その狐は、山にある神社で生まれた。三匹兄弟の末っ子だ。 母は神使として麓の村から崇められる白狐で、父は神通力を自在に操る黒狐であった。父親の血を色濃く継いだ兄狐は黒狐で、母の血を色濃く継いだ姉狐は白狐であった。そして末っ子であり主人公である名もなき狐は、生まれたときから蠅に姿を変えていた。 お産で疲れ切っている母狐のそばでぶんぶん飛び回る末狐を、父狐は「鬱陶しい蠅じゃな」と叩き潰そうとした。父狐の黒い前足が当たると思った寸前。間一髪で末狐は狐の姿に戻り、父狐に息子であると気づかせることができた。父狐は末狐が大きくなってもこの話を語り、兄狐や姉狐は「お前は運がいいのか悪いのか」と毎回笑った。末狐は笑っていいのかわからず、いつも縮こまるだけだった。 父狐は諸国を回って得た神通力で、何にでも化けられた。化けることもできれば相手を化かすこともできる。神通力を持たない母狐が麓の村の人間に豊作を祈られるたび、父狐は己の神通力で麓の村に実りをもたらした。 神通力を持つ父親と神通力を持たぬ母親の間に生まれ、三匹兄弟は化ける力だけを引き継いだ。 一番上の兄狐は、強く大きいものに化ける。牡牛、牡馬、大猪。山に住む狐たちは、皆兄狐に憧れた。 二番目の姉狐は、美しく愛でられるものに化ける。美しくさえずる鳥、しなやかな四肢を持つ猫、白い毛並みのまぁるい犬。麓に住む人間たちは、姉狐が化けた愛らしい生き物を大層愛でた。 兄狐と姉狐が良きものに化けるのに対し、末狐は生まれたときから大したものに化けられなかった。蠅や蜘蛛、百足や鼠、せいぜいが病にかかったような汚らしい野犬。そういった美しくも強くもない、つまらないものにしか化けられなかった。 つまらないものにしか化けられないくせに、ころころと姿が変わる。同じ姿を長く保つことができない。それは自分自身、狐の姿ですら保てなかった。 山に住むほかの狐たちは、自分たちも化けることができないのに、この末狐を馬鹿にした。親兄弟も、末狐を馬鹿にした。
「お前は本当に、化けるのが下手じゃのう」 「その化ける力さえなかったならば、本当にわしの子か疑うところだ」 「父上、こやつは本当は蠅かもしれませんぞ」 「蠅が狐に化けとるのやもしれませんなぁ」
そう言っては笑われ、末狐は居心地の悪さに小さくなるしかできなかった。 だがそれ以外は、何不自由なく暮らしてきた。食べるものにも、寝る場所にも、身の安全にも困ることはなかった。 そんな日々を、麓の村の誰かが壊した。 ある日、母狐が血を吐いて悶え死んだ。供えられた供物に、誰かが毒を仕込んでいたのだ。与えられたものを食べるのに慣れきった母狐は、疑いもせず食べてしまった。運悪く、この日は神社に母狐一匹だった。兄弟は山を駆け野を駆け遊んでおり、父狐は麓の村に神通力で実りを与えに行っていた。 白い毛皮を血に染めた母狐を見つけたのは、三匹兄弟が最初だった。兄狐が飛ぶように村へ駆け、父狐を呼び戻した。父狐は大鷲になって神社へ戻ったが、母狐は息を吹き返さなかった。 父狐は嘆き悲しみ、おんおん泣いた。日が暮れ、夜が訪れ、日が昇り、再び日が沈んでも、父狐は母狐のそばで泣いていた。 三日三晩泣き暮らした父狐は、三匹兄弟を呼ぶと「山を下りる」と言った。
「俺は山を下りる。こいつがおらん場所で、生きていくつもりはない」
お前たちは達者でなと言い残し、父狐は母狐の亡骸をくわえた。そして何かに化けることもせず、トットットット、と歩いて山を下りていった。 つがいの霊狐を失い、山からは急速に実りが減った。麓の村も、緩やかに実りを失っていった。 食い物がなくてはここにおれんと、ほかの狐たちも次々山を下りていく。山に残った狐は、三匹兄弟だけになった。 残った兄弟の中で、一番に山を下りたのは、兄だった。 兄は強いものに化けるのが得意だったが、大きなものに化けるせいか、大食らいだった。そのせいで、食べ物が満足に見つからないこの山での生活に、早々に見切りをつけたのだ。
