土砂降りの夜のことだった。バケツを引っ繰り返したような雨の中、茶山花恵は傘を差し歩いていた。片手には、スーパーのロゴが印字されたビニール袋を提げている。花恵が歩く道は古い街路灯が連なり、ジィジィと耳障りな音を立てながら点滅を繰り返している。頼りない明かりの中、花恵は跳ねる雨水で足を濡らし、やけに遅い足取りだ。一歩一歩踏みしめるように、許しを請うように頭を垂れ、花恵は帰路を歩いていた。 不意に花恵は立ち止まり、顔を上げた。街路灯の明かりに、真っ白い顔が照らされる。年の頃は三十代前半だろうか。疲れた顔つきだ。もう少し若いかもしれない。花恵は夢でも見ているようなぼんやりした目つきで、花恵は右へ左へと視線をやった。ぼんやりした目が閉じられる。耳を澄ませているようだ。顔がやや、左へ傾けられる。
「……泣いてるわ」
目を開けた花恵はそう呟き、泣いている誰かを探すように、急ぎ足で歩き出した。濡れた足下がさらに濡れて汚れるのも構わず、花恵は歩く。ビニール袋ががさがさと音を立てる。跳ねる水がぱしゃぱしゃと音を立てる。花恵は気にも留めず、家路と同じ方角から聞こえる泣き声を探し、急いだ。 明滅する街路灯の下、小さな影があった。白い光に浮かび上がるのは、上半身に何も身に着けていない、年の頃は三つ四つといった子供の姿だ。短い黒髪が水を吸い、ぺたんと肌に貼りついている。いったいどこで何をしていたのか、剥き出しになった肌には、泥や草があちこちにくっついている。 うずくまった子供は小さな手で両手を覆い、額を街路灯の柱に押しつけるようにして泣いていた。花恵は躊躇なく子供のそばにしゃがみ込み、傘を差してやりながら、優しく声をかけた。
「こんなところで、どうしたの」
花恵の声に、子供はぴたりと泣き止んだ。小さな手がぱぁと開き、顔から離れる。ゆっくりと、子供の顔が花恵に向けられる。子供の額には、小さな角が生えていた。
「ばぁ」
花恵に顔を向けた子供には、目が一つしかなかった。顔の真ん中に、子供の拳よりも大きな目が一つだけ。花恵は目を瞬かせたが、驚きもせず、叫びもせず、困った顔をした。
「あなた、迷子?」
一つ目の子供――一つ目の小鬼は、つまらなさそうに唇を尖らせたが、そのまま拗ねた顔つきになり、こくりとうなずいた。小鬼の肌はうっすら赤く、その赤い肌はひどく荒れていた。一つしかない目は真っ赤に充血していて、かゆいのか、小鬼は何度も目元をこすった。体もかゆいのだろう。小さな手が剥き出しの背や腕をかきむしる。花恵は小鬼の手を取り、立ち上がらせた。
「いらっしゃいな。体をきれいにして、お薬を塗りましょう」
小鬼は不思議そうに花恵を見上げ、自分の手を握る花恵の手を見つめ、それからゆっくり、うなずいた。スーパーの袋と傘を同じ手に持ち、空いた手で小鬼の手を握り、花恵は再び、土砂降りの帰り道を歩いた。
花恵が小鬼を連れて帰ったのは、家族向けアパートだった。花恵は既婚者だった。だがこのアパートに花恵の夫はいない。つい一ヶ月前、花恵と夫は別居することとなった。花恵はそんなことをおくびにも出さず、部屋へ小鬼を連れて入ると、まず風呂に入れてやった。
「温まってかゆくなってしまうかもしれないけど、薬を塗るには清潔にしなくちゃいけないの。我慢してね」
そう言って、花恵は小鬼の体を洗うためシャワーを手に取った。背中を向けた小鬼にお湯をかけようとすると、泥や草に塗れた小さな体に異変が起きた。皮膚の至る所に、たくさんの目が現れたのだ。ぎょろりと開いた数多の目は、花恵をじいと見つめている。手を止める花恵を盗み見て、小鬼はくすくす笑った。花恵はというと、一度止めた手をすぐに動かし始めていた。
「目を閉じないと、お湯が入るわよ」
