オビーはとっても素直な女の子。とある国の森の奥深く、古いお城に住まう見習い魔法使いです。お城にはオビー以外にもたくさんの見習いがいます。魔法使いは男の子も女の子も区別なく、同じ数だけお城に暮らしていました。 お城にいる見習いの中には、いつも褒められる優秀な子と、いつも叱られるみそっかすがいました。残念なことに、オビーはみそっかすの中のみそっかす。お城に住まう偉い魔法使いは、オビーの前ではいつも呆れ顔。周りの弟子たちはそれを見て、いつもオビーを馬鹿にします。
「オビー、お前ほんとにあの大魔法使いの孫なのか?」
そう言われるたび、オビーは自信をなくしました。オビーの祖父は大魔法使い。竜をも手懐ける大賢者。オビーが今いるお城も、元は祖父が魔法で建てたものでした。オビーは小さい頃からこのお城で暮らし、いつか自分も祖父のような魔法使いになるのだと思っていました。けれど現実のオビーは、みそっかすの中のみそっかす。祖父の背中は遠ざかるばかりでした。 ある日の授業で、オビーを含めた弟子たちは魔法円を教えられました。魔法使いは弟子たちに、この魔法円を使って《《何か》》を呼び出すよう言いつけました。
「蛙でも蜥蜴でも、精霊でも悪魔でも、自分の身の丈に合ったものを呼び出しなさい」
賢いウィズは、風の精霊を呼び出しました。勇敢なイヴは、火を噴く蜥蜴を呼び出しました。ほかの弟子たちも二人と似たようなものを呼び出します。みそっかすと呼ばれる弟子たちでも、賢い梟を呼び出せました。ではオビーはというと……。
「おいおい、オビーの魔法円を見てみろよ!」
意地悪トフィーが指さす先には、縮こまるオビーと蟇蛙。のどを膨らませ鳴く蛙の声に、弟子たちは一斉に笑い出しました。オビーはただただ、ローブに首を埋めるように肩を竦めることしかできません。笑う弟子たちを、魔法使いが大きく手を叩くことで静かにさせました。
「身の丈に合ったものを呼び出すよう言ったはずです。イヴ、足下をごらん。お前のローブの裾は焦げているよ。ウィズ、お前の呼び出した精霊が火の勢いを強くしているじゃないか。それからトフィー、お前の梟は窓から逃げましたよ」
その点、と魔法使いはオビーを見やりました。蟇蛙は未だ、魔法円の中でのどを膨らませています。
「オビーはしっかり、自分が魔法円から出さないものを呼び出しました。力量に見合うものを呼び出す。これは基本です」 「ってことは、オビーは蟇蛙程度の力量ってことだな!」
トフィーの台詞に、周りの弟子たちがまた笑い出しました。魔法使いは、今度はもう何も言いません。オビーは恥ずかしくて恥ずかしくて、消えたいと願いながら授業が終わるのを待ちました。 授業を終えて自由時間になると、オビーは一目散にその場を逃げ出して、自分しか知らない祖父の書斎に駆け込みました。 小さい頃はいつでも祖父がここにいて、オビーの話をうんうんと聞いてくれたものです。けれどもう、オビーの祖父はどこにもいません。オビーが見習いになる一年前に、土の下で眠りにつきました。 オビーは祖父の書斎に入ると、本棚の本を片っ端から抜き出しました。みんながあっと驚くようなものを呼び出すためです。みんながオビーを笑わなくなるようなもの。みんながオビーを馬鹿にしなくなるようなもの。それはもう、悪魔しかいません。 悪魔の呼び出し方を記した本は、とてもわかりにくい場所にありました。祖父の書斎に入り浸っていたオビーでなければわからないような、そんな場所に隠してあったのです。
それからオビーは、悪魔を呼び出すのに必要なものを用意しては祖父の書斎に忍び込みました。準備が整う頃には、みんなから笑われたあの授業から、一ヶ月が過ぎていました。
みんなが寝静まった、新月の夜。オビーは本を開いて、魔法円を描いて、呪文を唱えました。しかし魔法円は光もせず、煙も発さず、書斎はしんと静かです。 これも失敗かとオビーが肩を落としたそのとき、背後から「こんばんは」と声をかけられました。跳び上がったオビーが振り向くと、そこには、三つ揃いの紳士服を着た悪魔が立っていました。 赤い角に黒い髪。紺色の肌に赤い瞳。尖った耳に尖った歯。爪も尻尾も触れるだけで血が出そうなほど尖っています。 そんな恐ろしい容姿とは裏腹に、悪魔の物腰は丁寧です。仕立ての良い服と質の良い杖、よく磨かれた靴が紳士然とした空気を醸しているせいでしょう。 悪魔は恭しく腰を折り、オビーの手を取りました。