「腹が減る。腹が減る。こんなところにゃいられない」
そう言って、兄は山を下りていった。 次に山を下りたのは、姉だった。 姉は美しいものに化けるのが得意だったが、母のように信仰は集められなかった。愛でるだけで崇め奉らない麓の人間どもを、姉は見限った。
「可愛がられたいんじゃない。尊敬されたい。崇められたい。あたしがいるべきはここじゃない」
そう言って、姉は山を下りた。 残ったのは末狐だけだった。末狐は大きいものに化けないから大食らいではないし、美しいものにも化けないから信仰対象になりたいとも思わない。 山には末狐一匹だけ。死なない程度に食べるものはあるし、狭い塒も一匹だけなら広々使える。 つまらないものにしか化けられない狐はたった一匹、山の中で暮らしていた。
末狐が山を下りたのは、空腹のせいだった。死なない程度の空腹だったが、つい出来心で、末狐は山を下り麓の村へ近づいてしまった。 村近くには、畑を荒らす害獣を捕まえる罠が仕掛けてあった。運悪く狐の姿で歩いていた末狐は罠に噛みつかれてしまった。 末狐が藻掻いても暴れても、罠は外れない。慌てているからか、化けても化けても小さくなれず、罠から逃げられない。 痛い痛いと泣いていたら、人間の女が末狐に気づいてやってきた。流れるような豊かな黒髪を持ち、雪のように真っ白な肌を持ち、優しい目をした女だった。女は狐を見ると「あれまぁ」と声を上げ、背負っていた篭を下ろした。篭からは、山菜の匂いがした。
「お前さん、化け狐かえ」
隠れる場所もない。うまく化けることもできない。 震えて丸くなる末狐に、しゃがんだ女はそっと手を伸ばした。
「お前さん痩せとるからなぁ。罠が足から外れても、なぁんもおかしくないわなぁ」
仕方ない、仕方ないと言って女は罠を外した。末狐はきょとんと女を見上げる。女は困った顔で「はよぉ、お逃げ」と優しく促した。
「ここにおったら、狐汁にされてしまう。自分も腹一杯食えてないもんが、ほかに食われるなんてかなんやろ」 「せやからお逃げ」と、女は狐の尻を押した。
「お父には逃げられた言うとくから、お前さんはお逃げ」
末狐は痛む足を引きずって、その場から逃げた。だが追いかけられないか不安で、末狐は一度だけ振り返り、女を見た。女は末狐を見送らず、篭を背負って立ち上がり、村への道をゆっくりと歩いていた。 末狐は、この女の匂いを忘れないよう、すん、と風に向かって鼻を鳴らした。
足の怪我が良くなった末狐は、山から下りて蠅になって女を捜した。女を見つけると、蜘蛛になって着物にしがみつき、家までついていった。家に着くと、鼠になって家の床下に潜り込んだ。 末狐は、蠅になって、蜘蛛になって、鼠になって、女の村での様子を窺った。 女は、誰にでも優しかった。 困っている者がいれば手を貸し、|飢《かつ》えている者には分け与え、嫌われ者すら慈しんで接した。 ええ人じゃな、と末狐は思った。 こんなええ人は幸せにならんとな、とも思った。 幸せって何じゃろうな、とも考えた。 末狐にとって幸せは、寝床があること、日々食べるものがあること、そして命が脅かされないことだ。ならば女がそのどれも満たされているようにと、末狐は常に女を見守った。 下の兄弟と身を寄せ合い、一緒の布団に包まっている女を見ていると、末狐はどうも妙な気持ちになった。胸がむずむずとこそばゆく、それでいてあたたかい。 この寝顔をずっと見ていたいと思いながら、お日様の下で笑う顔を見たいとも思う。 閉じた瞼の下の黒い|眼《まなこ》で俺を見てくれと思うこともあれば、つまらないものにしか化けられない自分を見ないでくれと思うこともある。 この女に近づいていると変な気持ちばかり浮かぶな、と末狐は顔をしかめた。けれどそれを感じない日々に戻ろうとは、毛の先ほども思わなかった。