いくつもの目が自分を見ているのにも構わず、花恵は小鬼の背中に温かなお湯をかけた。ぎょろぎょろとのぞいていた目たちは、慌てたように閉じて肌と同化した。残っているのは、顔の真ん中にある一つの目だけだ。 石けんを泡立て体を洗い終えると、花恵は小鬼の目も洗うことにした。お湯から水に切り替え、洗面器になみなみと溜める。そこから両手いっぱいに水をすくうと、花恵はずいと小鬼に手を差し出した。小鬼はたじろぎ、嫌がるように首を振る。花恵は苦笑し、まずは自分の目を洗って見せた。
「大丈夫よ、洗うだけ。沁みるものは何にも入れてない。ほら、私が洗っても平気」
花恵の目が何ともないのを見て、小鬼は恐る恐る、花恵を真似て目を洗った。しかし自分では上手く洗うことができず、結局、花恵が小鬼の大きな一つ目を洗ってやった。 風呂から出た小鬼は、さっぱりした顔で廊下へ飛び出そうとした。小鬼の動きを読んでいたのか、花恵はバスタオルを広げ小鬼の体を受け止めた。タオルは小鬼の体を拭い、ドライヤーは小鬼の髪の水気を飛ばした。仕上げとばかりにバスタオルを体に巻きつけられ、ようやく、小鬼は廊下へ飛び出すことを許された。 小鬼がぺたぺた足音を立てて廊下を走る間に着替えと薬の準備を済ませ、花恵は小鬼をリビングへ連れて入った。花恵の片手は小鬼の手を、もう片手は薬箱と子供服一式を持っていた。小鬼を椅子に座らせた花恵は、机に薬箱を置いた。小鬼の肌に塗るべき薬を取り出し、優しい手つきで塗り広げていく。沁みない薬なのだろう。小鬼は不思議そうに塗り薬を見るだけで、嫌がる素振りはみせなかった。薬を塗り終えると次は服だった。薬は嫌がらなかった小鬼だが、子供服、それも上半身を覆うトレーナーは特に嫌がった。花恵は苦笑し、小鬼に優しく言い聞かせる。
「服を着ないと風邪を引いちゃうわ。あなたが着ていた服は洗濯して返してあげるから、今はこれを着ていてちょうだいね」
小鬼は唇を突き出し不満を露わにしたが、花恵が与えた服を脱ごうとはしなかった。大人しく服を着たら、次は目薬だった。これも子供用で沁みない薬なのだろう。小鬼は目を洗ったときよりも大人しく目薬をさしてもらっていた。
「いい子ね」
目薬をさし終えた花恵の手が、優しく小鬼の頭を撫でる。小鬼は満更でもない顔で目を閉じ、花恵の手を受け入れた。 ひとしきり小鬼を撫でると、花恵は立ち上がった。スーパーで買ったのは夕飯のおかずとする惣菜だった。花恵の唇は緩やかな弧を描き、小鬼を見下ろす。
「それじゃあ、ご飯にしましょうか」
テーブルに並ぶ惣菜は、ほとんどが半額シールの貼られたものだった。並ぶ食器は二人分。花恵の前には陶器の茶碗。小鬼の前には、プラスチックの青い茶碗が並んだ。隣には、持ち手がプラスチックのスプーンとフォークがちょこなんと置かれている。小鬼をかなり幼いと見た花恵の気遣いだ。だが小鬼は、スプーンとフォークの使い方すら知らないようだ。並べられた食事を手づかみで食べ始めた。それを叱ることもなく、花恵は微笑みながら食事を始めた。
「あなた、お名前は?」
花恵の問いに、小鬼はぴくりとも反応しない。右手で掴んだ筑前煮を口に放り込み、左手で次に口へ放り込む白米を握りしめる。小鬼が答えないのも気にせず、花恵は続けた。
「私は花恵。どう呼んでくれてもいいわ」
小鬼は、何も言わない。あぐあぐと獣のような声を漏らして半額の惣菜と白米を食べるだけだ。花恵は微笑ましげに小鬼を見つめる。
「私とおしゃべりしてもいいって思えたら、あなたも名前を教えてちょうだいね、小鬼ちゃん」