「お呼びでしょうか、リトル・レディ」
悪魔の声は、今までオビーが聞いた誰の声よりも優しく穏やかでした。悪魔の紳士的な物腰に、オビーは自分が淑女になったような気分になり、照れてしまいました。気恥ずかしさにへどもどしながら、オビーは悪魔に呼び出した目的、その願いを言いました。
「わ、わたし、ほかの弟子に馬鹿にされないような、おじいちゃんみたいな、すごい魔法使いになりたいんです」
悪魔は「そうですか」と微笑むと、ひらりと一枚の紙を取り出しました。そこには〝契約〟と題が書かれています。インクが滲むように、文字が浮かび上がります。 悪魔は微笑んだままオビーに書面を見せ、ペンを差し出しながら「それでは契約を」と持ちかけます。素直なオビーですが、ここばかりは素直にうなずけません。悪魔との取り引きには見返りが、代償があるものです。オビーは悪魔に見返りを尋ねましたが、悪魔は優しい微笑みを返すだけで教えません。
「あなたが私に魔法を使わせた分だけ、呼び出した代償に上乗せする形です」
どうやら、悪魔に答える気はないようです。契約を結ばなければ、悪魔を向こうへ返すこともできません。にこにこ微笑む悪魔に根負けし、オビーはペンを受け取りました。しかしそこにはすでに、オビーの名前があります。あとはもう、血判を押すだけになっています。ナイフを持っていないオビーの指を、悪魔が鋭い爪でちくりと刺しました。悪魔の角よりも真っ赤な血が、契約を結ぶことに同意します。悪魔はとろけそうな笑みを浮かべ、燃えるような赤い瞳でオビーを見下ろしました。
「ではこれから、私の力はあなたのものですよ、オビー」
――名前を教えた覚えはないのに、どうしてこの悪魔はわたしの名前を知っているんだろう。
不思議に思いつつ、みそっかすのオビーは悪魔に尋ねることもせず「よろしくね」とうなずいたのでした。
それから悪魔は、どこに行ってもオビーのそばにいました。 授業ではオビーの後ろに、お昼時にはオビーの隣に、私室ではオビーのベッドを椅子代わりに、オビーを見守りました。授業でオビーが指名されれば、オビーの動きに合わせて、その場にふさわしい魔法を使います。オビーではなく悪魔が使う魔法であることに、見習いはもちろん、先生である魔法使いたちも気がつきませんでした。
「おじいさん譲りの才能が、やっと目覚めたんですね」
先生だった魔法使いは泣いて喜びました。
「やるじゃない、オビー」 「見直したよ、オビー」
ウィズやイヴのような、優等生の見習いたちもオビーをもてはやしました。みそっかすのオビーは、優等生のオビーに大躍進です。けれどオビーは得意になることなく、毎回一人きりになると、きらきら光る目で悪魔を見上げました。
「すごい、すごい! |悪魔《あなた》って、あんな魔法も使えるのね!」
オビーがそうやって悪魔を褒めると、悪魔は目をとろけさせて微笑みます。いつもはそうやって微笑むだけで、悪魔はオビーに何も言いません。しかしその日、悪魔はオビーの上気した頬に触れました。
「あなたはいつも、そうやって私を見ますねぇ、オビー。あなたの目はまるで、星がちりばめられた夜空のようだ」
赤い目が炎のように揺れ、怪しく輝いているのにオビーは気づきました。離れようとしても、体は一歩も動きません。焦るオビーの頬を優しく何度もなぞりながら、悪魔はじぃっとオビーを見つめます。
「契約の見返りは、あなたの瞳にしましょうか。きっと私の手の平の上でも、あなたの瞳はきらきらと光るでしょうね」
赤くなっていたオビーの頬は、サッと青ざめました。それを見るなり、悪魔の目の怪しい輝きはなりを潜め、悪魔の笑みは貼り付けたような笑みに変わりました。
「冗談ですよ」
悪魔の紺色の手が、オビーの頬から離れます。去り際、ほんの少し悪魔は力を込めました。悪魔の爪がちくりと刺さり、オビーの頬に短いひっかき傷を残します。悪魔は引っ込めた自分の指先を――そこに付着したオビーの血を――ぺろりと舐めました。悪魔の舌は、青色でした。悪魔の舌の色を見て、オビーはようやく、自分の体が動くことに気づけました。