それは突然のことだった。女が庄屋の家へ嫁入りすることになった。村一番の嫌われ者でありながら、村一番の金持ちが、庄屋の長男坊が、女の夫となる男だった。 末狐は大変なショックを受けた。この長男坊には良い噂が一つもない。狐が考える幸せのうち、最も大事な一つを脅かす存在なのだ。 この長男坊、嫁をもらっては一月もたたないうちに新たな嫁を探し出す。逃げられたからだととぼけた顔で言ってのけるが。村の誰もが違うだろうと睨んでいる。
「カッとなるとすぐ手が出る長男坊のことじゃ、きっと殺したんじゃろうて」
長男坊が嫁を探していると聞くと、村の誰もがこそこそと話し出す。
「神社の神使様ぁ毒食わせたんも|坊《ぼん》じゃろ」 「庄屋んとこの、川で沈んでからおかしなったな」 「河童と入れ替わってしもとるんやわ」 「ぶくーっと膨れとったもんなぁ」 「引き上げたときにゃあ、こりゃほんまに生きとるんかと思ったもんじゃ」
村のそこかしこで、長男坊の悪い噂が囁かれる。そんな男の元へ、女は嫁ぐのだ。 庄屋からの使いが持ちかけた縁談に、女は笑顔を返した。粗末な家の軒先で、女は「よろしゅうお願いしますと伝えてください」と頭を下げた。承諾したのだ。だから嫁入りが決まった。末狐は蜘蛛に化けて聞いていた。なぜそんな男の元へと、驚きとも悲しみともつかない気持ちで聞いていた。 使いの者が帰ると、山へ山菜を採りに行くと言って女は一人で家を出た。末狐は蠅に化け、慌てて女の後を追った。女が篭も持たずに家を出たからだ。いったいどこへ行くのかと心配になったのだ。 女は山に入ると、木により掛かり、ずるずるとへたり込んだ。末狐は女が寄りかかった木に留まり、女の様子を窺った。女は呆けた顔で中空を見つめ、「殺されるんかなぁ」と誰に言うでもなく呟いた。
「あたし、殺されるんかなぁ。殺されるんやろなぁ。今までだぁれも、庄屋の坊から逃げられへんかったもんなぁ」
そやけど、と女はうつむいた。
「嫁げば、白い米が毎日もらえる。野菜も、卵も家の|者《もん》に届けてもらえる。体の弱いお母に、滋養をつけさせられる。お父の苦労が減る。下の子らに、腹いっぱい食べさせられる」
木の幹に頬を押し当て、女は泣きそうな声で「我慢せな」と呟いた。
「あたしが我慢したら、何も知らん顔して嫁いだら、丸く収まる。あたしが長男坊の新しい玩具になったら……なったら」
とうとう泣きだした女に、末狐は声をかけずにいられなかった。
「庄屋の家に嫁ぐのは、嫌なんじゃな?」
突然声をかけられ、女は驚いて泣き止んだ。どこから声がかかったのかと、声の主を探しきょろきょろと辺りを見回す。木の上には蠅の姿のままの末狐がいたが、蠅が話したとはつゆほども思わない女は「誰?」と声の主に問いかけた。末狐はそれに答えず、もう一度「嫌なんじゃな?」と聞き返した。
「長男坊に嫁ぐのが、嫌なんじゃな? 本心では、怖くて仕方ないんじゃな?」
女は、うなずくのをためらっていた。末狐が辛抱強く「どうなんじゃ」と繰り返し尋ねると、観念したようにぽつりと答えた。
「……お父やお母を置いて、下の子らを置いて、死にたくない」 「わかった。俺に任せろ」
末狐は「長男坊に手出しはさせない」と請け負った。女は声の主を見つけられず、きょろきょろしながら「何で?」と尋ねた。