小鬼の大きな目が、ちら、と花恵を見る。しかし小鬼は、結局何も言わず食べ続けた。 食事を終えた小鬼の姿は、それはひどいものだった。テーブルの上も同様だ。花恵は汚れたテーブルを楽しそうに片付け、鼻歌を歌いそうなほどの機嫌の良さで小鬼をもう一度風呂に入れた。二度目の風呂から上がった小鬼が身に着けさせられたのは、子供用のパジャマだ。三、四歳にしか見えない小鬼には、少し大きいサイズだ。小鬼は服を着るのが不満そうだったが、服への不満はすぐに忘れることになった。服を着るより不快な、歯磨きをさせられたのだ。嫌がる小鬼を根気よく宥め、時に褒め、花恵は見事に歯磨きを完遂した。口の中がすっきりした小鬼は、それでも不満そうに一つ目でぎょろりと花恵を睨んでいた。 花恵は不満げな小鬼を和室に連れて行った。そこにはすでに、一組の布団が畳んだ状態で隅に置かれていた。花恵はまっすぐ押し入れの前に行くと、中からもう一組の布団を出した。その布団も、子供用のサイズだ。花恵は嬉しそうに子供サイズの布団と自分が使っているらしい布団を敷くと、小鬼を横たわらせた。
「さあ、寝ましょうね」
これまで何かと花恵のやることに不満そうな顔をした小鬼だが、布団にはあっさりと包まった。雨に打たれ、知らぬ女に風呂や食事に歯磨きといった慣れないことばかりさせられ、疲れていたのかもしれない。大きな目を閉じ、すぐに小鬼は寝息を立てた。花恵は眠る小鬼のお腹を優しく叩き、布団がめくれないよう整えてやった。
「おやすみなさい」
当然、返事はない。小鬼が起きないのを確かめると、やり残した家事を片付けるため、花恵はそっと和室から出て行った。
翌朝、花恵は足音で目を覚ました。素足で歩き回る足音はリビングから聞こえる。花恵は緩慢な動作で体を起こすと、重そうな頭を一振りした。深夜に着替えたパジャマのまま布団から抜け出す。リビングでは、昨夜の小鬼が走り回っていた。
「……夢じゃなかったのね」
そう呟いた声には、安堵が滲んでいた。花恵はもう一度頭を一振りして眠気を吹き飛ばし、朝食と出勤の準備を始めた。慣れた様子で身支度を調え、その一方で小鬼と自分が食べる朝食を用意する。昨夜の疲れ切った顔から一転、花恵の顔には輝きが戻っていた。 できあがった朝食を小鬼に食べさせながら、花恵は以前の習慣でテレビをつけた。流れるニュースは花恵にとって時計代わりだったが、小鬼にとってはそうではない。たった一つの目をまん丸に見開いて、瞳をきらきら輝かせ、小鬼はテレビの画面に釘付けになった。花恵は「あら」と声を漏らし、柳のように微笑んだ。
「私はこれから仕事に行くけど、もしあなたがまだここにいるなら、テレビを見て待っててくれる?」
理解したのかできていないのか、小鬼は画面を見つめたまま、こっくりとうなずいた。それから花恵は小鬼の昼食も用意すると、テレビの前から動かなくなった小鬼のため教育番組にチャンネルを合わせた。テーブルに用意したおにぎりとその他おやつや飲み物の説明をして、お腹が空いたら食べるよう言い聞かせているうちに、花恵の出勤時刻がやってきた。花恵は十分に説明のできないまま、慌ただしく家を出た。しかしその横顔に疲れは一切なく、やはり輝いていた。
仕事中、花恵の気がかりは小鬼のことだけだった。早く帰らねばと、花恵は持ち込まれる書類をテキパキと片付け、休憩も惜しんでブルーライトを放つ画面と向き合った。 その甲斐あってか、前日と違い、その日花恵は定時で退社することができた。慣れた帰路を大急ぎで歩き、夕飯用にとスーパーに寄ることも忘れない。ぱんぱんに膨らんだエコバッグを揺らしながら、花恵は小綺麗なアパートに戻った。
花恵がアパートに戻ると、部屋の前に見知らぬ女性が立っていた。まさしく怒髪天を衝くといった顔の女性は、花恵の部屋の真下に住む住人だった。花恵の夫が出て行くのと入れ替わりに入居してきたため、花恵との交流はない。女性は怒りに顔を真っ赤にして、帰ってきた花恵に怒鳴った。
「おたく、子供にどういう教育してるんです?」
女性が言うことには、今日は体調が悪くて休んでいたとのこと。なのに真上の部屋からどたばた走る足音やどんどんと飛び跳ねる音、興奮しきった子供の叫び声が聞こえてきて、ろくに休めなかった。女性の怒りも尤もだと、花恵は頭を下げた。
「すみません。よく言って聞かせますので」
