小学四年生の頃だっただろうか。私の父と母が同時に亡くなったのは。作家の父は書斎で、占い師の母は事務所で倒れていた。心臓発作だったらしい。 二人はそれなりの財を築いていて、私以外に子供はいなかった。そのせいか、お通夜の日には知っている親戚はもちろん、知らない親戚もたくさんやってきた。 誰が私の後見人になるか。誰が私を――遺産を管理するか。そんな話ばかりが頭の上を飛び交っていて、私は悲しむ余裕もなかった。
――ああわたし、これから一人でたたかわなくちゃ。
そう思った瞬間だった。すらりと背が高くて、とても上品なスリーピースを着たお兄さんが、煙のように私の前に現れたのは。 お兄さんはお面のような笑みを浮かべ、私の前でわざとらしいくらい恭しく片膝をついた。
「初めまして、栗本|萌愛《もあ》様。わたくしは悪魔です」
親戚の人たちはお兄さんにも、私にも見向きもしなかった。あのときはまるで、私たち二人して透明人間にでもなったみたいだった。 膝をついたお兄さんは私と目線を合わせたまま、なぜ私の前に現れたかを話した。
「生前、萌愛様のご両親はわたくしと契約を交わしておりました。自分たちの身に《《何か》》起きれば、あなたが寿命を全うするまで守るようにと」
悪魔を名乗るお兄さんの言葉を疑わなかったのは、父の書斎にたくさんの怪しい本があるのを知っていたからだ。母もそういったものを否定しない人だったから、私もさほど、そんな世界に拒否感を抱いていなかった。 それよりも、両親の死を悼まずお金の話ばかりしている大人たちへの拒否感が強かった。泣く暇も与えてくれない空気に耐えられなかった。
「ほんとに、守ってくれる?」 「ええ、もちろん」 「うち、誰にもとられない?」 「奪わせません、何一つ」 「じゃあ……じゃあ、お葬式も……おじいちゃんおばあちゃんだけ来てくれたらいいって、わがまま言ってもいい?」 「そんなの、わがままにも入りません」
悪魔のお兄さんはお面みたいな笑みをさらに深い笑みに変えると、ぱちんと指を鳴らした。途端、喧々囂々としていた大人たちが口を閉じた。知らない親戚たちが、ぐるりと白目をむいて立ち上がる。
「招かれざる客にはさっさとお帰り願いましょう」
ゾンビのような形相で知らない親戚が出て行き、次いで遺産をほしがっていた親戚たちも似たような様子で出て行った。残されたのは、私とお兄さんだけだ。
「さて、次はおじい様たちですね」
お兄さんは立ち上がり、顎へ手を添えふむと考え込む。
「父君のご両親は渋滞に巻き込まれているようですね。母君のご両親はすでに父親が亡くなられていると。では母君の母上は……ああ、入院中ですか。であれば父君のご両親をまずこちらの玄関へ移動させ、母君の母上は症状を一時小康状態にして退院させ――」 「お兄さん」
あれやこれやと手筈を整えようとしてくれているのに、私はお兄さんの上着を掴んでいた。今まで触ったことのないような上等な生地だったけれど、そんなことに構う余裕はなかった。
「お父さんたち、生き返らせて」
お兄さんは、簡単に親戚を追い返した。指を鳴らすだけであんなことができるんだから、お父さんたちを生き返らせることだってできるはずだ。そう思った。だけど、お兄さんは笑みを消して首を振った。
「確かに我々悪魔は魂を扱います。けれどそれを体へ戻すことは不可能です」
笑みを消しても、お兄さんの目は細かった。なんだかそれがとても可笑しく感じたのは、お兄さんの言葉がとてもショックで、悲しくて、受け入れられなくて、違うところに注目することで誤魔化そうとしたんだと思う。
「……そっか」
上着から手を離した私を、お兄さんはしばらくじっと見ていた。そしてまた、膝をついた。そのときにはもう、お面みたいな笑みが顔に戻っていた。
「ですが契約は守ります。あなたのことは必ず守り育てますよ、萌愛」 「うん……ありがとう」
お兄さんはほかにも私の希望をあれこれ聞いてくれた。学校の友達と離れたくないことも、祖父母とまめに会いたいことも、ブロッコリーはなるべくお弁当に入れてほしくないことも。
「あなたを守り育てること。これはあなたの父君たちとの契約です。ですが今後、あなたがわたくしに頼むことはあなたとわたくしの契約になります」 「よくわかんない」 「父君たちの契約に反することや契約外のことをわたくしに願うなら、対価をいただきますよということです」 「わかった」
何一つわかっていなかったけれど、私はうなずいた。悪魔との会話でそんな簡単にうなずいちゃいけなかったけれど、小学生の私にはそんなことちっともわからなかったし、きっと大人になってからでも簡単にうなずいてしまっていただろう。
「さてそれでは、これよりわたくしは萌愛の保護者ですが……悪魔では不便でしょうね。人間らしく、|阿久《あく》|真《まこと》とでも名乗りましょうか」
悪魔のお兄さんがそう言って、私とお兄さん――阿久真さんとの生活が始まった。
それから数年。中学生になる頃には、阿久さんと二人の生活にすっかり慣れていた。 悪魔だからか、阿久さんは嘘つきだった。ブロッコリーはお弁当に入れないでって言ってるのに、毎日の献立に組み込んでる。祖父母とまめに会いたいと言ってたのに、会えるのは夏休みと冬休みぐらい。小学校はそのままだったけど、卒業直前に市町村の合併がどうのこうので、友達と違う中学校に通うことになった。
「阿久さんの嘘つき!」 「契約に基づいた願いならきちんと叶えますとも」 「阿久さんの契約高いからやだぁ」
ブロッコリーを出さないでと言えば、献立一回につき寿命一年。 祖父母たちと会いやすくなるよう引っ越してきてもらってと頼めば、一人につき寿命十年。 合併の話を白紙にしてと言えば、寿命五十年を求められた。 ブロッコリーの時点で破産が確定してしまってる。
「阿久さんのそういうとこ悪魔過ぎると思う」 「悪魔ですからね」
すっかり保護者が板についた阿久さんは、出会った頃と変わらないスリーピースに真っ白なエプロンが標準装備。変なのと思うけど、阿久さんは白いエプロンを気に入ってるみたいだからあえてつっこんだりはしなかった。 それよりも大事なのは、今の時期。そう、夏も終わろうという今の時期。私の住む町で、過ぎゆく夏を惜しむ祭りが執り行われる。 そして! 私は今年、初めての彼氏と浴衣デートをすることになっていた!