「何で、あたしに声かけたん? 何でそんなこと言うてくれるん?」 「それは答えられん。でも、俺はいつもお前を見とった」
お前に助けられたから、と言いかけて、末狐は言葉を飲み込んだ。言ったところで覚えていないだろうと思ったのだ。 変わろうと思っていないのに、姿が変わる。鼠になった末狐は、葉っぱを揺らして枝から枝へ飛び移ると、村へ駆け戻った。忙しくなるぞと呟いて、末狐は風のように地を走った。
末狐はまず、庄屋の家へ潜んだ。広い畑に囲まれた庄屋の家は、末狐が狐の姿のままでも忍び込めただろう。末狐は庭の蔵から屋敷へ入ると、蜘蛛になってあちこちに巣を張り、糸を伝って聞こえてくる話し声に耳を傾けた。 天井の梁にじっとうずくまって聞いている者がいるとも知らず、庄屋の家の者は様々なことを話した。 嫁が来ると喜んでいるのは長男坊ばかりで、家の者は皆、長男坊がまた嫁を殺すことを危惧していた。
「嫁が来る、嫁が来る。俺の新しい玩具が来るぞ」
子供のように喜び小躍りしている長男坊に、庄屋が疲れ切った声で諫める。
「今度は殺してくれるなよ。お前、もう何人殴り殺したと思っとる」
鈍い音と、くぐもった声。あんた、と心配する声と駆け寄る足音。ひっと息を呑む女の声。にやけた声で、長男坊が「また埋めりゃええ」と言い切った。
「埋める場所はいくらでもある。どこぞに埋めたらええやろ」
庄屋の家で起きたこと、嫁入りした女たちの行く末を聞いた末狐は、梁から下りると鼠に化けた。庄屋の屋敷は広く、床下と言わずそこここに鼠たちは潜んでいた。その鼠たちに声をかけ、末狐は蔵へ案内した。
「しかし蔵へ行っても、猫いらずがそこかしこに撒いてあるじゃろ」
中へ入るのを渋る鼠たちに、末狐は殺そ剤のにおいを嗅ぎ分け、それをすべて一所へ集めた。これに近づくな食べるなと言い含め、末狐は狐たちに頼み込んだ。
「この蔵のもんすべて食うてくれ。ここにいる鼠だけでは食い切れんじゃろうから、よそからも仲間を呼んでくれ」
鼠たちは喜んで受け入れた。あちらこちらへ知らせを伝えさせ、村中から鼠を呼び寄せた。 庄屋の家は大騒ぎになった。何せ村中の鼠が集まり、蔵に貯め込んだ食料を食べるだけでなく、家の柱という柱を囓るのだ。殺鼠剤を撒いても鼠たちは口にせず、猫を放っても家に入り込んだ野犬が猫を追い返す。 庄屋の家の蔵は、瞬く間にすっからかんになった。これでは結納ができんと、長男坊と女の結婚には待ったがかかった。 こうして庄屋の家の者が鼠の処理や結納の準備に手がかかっている間に、末狐は蠅に化け、庄屋の庭のあちこちを飛び回った。探すのは、今まで嫁いだ娘たちの亡骸だった。よほど深く埋められているのか、においはなかなか見つからない。辛抱強く飛び回った末狐は、とうとう娘たちの亡骸が埋められた場所を見つけた。 亡骸を見つけた末狐は、村のあちこちで飛ぶ蠅に声をかけ、庄屋の庭へと呼び込んだ。
「やあ、これはこれは。子を産むのに良い場所がたくさんあるではないか」 「深く埋められとるが、平気か?」 「何の何の。このくらい潜り込めましょう」
蚊柱ならぬ蠅柱が、庄屋の庭のそこここに立った。いったい何の騒ぎだと村の者が噂をする。鼠で参っていたところへ蠅柱で村の噂になり、庄屋は耐えられなくなった。
「誰でもええ、庭を暴いてくれ。俺の息子がやったことを見てくれ!」