頭を下げたくらいでは、女性の怒りは静まらない。同じことを何度も繰り返し怒鳴る女性の気が済むまで、花恵は何度も頭を下げ、謝罪を繰り返した。女性が「もういい」とそっぽを向いてようやく、花恵は部屋に戻ることができた。花恵がドアの鍵を閉めると、見計らったかのようにほかの住人が部屋から出てきた。怒鳴り疲れ息を荒らげる女性にひそひそ話しかける声が、まだ玄関にいる花恵の耳に届く。
「あそこ、お子さん死んでるわよ。去年の事故で」 「えっ」
驚く女性に、また別の女性がひそひそと耳打ちする。
「旦那さんも出てったのよ、先月」 「ええっ」
事実に相違ない。花恵は聞こえるひそひそ話に耳を傾けるのをやめ、夕飯を作るべく「ただいま」と声をかけ靴を脱いだ。 大家が部屋の前までやってきたのは、その数日後のことだ。
「困るんだよね、そういうことされると」 「はあ」
仕事帰り、スーパーでエコバッグがはち切れんばかりに買い物をした日だった。肩が外れそうな重さを支えながら、花恵は大家と向き合った。
「幽霊が出るなんて事故物件扱いされちゃたまんないよ」 「すみません」 「頼むよ、奥さん。あんたには同情してるけどさぁ」 「騒がないよう言って聞かせておりますので、もう次はないと思います。ご迷惑おかけしました」
殊勝な顔つきで花恵は頭を下げた。だが、大家が求めているのはそんな言葉ではない。大家は「次って」と言葉を詰まらせた。
「あんた、そういうのをだね……」
それから数分、花恵は大家のお説教に突き合わされた。だがどれだけ言われようとも、花恵の部屋に小鬼がいるのは事実だ。大家と花恵は平行線を辿り、諦めた大家は花恵の夫に連絡をした。その夫から花恵に電話がかかったのは、翌日のことだった。
「少し話そう、花恵」
別居中の夫は、花恵を近くの喫茶店に呼び出した。暴れないよう小鬼に言い聞かせ、花恵は夫の呼び出しに応じた。その日の天気は、雨だった。 喫茶店ではジャズと雨音が交ざり合い、客の誰もがその静けさに浸っていた。話し合うためにやってきた花恵とその夫も、しばらくの間、向かい合いながら互いに互いを見ず、音楽と雨音に耳を傾けた。口火を切ったのは、夫だった。
「あの子は、もう死んだんだ」
口にするだけで身を切られるような言葉を、夫はあえて口にした。花恵は夫に目をやった。夫の目には、深い悲しみがあった。
「あの子は死んだ。もう一年だ。吹っ切れとは言わないよ。吹っ切るなんて無理だ。僕らの初めての子供だったんだから。だけど……」 「わかってる」
花恵は夫の話を遮った。死んだ我が子のことを話題にされるのは、一年がたった今でもまだ悲しみで胸が張り裂けそうだった。
「私たちの可愛いあの子はもういない。わかってる。でも、|小鬼《あの子》はいるのよ。いない子扱いできないわ」
夫は、悲しそうな目で花恵を見た。花恵もまた、理解を得られなかった目で夫を見る。二人は黙り込んだまま、しばらく音楽と雨音を聞いていた。 アパートに帰った花恵は、テレビの前で足を投げ出し座る小鬼に「ただいま」と声をかけた。くるりと振り向いた小鬼は、声こそ出さないもののこくりとうなずき、またテレビに顔を向けた。テレビに夢中になっている小さな背中を見つめ、花恵はそっと、その隣に座った。
「あなたとあの子は違うのにね」
花恵の手が、小鬼の頭を優しく撫でた。花恵によって清潔を保たれ、今や肌荒れはなくなり、目の充血も引いている。花恵に撫でられくすぐったいのか、小鬼はきゃっきゃと笑い声を上げた。
小鬼を拾って、幾日が、幾週が過ぎた頃か。その夜は土砂降りだった。早く帰った花恵は、小鬼に手作りの夕飯を振る舞っていた。花恵との生活に慣れた小鬼は、今や自分の手でスプーンを握って食事をとれるようになっていた。小鬼の成長を微笑みながら見守っていた花恵は、久方ぶりに鳴るチャイムで玄関へ顔を向けた。同時に、小鬼の顔が強張る。花恵は小鬼の表情の変化に気づき、警戒を露わに「はい」と返事をした。