「ねえねえ阿久さん、頼んでた浴衣用意してくれたー?」
台所で忙しそうにしている阿久さんに、阿久さんが用意してくれたそうめんをすすりながら尋ねる。瞬きする間に、さっきまで台所に立ってた阿久さんがリビングにいる私の横に立っていた。
「ええ、準備はできていますよ。こちらでどうです?」
阿久さんが手に持っていたのは、藍色の浴衣だ。ちょっと地味な柄だけど、触り心地は最高で、とっても涼しげ。どうやらこれはお高いものらしい。
「藍染めには虫除けの効果があります。どんな虫がいるかわかりませんし、これを着るのがよろしいかと」 「わあ、ありがとう! じゃあ夕方に着付けてね」 「寿命一年になります」 「たっか! じゃあいいよ、着方教えて」 「寿命三年になります」 「うええ高いよぉ」
文句を言っても、阿久さんは寿命一年どころか一日もまけてくれない。仕方ないから寿命一年を約束して、夕方、浴衣を着付けてもらうことになった。 阿久さんはいつでも、何でもてきぱきこなす。浴衣どころかスリーピース以外着てるところを見たことがないのに、阿久さんは戸惑うことなく手を動かして私に浴衣を着付けた。
「髪を結うのはサービスにしておきますよ」 「やったー」
着付けてもらう間、私は暢気にスマホをいじっていた。検索画面に、藍染めとは、と打ち込む。検索結果には、阿久さんが言う通りのことが書いてあった。
「へー、藍色の染料ってほんとに虫が寄ってこないんだ。これ発見した昔の人ってすごいね」 「そうですね」
帯をきゅっと締める阿久さんが、にこりと微笑む気配を感じた。
「これさえ着ていれば、悪い《《虫》》は一切あなたに寄りつきませんよ。何せわたくしが染めましたから」 「えっ、そうなの? じゃあカナブンも寄ってこない?」 「ええ、来ません」 「カトンボも?」 「あらゆる虫が対象です」 「やったぁ嬉しい! 私もハル君も、虫苦手なんだ。ありがとう阿久さん!」 「礼には及びません。対価はいただいてますからね」 「えっ、何年?」 「いえ、そちらとは別件です」 「えええ何を支払っちゃったの私?」 「大したものではありませんよ。少なくとも、あなたの健康は害されません」 「じゃあいっか!」
深く考えないところが私の悪いところであって、いいところでもある。 きれいに着付けてもらって、きれいに髪を結ってもらって、準備は万端。意気揚々と出掛けた私は、Uターンするようにすぐさま家へ戻った。怒りと悲しさで涙を滲ませた状態で、だ。
「お早いお帰りで。どうしました? 忘れ物ですか?」
違う、と私は首を振り、肩を震わせた。
「ハルくん、ほかの女の子とも約束してた……最低……」 「おやそれは、お気の毒に」 「もう! 落ち込んでるんだから笑わないでよ!」 「私はいつもこんな顔です」 「そうだったね! もう!」
ぷんすか怒る私を、阿久さんは「機嫌を直してください」と言いながらとリビングへ案内した。テーブルには、私の好きなおかずばかりが並んでいる。
「さあ、美味しいものでも食べて忘れてしまいましょう」
ぐぅ、とお腹が鳴る。お昼もしっかり食べたけど、夕飯は屋台で済ませるつもりだったから、もうすっかりぺこぺこだ。 手を洗ってテーブルに着き、拗ねた顔のまま箸を手に取る。阿久さんが「不機嫌な顔も可愛らしいですね」なんてふざけるから、私の顔はますます不機嫌そうになっただろう。 でもそれも、阿久さんの料理を食べてしまえば続かない。和洋中問わず並べられた私の大好物。一口食べれば微笑まずにはいられない。
「阿久さんの料理はいつでも美味しいね!」
すっかり機嫌を直して箸を伸ばす私の隣で、食事をしない阿久さんがぽつりと呟く。
「虫除けの効果がありましたねぇ」 「え、なに?」 「いいえ、何も」
阿久さんを見上げると、いつも通りのにっこり笑顔が私を見下ろしている。けれどその顔は、いつもより少し……ほんの少しなんだけれど、幸せそうだった。