庭へ走り出て素手で掘り返そうとする庄屋を、妻が止める。長男坊も一緒になってやめさせたが、庄屋は「見てくれ」「哀れな娘っ子たちを掘り出してやってくれ」と叫んで暴れる。庄屋がそう言うのだからと、若い衆がやってきて、総出で庭を掘り返した。 逃げたと言われ続けていた娘たちの死体が、庭のあちらこちらから現れた。庄屋も長男坊も、あっという間に取り押さえられた。これにより、待ったがかかっていた結婚は立ち消えた。女の家族は「お前がああならなくて良かった」と泣き、女も安堵の涙を流した。 さてこれで安心かと思いきや、末狐が息をつくにはまだ早かった。取り押さえられ捕らえられ、沙汰を待つはずの長男坊が逃げ出したのだ。山へ逃げ込んだやもしれんと、村人たちは山狩りの準備をする。末狐は、長男坊は女の元へ現れるのではないかと危ぶみ、蠅になって、蜘蛛になって、鼠になって、常に女のそばにいた。そうとも知らず、女は母の看病をし、下の兄弟の面倒を見、父の仕事を手伝い、家を切り盛りしていた。 山狩りの結果も芳しくなく、長男坊は山ではなく近隣の村へ流れたのではないかと村の者が噂し始めた頃だ。その頃には女も気が緩み、一人で山へ入るようになった。 篭を手に山菜を採りに入った女の前に、ずいぶん身なりの変わった長男坊が現れた。 声も上げられない女に、長男坊が迫る。
「お前は俺のもんや。俺の玩具や。お前を手に入れたらどうやって遊んでやろうと、俺はずっと考えとったんじゃ」
末狐は野犬に化け、涎を飛ばしながら長男坊に吠えかかり、その足に噛みついた。長男坊は噛まれた痛みに声を上げ、末狐を蹴飛ばした。蹴られた衝撃で一度は足から口を離した末狐だが、すぐに長男坊に飛びかかり、再び足へ噛みついた。 長男坊が末狐と格闘している間に、女は篭を落としながら村へ駆け戻った。長男坊は末狐に噛まれながら、痛む足で女を追いかける。末狐は何度も吠え、飛びかかり、長男坊の足と言わず腕と言わず、あちこちを噛んでやった。 吠え声と喚く声に、村の者たちが長男坊に気づいた。手に鍬や隙を持ち、若い衆が集まる。長男坊に逃げ場なしと見た末狐は、自分まで袋叩きに遭う前に、その場から逃げ出した。 こうして長男坊は再び捕まり、聞くところによれば、野犬に噛まれた傷が膿んで伏せってしまい、そのまま沙汰を待たずに死んだらしい。長男坊が死んだのと前後して、庄屋も亡くなった。末狐が耳に挟んだところによると、庄屋は狂い死にだったそうだ。夜な夜な死んだ娘たちが夢枕に立ったらしい。
「自分が殺したわけでもあるまいに、変な奴じゃな」
庄屋の最期に、末狐は首を傾げていた。
長男坊が死に、庄屋が狂い死に、庄屋の屋敷には誰もいなくなった。使用人たちが逃げだし、妻も実家へ帰ってしまったのだ。 二人が死んだくらいでは、妻も使用人も、家を盛り返そうと屋敷に残ったかもしれない。だが、夜な夜な化け物が屋敷の周りをうろつくのだ。化け物は一匹だが、常に姿が異なった。
「目が一つだけの大男じゃった」
そう証言する者もあれば。
「いや、手が六本の足一本の小僧が歩き回っとった」
と言う者もあり。
「顔の真ん中に大きい目が一つ、長い舌をだらぁんと垂らして、一本足で跳ねるばけもんがおった」
と震える者もいた。 そのどれもが、末狐の化けた姿だった。末狐は死んだ娘たちに化けたかったのだが、人に化けるのはとんと苦手で、どこか歪な形になってしまうのだ。だが末狐の目的はうまく化けることではなく、庄屋の屋敷から人を追い出すことだった。結果として、化けるのが失敗したことが成功の鍵となった。化け物が出ると噂になって人が集まりもしたが、末狐と出会すと泡を食って逃げ出し、二度と寄りつかなかった。 化けるのが苦手な人に化け、ゆらりゆらりと歩く末狐を恐れ、屋敷から人は逃げだし、屋敷に近づく者も減り、とうとう、庄屋の屋敷には末狐しか寄りつかなくなった。 これで良かろうか、もう少し歩き回っていようかと、末狐が悩みながらゆらゆら歩いていた朝まだき。末狐に声をかける者があった。末狐を助け、末狐が助けた女だった。
「もうええよ。もう十分よ。ありがとう」