「どちら様ですか」
ドアチェーンをかけながら、ドアの向こうにいる客人に尋ねる。ドアスコープを覗いても、客人は距離が近すぎるのか、暗い影しか見えない。
「あんたが世話ぁしてくれた小鬼を引き取りに来た」
地面が揺れているような、低い声だった。花恵は小さく、ああ、と息を吐いた。何となく、こんな日が来ると思っていたのだ。それを肯定するように、後ろからぺたぺたと足音が聞こえる。花恵と出会った土砂降りの日に着ていた服を抱えた小鬼が、玄関までやってきていた。花恵は鍵を開けた。ドアチェーンが許す範囲までドアが開く。ドアの向こうにいるのは、天井まで届くほどの大柄な人影だった。ぼろぼろの着物をまとい、肌は血のように真っ赤で、口から牙が飛び出し、顔の真ん中にフライパンのような大きな目が一つだけの、大きな鬼が立っていた。大鬼は、小鬼に「はよぉ出てこい」と手招いた。
「百鬼夜行も、お前がおらねば九十九夜行じゃろうが」
小鬼は大鬼を窺うように見上げ、花恵を振り返った。顔には「帰りたくない」と書いてあるが、「帰らなきゃいけない」とも書いてある。花恵は寂しそうに眉を下げ、小鬼の前にしゃがんだ。
「あなたにも、お仕事があるのね。仕方ないわ」
すっかりさらさらになった黒髪を名残惜しげに撫で、花恵は噴き出しそうなあらゆる感情を微笑みで抑えつけた。
「楽しかったわ。ありがとう」
小鬼はうなずき、手を振りながら出て行った。小鬼が出て行き、大鬼も消え。玄関はがらんと静かになった。花恵はしばらくの間、ずっと玄関に立ち尽くしていた。
小鬼がいなくなっても、明日はやってくる。 花恵は静かに起きだし、緩慢な動作で身支度を調え、テレビをつけることなく朝食をとり、静かに出勤した。仕事を終えればスーパーに寄り、安くなった惣菜を買い、ビニール袋に詰め込んでもらったそれらを携え帰宅する。一人の部屋で温かくない夕食をとり、億劫がってシャワーで入浴を済ませると、一人分の布団を敷いて眠る。 そんな日々を幾日も過ごさないうちに、また土砂降りの夜がやってきた。帰宅していた花恵は、降りしきる雨の音に耳を傾けながら、和室の真ん中でぼんやりと座っていた。
「……あの子がいなくなったのも、こんな雨。あの子と出会ったのも、こんな雨。あの子が帰っていったのも、こんな雨だったわ……」
畳の目を数えているわけでもないだろうに、その目は畳の上をなぞっている。生気の抜けた顔の花恵は、しばらくぼうっと座り込んでいた。弾けるように顔を上げたのは、チャイムが鳴ったからだ。花恵は目を見開き、よろよろと立ち上がった。返事をする時間も惜しみ、ドアチェーンもかけずドアを開け客人を迎える。そこには、あの夜の大鬼と出て行ったはずの小鬼が立っていた。小鬼の手を引いた大鬼が、ずいと小鬼を花恵へ押しやる。
「てれびだの何だのわけのわからんことを言うて話にならん。こいつはもう、あんたが引き取ってくれ!」
花恵の返事も待たず、大鬼は小鬼を玄関の中に押し込み乱暴にドアを閉めた。先日の夜には聞こえなかった足音が、ずしん、ずしんと響く。よほどご立腹のようだった。玄関に残ったのは、あっけにとられた花恵と、拗ねた顔で恥ずかしそうにうつむく小鬼だけだ。 小鬼に顔を向け、花恵はゆっくりと微笑んだ。 しゃがみ込んだ花恵は、小鬼と目線を合わせた。恥ずかしいのか、気まずいのか、小鬼はぷいと花恵から顔を逸らす。花恵はそれを気にしなかった。
「おかえりなさい」
花恵の一言に、小鬼の目が丸く見開かれる。おずおずと花恵に顔を向けた小鬼は、花恵の顔に笑みが浮かんでいるのを見ると、自らも明かりが灯ったように笑顔になった。
「たらいま」
笑顔の小鬼に、花恵は手を差し出した。小鬼の小さな手が、花恵の手を握る。小さくか弱い手を握り返しながら、花恵は「ご飯にしましょう」と優しく声をかけ、リビングへ促した。 何もかもを拒むように、かちゃんと、静かに鍵のかかる音がした。