じた狐が何を思ったのか、何を感じたのか、外から見ただけではわからない。あやめは黙ったまま、目を閉じる狐をじっと見つめ、金色の毛並みを撫で続けた。

 ある日、あやめの膝に頭を乗せて仰向けに転がっていた狐は、山の麓が騒がしいことに気づいた。あやめのひんやりした手で撫でられるのを中断するのは惜しいが、何やら不穏な予感が狐を駆り立てた。

「騒がしいのう」

 そう言って起き上がろうとする狐を、あやめは一層優しく撫でて、起き上がる気を削いでしまった。

「私の耳には、何も聞こえません。ゆっくりなさってくださいな」 「そうかのう。そうかもしれんなあ」

 あやめの手で撫でられる心地よさに負け、狐は大きな頭を、あやめの膝に預けた。  しかし今度は、煙のにおいが狐の鼻をついた。再び起き上がろうとすると、あやめの手が優しくのどをくすぐって、起き上がろうとする気を削いだ。

「草木のにおいしか感じませんよ」

 金属が触れ合う音がした。|村人《えさ》の男どもが怒りを孕んでやってくる声がした。しかしあやめは「風が木の葉を揺らす音しか聞こえません」と言って、狐を撫でる手を止めず、自分の膝の上に引き止め続けた。  やがて、洞窟のすぐ外で、気のせいなんて言い張れないほどにはっきりと声が聞こえた。

「火をかけろ! 狐をいぶり出せ!」

 目にしみる煙が、もうもうと洞窟の中に満ちた。迫り来る熱が、狐に自らの命の終わりを予感させる。狐は起き上がれないまま、信じられない目であやめを見上げた。

「まさか……あやめ!」

 狐を撫でる手は、変わらずに優しい。しかし目には憎悪を燃え上がらせ、あやめは狐を見下ろしていた。

「私はお前に毒を盛るためここへ来た」

 抑えた声が、狐に殺意を告げる。

「お前に食われた人たちの、お前に家族を食われた人たちの、お前に恋人を食われた人たちの、怨みの気が凝り、蛇となり、呪いとなった。私はその蛇を飲み込み、お前に食われることでこの呪いを成就させるつもりだった」

 怒りを孕んだ声で、今にも爪を立てようと震える手で、あやめはゆっくり、狐を撫で続ける。迫り来る熱が、「早く出てこい」と狐をあざ笑う。だが狐は、動けない。

「蛇が体に馴染むまで、思ったよりも時間がかかった。お前とあれこれ言葉を交わし教えたのは、時間を稼ぐためだったのさ」

 めらめらと炎を燃やす目が、狐の瞳を覗き込むように見つめる。目や鼻を刺す煙が、狐に「穴蔵から出てこい」と急き立てる。だが狐はまだ、あやめの膝から起き上がれない。

「お前なんかにはもったいない、その菊という名は、私の母の名だ。村の者は老いて働けなくなった母を、簀巻きにしてお前に差し出した。私のたった一人の家族を、お前は筋張ってまずいと言って食い散らかした。私の大事な人を、お前たちは価値のないものと扱った。私にはおっかあしかいなかったのに。おっかあだけが私の家族だったのに」

 ぎゅうと、あやめの手が狐の毛を掴んだ。夢から覚めるように、狐は体を動かせるようになった。跳ねるように起き上がり、あやめから離れる。あやめはきちんと正座したまま、狐を睨みつける。狐はぶわりと毛を逆立てた。

「そんなこと、わしが知るか!」

 かあっと口を開き、狐はあやめを噛み殺そうとした。しかしその勢いはすぐに消え失せた。あやめの前で膝をつき、しおしおと萎れ、大きな大きな頭を、あやめの膝に乗せた。萎れた狐は、しくしくと泣きだした。

「嫌じゃ、嫌じゃ、死にとうない。なのに、お前の手から離れとうない。お前に撫でてもらえんようになるなんて、死ぬも同然じゃ。どちらも嫌じゃ、嫌なんじゃ」

 すんすんと泣く狐を見下ろし、あやめは今にも泣きそうな、痛みに耐えかねるような顔をした。

「泣くな……」

 絞り出すような声だった。堪えるような声だった。あやめは「泣くな」と繰り返した。

「泣くな……泣くな! お前は人食いだろう。人食いの獣だろう。獣のくせに涙を流すな! 死にたくないなんて、撫でられたいだなんて、そんな、そんな身勝手……許されるものか!」

 あやめが怒鳴ろうが喚こうが、狐はあやめの膝に頭を乗せたまま、めそめそと泣き続ける。子供のように泣き濡れる狐を見下ろし、あやめはわなわなと手を震わせた。未だ怨みの炎が燃え盛る目をきつく瞑り、顔を逸らし――そして、諦めたような、受け入れたような、そんな顔をした。

「……そんなに撫でられるのが好きなら」

 力の抜けた手が、狐の顔を挟む。泣きじゃくる狐に、あやめは真っ白い額を押し当てた。

「地獄でも、撫でていてあげる」

 あやめのほんのりあたたかい鼻先と、狐のひんやりと冷たい鼻先が触れ合った。  燃え盛る炎の中、狐はあついあついと苦しんだが、洞窟から出ることはなかった。外にいる村人たちは狐の苦しむ声は聞いたが、あやめの断末魔は、炎が消えても聞かなかった。  訝しんだ村人は、炎が完全に消えた後、その焼け跡を掘り返した。あやめの亡骸が見つからないことを祈りながら、念仏を唱え、手に持つ農具や武具で、燃えかすとなった落ち葉や木の枝などを払いのける。  見つかったのは、岩より大きな狐の黒焼きと、そのかたわらで正座している若い女の亡骸だった。狐は娘の膝に頭を置き、娘は狐の体に手を置いていた。その様は主を慕う飼い犬と、飼い犬を慈しむ主のようだった。  それ以来、この山では菖蒲の花と菊の花だけは咲かなくなった。どれほど種をまこうがどれだけ世話をしようが決して咲かない二種類の花を前に、村人は首を傾げる。何世代の時を経ても、その理由を知る者はいない。