白み始める空の下、末狐と女は正面から見つめ合った。よりにもよってこの日、末狐は目が一つで舌が垂れ下がった、足が一本の大男だった。夜が明けようとする時間といえど、末狐の姿はさぞ恐ろしいだろう。姿を隠すか逃げるか悩む末狐に、女は「ありがとう」と繰り返した。
「助けてくれてありがとう。もうええよ、もうええの。もう、無理して人の姿にならんでええのよ」
末狐は、躊躇いながら口を開いた。
「……何のことか、わからんなぁ。俺はばけもんじゃ。庄屋の家を祟るあやかしじゃ。近づくと、お前も取って食うてしまうぞ」 「食わへんよ。だって、お前さんの声、あたしを助ける言うてくれた声とおんなじやもの」
黙る末狐を優しく見つめ、女は優しい声で尋ねた。
「罠にかかった足は、もう治ったか?」
末狐は、狐の姿に戻ってしまった。女は驚いた顔もせず、しゃがんで末狐と目を合わせた。 狐の姿で話すのは怖かった。「狐が喋った」と気味悪がられたくなかった。嫌われたくなかった。 動揺から、末狐はころころと姿を変えた。 蠅に。 蜘蛛に。 鼠に。 野犬に。 化け物に。 姿が変わり続ける末狐を、女は優しい目で見つめていた。
「そうやって化けて、助けてくれたんやね。怖かったやろうに」
近寄った女は、化け物の姿をした末狐に手を伸ばした。化け物の頬に、女の手が優しく触れる。優しい温度は、なぜだか末狐に懐かしさを感じさせた。 末狐は、また狐に戻った。女もしゃがみ、優しく末狐を見下ろした。
「おおきにな。よう助けてくれたな。あたしは、どうやって恩返ししたらええんやろ」 「お……俺は」
末狐は女を見上げ、首を振った。
「お、俺は、お前に助けられた、狐なんじゃ」 「うん」 「お前に助けてもろうて、恩返ししとうて、幸せになってほしゅうて、あれこれ、しとったんじゃ」 「うん、うん」 「でも、でもほんまは……ほんまは」 「うん」 「俺はお前と……話してみたかったんじゃ」
末狐は、ありがとうと言いたかった。 末狐は、ありがとうと言われたかった。 優しいこの女ならば、優しい言葉をかけてくれると思った。それを、末狐は恥じた。
「浅ましい、俺は浅ましい。恩を返すと言いながら、本音は違った。俺も感謝されてみたかった。俺も、俺も……」 「浅ましいなんて、誰が思う?」 「浅ましいじゃろ。美しくも強くもないくせに、弱いくせに、助けられたくせに、見返りを求めとった」
そんなことない、と女は優しく狐を撫でた。
「誰かを助けよう思て行動できるのに、何で強くない? 誰かを助けよう思て行動できる心が、何で美しくない? 見返り言うたかて、お礼を言われたいなんて可愛いもんや。お前さんはきれいな心の持ち主よ。お前さんは強い心の持ち主よ。お前さんは、あたしの神様みたいな狐よ」
女の言葉が、末狐の心にじんわりと染み渡る。末狐の黒い眼から、ほろりほろりと涙が落ちた。女の両眼からも、輝く涙がぽろぽろ落ちた。
神使のいない山の麓に、庄屋のいない村があった。村からはあるときから、一人の女が消えた。庄屋の屋敷周辺に出るという、化け物の姿も同じ頃に消えた。女が夜にふらふらと家から出るのを見たという村の者は、化け物に取って食われたのだと噂した。 しかしある日、山に入った者が女を見たと言った。それから山へ入ると誰かが女を見かけるという。そのそばには、狐がいることもあれば病を患った野犬がいたり、鼠が足下をちょろちょろ走っているかと思えば、蠅が、蜘蛛が肩に乗っていたり、あるときは化け物と様々な者が女に寄り添っていた。 女を見た者がそのそばで見るのはそれぞれ違ったが、女がいつ見ても優しく笑っていたこと、寄り添う生き物がそれはそれは女を大事に思っているのがわかること、その二つだけは、共通していたそうだ。