それから悪魔は、オビーにたくさんのものを要求してくるようになりました。
「走るたび、小動物の尾のように揺れる、あなたの艶やかな髪をください」
そう言って、オビーの髪を一房すくいます。
「小鳥のような麗しい声を出す、あなたののどがほしいのです」
そう言って、オビーののどをゆっくりとなぞります。
「真珠のような歯がのぞく、このさくらんぼのような唇をくれませんか」
そう言って、オビーの唇に何度も指を滑らせます。
「不器用なくせに優しい指がほしい」
そう言って、オビーの不器用な指を紺色の手で包み込みます。 要求される度、オビーは体が動けなくなりました。その度にオビーは怖がり、揺れる瞳だけで拒否します。見返りを拒否しても、悪魔はオビーに契約違反だとは言わず、微笑んで自らの手を引っ込めました。離れることもせず、ずっと、オビーのそばにいました。 悪魔に見返りを要求されるのが怖くなったオビーは、悪魔に魔法を使わせなくなりました。そのお陰で悪魔に恐ろしい要求はされないものの、オビーはまたもみそっかすに戻っていきます。馬鹿にされても、落胆されても、オビーはめげません。オビーは自分の力で立派な魔法使いになろうと努力しました。
その日もオビーは、自分の部屋で明日の授業の予習をしていました。本を開いてぶつぶつ呪文を呟くオビーを、悪魔はにこにこと見守っています。オビーは悪魔の視線に気づきません。 悪魔が「オビー」と優しい声で名前を呼びます。
「最近は、私に魔法を使わせませんね」 「う、うん……。わたし、自分でがんばりたくなったの」 「それは、もう|悪魔《わたし》が必要ないということですか?」
その問いに、オビーは「うん」とうなずけませんでした。授業で褒められる日々、みんなからちやほやされる日々が、忘れられないからです。 けれど頭を二、三度振って、オビーは「もういいの」と小さな声で肯定しました。悪魔は怒ることも悲しむこともせず、「そうですか」と穏やかな声でうなずきました。
「では、今までの見返りを精算しましょう」
オビーの肩がびくっと跳ねました。振り向くと、悪魔はやっぱりにこにこして、オビーを見つめています。笑顔の悪魔は紺色の指を振って、何もないところから小瓶を取り出しました。透明な小瓶は悪魔の大きな手どころか、オビーの小さな手にもすっぽり収まりそうな大きさでした。 悪魔は鋭い歯を覗かせながら、オビーに最後の見返りを要求します。
「ここに入るだけの見返りを要求します」
小瓶の小ささでは、オビーの目を取りだして入れることなんて叶いません。指だって、小瓶の入り口が狭くて爪の先も入らないでしょう。髪ならば、毛先をちょっと切るだけでいっぱいになりそうです。 そのくらいの髪ならいいかな……とオビーが考えていたら、悪魔の紺色の手がオビーの髪に伸ばされました。
――なんだ、やっぱり見返りは髪なんだ。
オビーがほっとしていたら、悪魔はオビーの髪を一房すくい、笑みを深めました。かと思うと、悪魔はどんどん大きくなります。悪魔に触れられていた髪はするりと滑り、悪魔の手から離れました。オビーは焦って、周りを見渡しました。そうしてオビーは、自分が思い違いをしていたことに気づきました。 悪魔が大きくなっているのではありません。オビーが小さくなっているのです。本棚も、ベッドも、何もかもがオビーの何倍、何十倍の大きさになっていきます。 あっという間に、オビーは悪魔の手のひらにちょこなんと座れるほどに小さくなりました。ぽかんと口を開けて見上げるオビーを、悪魔はそっと摘まみ上げ、小瓶の中へ優しく仕舞い込みます。
「あなたの目も、髪も、手足も声も唇も、どれも見返りに選んでもらえませんでした。あとは……あなたを丸ごともらうほかありませんよね、オビー?」
うっとり笑う悪魔の目は、赤く怪しく輝いています。見上げているうちに、オビーは頭がぼうっとしてきました。声も上げられないままオビーはただ、小瓶の蓋がキュッと閉じられる音を聞いていました。